32話 悪役令嬢、敵からの攻撃をすべて無自覚にしのぐ童貞美少女に言葉を失う
――とうとう、仕掛けてきたわね。
今日が勝負、と言ったところだろうか。僅かに震える手を、反対の手で押さえつけて鎮める。すべきこと、気にかける点を一つ一つ脳内で纏めて、自らの中で明文化した。
一つ、オルドジシュカの用意したケーキを、ロレッタの口の中に入る前に処分する。
一つ、それ以外の脅威について、ロレッタに注意喚起する。
一つ、不自然な行動をとって、オルドジシュカに警戒させない。
以前ロレッタを相手取った時とも比べて遥かに困難な仕事に、フランは眩暈がしてくる。だが、これらをやり遂げなければロレッタの身が危ういし、ひいてはブリタニアの未来が危うい。
ちなみに、ワタクシのケーキはどうなのかしら、と一口運んでみる。ロレッタのものとは全く違う風味。ああ、これは特徴があるから分かりやすい、と甘ったるさに辟易しながら吐き出した。
フランのケーキに盛り込まれていたのは、惚れ薬だ。摂取した直後に目を合わせた相手に強制的に恋心を抱いてしまう、貴族に人気の魔法薬である。
となると、自然にオルドジシュカの筋書きも見えようというもの。
奴の目論見では、ロレッタを毒殺し、フランを自分に惚れさせようとしたのだろう。そして自分に惚れたフランに、『あなたがロレッタを毒殺したのだと、周囲に主張して欲しい』とでも命令すれば完璧だ。被害者も犯人も明確な、調査の必要もない事件の完成である。
えげつないシナリオを書くわね、とフランはまだケーキを切り分けているらしいオルドジシュカの方向へと視線を向けた。それから深呼吸をして、やらねば、と覚悟を決める。
そこでオルドジシュカが「ケーキ切り分けてきましたよ~」と戻ってくる。短時間だったし、毒を仕込む時間はなかっただろう。そもそもあのケーキにもいくらか解毒剤を入れてあるが。
活性炭という対経口投与毒物におけるオールラウンダーを混ぜ込んだチョコケーキには、かなりの自信があるフランである。味も美味しい。
とはいえ慢心はいけないので、配られたケーキを素早く口に運ぶ。口に運ぶと濃厚なチョコの味だ。舌で探ったが、おかしな様子はなかった。となると、ロレッタはこのケーキを食べさせて満腹にしてしまえばいい。フランが食べるのも念のためこれだけだ。
「では改めまして、ジシュカちゃんのケーキを」
再びフォークを伸ばすロレッタに、「ほら、ロレッタ。こっちのケーキの方が美味しいわよ。食べさせてあげる。はい、あーん」とフランはまたもや餌付けを開始だ。ロレッタは差し出されたものを拒まないので、これを繰り返せばひとまず毒は食べさせずに済むだろう。
だが、邪魔が入らないとはフランも考えていない。
「あっ、フランソワーズ様! そういうのはマナーが良くないですよ! 公爵令嬢たるもの、下の者に示しがつくようにしてください!」
案の定口を出してきたオルドジシュカの演技力に、まったく舌を巻くばかりだ。本当は毒を食べさせたいだけの癖に、ただの“お友達”を演じるのがお上手ね。とフランは心の底で唾を吐く。
それから、いいわ、付き合ってあげる、と相手の言葉に乗って反論してやった。
「あなたこそ朝はロレッタの綺麗な髪を漉いたり、一緒にお風呂に入ったりと好き勝手しているそうじゃない。そんな小姑みたいなことを言う前に、自分のことを振り返ってみたらどうかしら?」
メイドのレイやビンタ嬢ことシータから集めた情報を元に言ってやると、オルドジシュカは言葉に詰まった。関係ないが、スキンシップにしてもやりすぎなんじゃないの、とちょっと呆れる気持ちがある。姉妹か。
「そっ、それはその、同室になった者同士のコミュニケーションってものです! 他意はありません!」
あくまで恥ずかしがっている、と演じている以上、「ふーん? ま、ワタクシは文句を言うつもりはないけれど、あなたが良くてワタクシがダメというのは筋が通らないわよね?」と釘を刺して再びロレッタの口にケーキを運ぶ。
大人しく口を開けるロレッタの様子は、まるでひな鳥だ。何も知らず幸せそうね、と微笑ましいやら今すぐひっぱたきたいやら。フランの乙女心は複雑である。
だが、それでやり込められるばかりのオルドジシュカではなかった。
「ロレッタ! わたしのケーキも食べてくれるよね?」
「はい?」
そもそも違うことを考えていて話を聞いていなかった、という声色で反応するロレッタに、オルドジシュカはケーキを差し出してきた。マズイ! とフランはとっさに「ロレッタ、後ろ失礼するわよ」と声をかけ、奥のモノを取ろうとする振りをして背中を強く押す。
ロレッタは手を滑らせて、オルドジシュカとケーキに紅茶をかけた。一石二鳥、とフランは心の中で拳を握る。
オルドジシュカ本人が紅茶に手を付けていないのを見るに、これにも毒が入っていたはずだ。うまいタイミングだったと、自分で自分をほめてやりたい。
「あっ、じ、ジシュカちゃん! ごめんなさい! 大丈夫ですか!?」
「もー、気を付けてよ?」
慌てた様子のロレッタと、ちょっとむっとした様子のオルドジシュカ。だが、後者はフランの視界の外から、何処か疑うような目を向けてきた。この様子なら、まだフランを疑いきれていない、というところか。
フランは呆れた振りをしてロレッタを見た。あくまでロレッタがやったと思っているのだと、オルドジシュカに誤認させる。そういった視線誘導は、呪術師以外は行わない。フランが呪術師だとバレていない内は、効果がある。
その甲斐あってか、オルドジシュカはフランから視線を外し、ハンカチ片手に近寄るロレッタに目を移した。フランはほっと胸を撫でおろす。だが、これ以上の強引な対応は難しいか。
視界の端で「……ロレッタ? 拭いてくれないの?」「え、あ、えと、あの、あ、あ……!」と謎のやり取りを行っている二人。今度は本気で呆れた目を向けつつ、好都合だしオルドジシュカには一度この場を離れてもらいましょう、とフランは一つ提案した。
「あら、だいぶ濡れちゃってるじゃない。拭くなんて悠長なこと言ってないで、シャワーを浴びてきたら? こっちの処理はしておくから」
多少大げさだが、それでも不自然ではない提案に、オルドジシュカは躊躇いがちに「えっと……そう、ですね。そうします……」と頷いた。花園の呪術では、こういう状況に即した誘導方が多数ある。国家レベルの呪術にはない優位性だ。
ともあれ、シャワールームに敵が消えた以上、フランが手をこまねいている必要はどこにもない。
「さて、じゃあこのケーキはもう捨てて、と」
ロレッタに妙な横やりを入れられるのも嫌なので、フランは素早く毒物まみれの毒物をゴミ箱へと投下した。ロレッタの目から見ても自然な行動だっただろうから、後々になって疑われることもあるまい。
とはいえ名残惜しかったのか、ロレッタは物寂し気な目をゴミ箱の中に向けている。妙に罪悪感を刺激されるのに耐え兼ね、フランは今度似たようなケーキを持ってこようかしら、などと考えだす。
その時だった。
「お掃除をします!」
謎の宣言と共に、ロレッタは立ち上がった。それから、難しい顔をしながら部屋中を練り歩く。何? 何をしているの? というフランの疑問を余所に、ロレッタは首を何度も傾げながら机のまわりをグルグルと。
そこで不意に、ロレッタは自らの肩の辺りに目を向け、目で何か示す。その様子は、まるでそこに何かフランには見えない何かが居るよう。
そこで何か見つけたらしく、ロレッタは壁の隅に目をやった。フランも何だ、と思いながら見ると、壁のシミらしきものが小さく刻まれている。
――刻まれている?
フランは、その認識に大きな違和感を持った。シミとは、“刻まれるものだっただろうか”。文字通り染み出すはずのものではないのか。なら、これは何だ。シミと誤認してしまったこれは、一体――
ハルトヴィン殿下の言葉を思い出す。オルドジシュカはアレクサンドル大帝国の呪術師。ならば当然、殿下のようにルーン文字にも精通しているはず。
「……ルーン文字」
大きな危機感が、フランを駆り立てた。何をどうしていいのか分からないが、このままではマズイと本能が訴えている。どうすれば。フランは戸惑う。だが、下手に手を出せばその方が危ういかもしれない。しかし――
そんな風に見つめていると、ロレッタがそのシミをさっと凍らせ、そのままシミごと霧散させた。
えっ。
「よし、これで綺麗ですね」
うんうん、と頷くロレッタに、フランはキョトンとして見つめるばかり。えっ、何したのこの子。
そう思っていると、その上さらに何かに気付いたのか、壁の辺りをポンポン叩きながら次第に表情を険しくしていく。なになに、まだ何かあるの?
「……んん? 何ですかこれ。うら若き乙女の園に……まさか監視カメラ!?」
ハッとしたロレッタは素早く握りこぶしをさらに氷で固くして、壁を突き破った。フラン絶句してただ見つめるしかない。すると何かを見つけたようで、ロレッタは奥から剣らしきものを取り出した。
そして呟く。
「……何故……?」
「こっちの台詞よ。何をやっているのあなた……」
フラン、それ以上の言葉が出てこない勢いでロレッタに突っ込んだ。ロレッタはびくっと体を震わせ、小動物のように縮こまって言い訳を始める。
「いや、その、違うんですよ。何かその、シミがあるじゃないですか。綺麗にするじゃないですか。それでポンポンってやったら空洞だったので、何か仕込まれてると思って突き破るじゃないですか。そしたらこれが……」
奇行を咎めているというよりは、オルドジシュカ仕込みの罠の数々を精霊術の力づくで踏み潰して進む、その危険への鋭すぎる嗅覚について質問したかったのだが……ひとまずそれはいい、とフランは顎でロレッタの持つ剣を指す。
「っていうか、何よそれ」
独特な剣ね、と碌に剣についての知識を持たないフランでも思う。片方に反った剣というのは、ブリタニアでは作られないものだ。見ていて何となく脱力するような、生理的に嫌な感じがある。
が、ロレッタはどうとも感じていないらしい。唸りながら、じーっと見つめている。
「分かんないですけど凍らせときましょう」
パキッ、と音を立てて、その剣は凍り付いた。フランは思う。何この子無敵なの? と。
「ふぅー、シャワー浴びてきたよ、ロレッタ。フランソワーズ様も、御目汚し失礼します」
そしてシャワーから帰ってくるオルドジシュカである。フランはもう、どうにでもなれ、という気持ちを込めて返事をした。
「構わないわ。あなたたちの部屋だもの。ワタクシのことは気にせず、ゆっくりなさい」
はい、と首を縦に振ったオルドジシュカが、凍り付いた剣を見て目を丸くする。フランは、ごめんなさいねハルトヴィン殿下、怪しまれないのはほぼ不可能になったわ。と同じ空の下で頑張っているだろう彼へと祈りを捧げる。
案の定顔を真っ青にしたオルドジシュカが、ロレッタが普通にその辺に立てかけた剣を見つめていた。それから、「ろ、ロレッタ、それ……」と問い詰める。
どう答える、とフランもまた注目だ。ロレッタはどう誤魔化すのか。期待して見ていると、「ジシュカちゃん!」とロレッタはオルドジシュカの名を呼んで場の空気を一新して、言った。
「はい、あ、あああ、あーん!」
目をギュッと瞑って、フランが持ってきたチョコレートケーキを差し出す。その様はとても恥ずかしそうで、白磁のような肌が真っ赤に染まっていた。ちょっと笑ってしまうような愛らしさである。こう言うのを素で出来るってズルいわよね、とフランは苦笑だ。
事実オルドジシュカも毒気を抜かれてしまったのか、「え、あ、うん。ありがと……」と言って口を開けてケーキを食べた。フランのケーキが毒入りでないことは確認済みだったのだろう。咀嚼してから、ロレッタに感謝を伝えている。
――そこからだった、ロレッタの真骨頂は。
「じゃあ次はフラン様からジシュカちゃんですね!」
「――――――え」
オルドジシュカ、硬直である。それからフランの手元にあるケーキを見て、顔を蒼白にする。フランも目を落とすと、フランが持ってきたケーキは食べ終わり、残されているケーキはオルドジシュカのものだけ。
つまり、惚れ薬入りのものだ。
「さぁ、一思いにやっちゃってください! それで晴れて仲良し三人組としてやっていきましょう!」
急かす言葉は熱がこもっていて、ロレッタの悪意のなさが伺える。フランも状況を理解するのに少し時間を要するほどだった。
それから、おののく。
ここまで致命的にオルドジシュカを追い込むということを、全て無自覚にやってのけたロレッタの運命に。
オルドジシュカは袋小路に追い詰められたネズミのような顔で、フランへと目を向けていた。恐らくフランがそそのかしたとでも思っているのだろう。
だがフランとて、頑張ったのはロレッタの口に毒物が入らないようにしただけだ。何ならフランの方が驚いている。
しかし、よくよく思えば、以前ロレッタがフランを完封した時も同じだった。この悪意のなさが恐いのよね、とフランは息を吐いてから、「あなたの愛しのロレッタはこう言ってるわよ? ほら、ケーキを運んであげるから、口を大きく開けなさい?」と差し出す。
この辺りが、潮時だろう。惚れ薬とは言え、毒殺を仕掛けてくるような敵が受け入れるはずはない。引き付け続けるのには失敗ね、と思いつつ、それでもロレッタを守り抜けたことに安堵する。
「……それ、は」
「ジシュカちゃん、何か不都合でもありましたか?」
戸惑うオルドジシュカに、小首を傾げて催促するロレッタ。勝負ありだろう、と様子を眺めながら、フランは頭の中で勘定をしていた。オルドジシュカは惚れ薬を拒むためにロレッタから怪しまれないといけないが、フランは呪術師だと露見せずに済んだ。
ならば、こちらに損はほとんどない。あとは、オルドジシュカが観念して拒絶するのを待つだけ――
しかし、彼女はそうしなかった。オルドジシュカは、ロレッタの言葉で覚悟を決めたようで、深呼吸の後、目を瞑ってフランからの“あーん”に食らいつく。
何故、とフランは目を丸くした。フランの考えでは、オルドジシュカがこの一口を受け入れる“理由がない”。確かに目を瞑れば惚れ薬の対象が定まらない。だから一時的な対処法と言えなくもないが、それなら拒めばいいだけのこと。無用な危険を抱えるだけだ。
こんな茶番めいた空気、どうしようもなければ壊せばいいのだ。毒殺を企てるような人間なら当然そうする。だが、オルドジシュカはしなかった。そのちぐはぐさが、フランには不気味に映る。
実際、そのリスクはオルドジシュカに牙をむいた。
「ジシュカちゃんに紅茶のお代わり入れてあげますね」
立ち上がったロレッタが何かに躓いてコケるのを、目を瞑るオルドジシュカには止められなかっただろう。そして、ガラスが割れるような音。今度は何? と様子を見て、カバンから染み出る液体からフランは察した。
どうやらロレッタ、オルドジシュカが万一に用意していた解毒薬を割ったらしい。
フランはあらまぁ、と感心すら抱きながら静観だ。毒使いは、自分に使われた場合を考えて必ず解毒剤を用意する。そしてロレッタは、見事その毒をオルドジシュカへと摂取させたのち解毒薬を破壊した。
可哀想に、とフランはどこか遠い心地で眺めていた。そこにはもう、オルドジシュカへの敵愾心が消え失せている。
それは、間抜けな相手だったという侮りの気持ちではない。
ここまで接していて、人間性の部分で、まったく呪術師らしい裏の顔が伺えない不気味さだ。
「……ろ、ロレッタ? 紅茶もいいんだけど、わたしのカバン取ってもらえる?」
無言で差し出すロレッタは猛省しきりである。受け取るオルドジシュカは湿り気に気付き、驚きに目を開いてしまう。フランは『今日の勝敗、ロレッタの完勝』と心の日記につけておいた。
それから先は、言うまでもないだろう。ロレッタにのぼせ上がったオルドジシュカが部屋を飛び出し、何が悪かったのか分からないロレッタは頭を抱える。フランとしては、ロレッタがオルドジシュカに偽の恋心を抱かせたという、大きな戦果を得た気分だ。
「ロレッタ、あなたほど敵に回したくない相手もいないわね」
そう彼女に伝えてから、後始末は任せてとフランは部屋を出る。
それから、考えた。オルドジシュカはもうロレッタの前に姿を現さないだろう。惚れ薬というものは発動前と後では解除難度が比べ物にならない。つまりロレッタの言いなりにならないために、オルドジシュカはロレッタに近づきもしないという訳だ。
「トントンってところかしら」
ロレッタの暗殺は、もうオルドジシュカには取れない選択肢だ。となれば、違う角度から攻めてくるはず。油断は出来ないが、ひとまず勝ち星を一つ、といったところか。
「ロレッタが思った以上に“番犬”をしてくれることも分かったことだし、次の呪術戦に備えないとね」
にしても、オルドジシュカの人格におけるちぐはぐさは、これからの戦いで読み切れない不確定要素となるかもしれない。ハルトヴィン殿下に探りを入れないとね、とフランは心に留めておく。