22話 童貞美少女、夏を前にしてこの世の春を知る
♡♥♡♥♡♥♡♥♡♥♡♥♡♥♡♥♡♥♡♥♡
静謐な時間だった。
下級貴族クラスの大教室に響くのは、ロレッタの手元で響くチョークの音だけ。黒板に記される膨大な量の数式に、誰もが引いていた。ロレッタにこの問題を振った教師からして、えぇ……という顔をしている。
だが、ロレッタは気づかない。ふふん、といった得意げな顔は完全にいいところを見せていると確信していた。これで同じクラスの女の子や、数学を教えている教師の女性の好感度は爆上がりだろう、と思い込んでいる。
「こんなものでしょうか」
カッ、とロレッタは証明を済ませ、Q.E.D.と筆記体で記す。それを見た生徒たちが、コソコソと「何あの文字、見たことある?」「あれ、ルーン文字じゃないか? 似たようなの帝国旅行で見たことあるぞ?」などと言いあっているのは、無論ロレッタには聞こえない。
「え、ええ、大変すばらしい答えです、ミス・コールドマン。では、席に……」
先生に褒められた! と有頂天で最後尾の席に戻っていくロレッタ。周囲の「結局あれどういう事……?」「全く分かんねぇ……」というざわめきなど、気にも留めない。
「……と、いう訳で、今まで世界中で未解決だった数式が解かれてしまったわけなので、今日の授業はここまでとします……。私は他の数学教師と協議して、この証明をまとめて森の賢者へと提出しなければならないので、では」
教材をまとめてそそくさと教室から出ていってしまう先生に、ロレッタ、アレ? と首を傾げた。地球では童貞の転生数年前にやっと証明された内容だったが、異世界では未解決だったようだ。
残るのはロレッタへと集まる注目と、どよめく生徒たちの声ばかり。さぁ! 女の子たち寄ってきて私のことをほめてくれてもいいんですよ! という心構えは空ぶるばかりだ。
「……いいですもん。私にはフラン様とアルフィーが居ますもん。ふん!」
ちょっと拗ねる気持ちになって、童貞美少女ロレッタは立ち上がった。それから教室を出ていこうとすると、「あの」と声をかけられ立ち止まる。
声の主は、話したこともない黒髪の少女だった。三日月の髪飾りが可愛らしい、穏やかな雰囲気を纏っている。
ロレッタは驚きの余り硬直する中で、彼女はにこりと微笑み「すごいですね、憧れちゃいます」と褒めてくる。
童貞、緊張と照れと嬉しさが爆発し、「しゅいませんでした!」と叫んで逃げ出した。
「それで、あの、もしよろしければ教えてほしいところが……、あれ?」
背後で虚しく響いた交友関係の切っ掛けにも気づかず、童貞は「褒められちゃった! 褒められちゃいました! 今日は良い事尽くめですひゃっほー!」とまだ誰も歩いていない廊下をぴょんぴょん跳ねながら進む。
良い事尽くめなのは何故か。
それは、この後にもフラン様とのお茶会という一大イベントが待っているためである。
♥♡♥♡♥♡♥♡♥♡♥♡♥♡♥♡♥♡♥♡
そんな訳で授業を終えたロレッタは、少し時間が余っているので自室でおめかしに興じていた。
鏡に映るその姿は、何度見ても美しい。処女雪の中より生まれた、凍える霊鳥と対を為す精霊かのような美貌。真っ白でまっすぐに伸ばされた腰まである豊かな髪は、童貞の努力の賜物だ。
スキンケアヘアケア栄養管理その他諸々。いつか結婚して娘が出来たらという妄想のもと前世で培った、膨大な知識が今世で火を噴いた。フロストバード領の凍り付くような気候でも、ロレッタの頬は柔らかくきめ細かい。もちもちすべすべ。もちもちすべすべである。
そしてそんなロレッタの美貌を、十全に輝かせるためのファッションを、今から選ぶところだった。
「ふむ……」
童貞美少女ロレッタ、トロールに追われていた時とは、比べ物にならないほど真剣な顔をしている。何故なら、あの場にはあった“遊び”がこの場には存在しない。大学試験の時のように、自社の一部上場審査期間のように、ただ一心にロレッタをイメージしている。
と言っても、社交パーティでもないただのお茶会だ。ドレスを着るようなことはない。服装そのものはいつも通りの学生服だ。
選んでいるのは、ワンポイントお洒落を彩るリボンだった。
「うむむむむむむ」
日頃は純白の髪を自然にしているだけなのだが、今日は顔見せという事で、例えばビンタ嬢など他の令嬢とも挨拶することになる。となれば、失礼があってはならないために少しでも着飾りたい! という発想に至ったのだ。
え? 一発芸? 何のことを言っているか分かりませんね。お茶会は飲み会じゃないんですよ?
「私には、三つの選択肢があります」
髪色に合わせた白のリボン。フラン様を意識した赤のリボン。そして、コントラストを目立たせる黒のリボン。
正直な話をすれば、どれも似合う。白にすれば清純度が、赤にすれば愛らしさが、黒にすれば大人っぽさがそれぞれ爆上がりだ。ロレッタという極上美少女はどう調理しても可愛い。故に、TPOに合わせることが肝要になる。
「今回は……黒です!」
直観を信じて取ったリボンを、一切の無駄ない動きで髪に結ぶ。髪型はハーフアップ。後頭部の両サイドの髪を少し取って三つ編みにし、それを三つ集めて大きな三つ編みに進化。最後に両サイドの三つ編みを髪の中頃で合流させ、黒のリボンで結ぶ。
たった一分という短時間でそれをやり遂げた童貞は、鏡越しにロレッタの姿を確認して、ほろ、と感動の涙を流す。
「清楚……!」
子供らしいそれではない。大人っぽさの中にお洒落の滲んだ清楚である。つまり神だ。童貞の弛まぬ女性信仰は、その手によって髪を神に昇華させたのだ。
今のロレッタは神である。美少女たちもきっとメロメロにしてしまうに違いない。
「さぁ、出発です! いざ美少女の園へ参らん!」
涙を拭った童貞美少女ロレッタは、勢いよく扉を開け放つ。これより先の楽園を信じて――
「あら、早かったのねロレッタ。その髪型似合ってるわね。さ、ひとまず座って。他の面々が揃う前に、いくらか注意することがあるから」
定刻に先んじてサロン屋敷に訪れたロレッタは、メイドに案内されて庭園に招かれると、紅茶片手に待っていたフラン様に遭遇した。
そしてこの塩対応である。一応気づきつつも、とても素っ気ない。
それに、童貞の心は震える。震え、震え、そして噴き出した。
「流石フラン様……!」
「え、何が?」
努力を無碍にしないながら、簡単には認めないその姿勢は上昇志向の強い童貞には堪らない。きっとそこまで読んでのワンポイント褒めなのだろう。そして同時に、その程度で感動するのは早い、と諫めているのだ。
遥か上からの、全てを掴み切ったうえでの助言である。童貞美少女ロレッタは深く首を垂れ、「精進します……!」と自らの慢心を捨てる。
「本当、あなたの頭の中だけは読み切れないわね、ロレッタ。まぁいいから、席に着きなさい」
感涙しつつも言われるがままに着席すると、冷たさを感じさせる切れ長の瞳をした美人メイドさんが紅茶を入れてくれる。何もかも完璧な空間だ。正直このまま息絶えても多分童貞は笑顔で居られる気がする。百合空間最高。
「さて、では早速注意なのだけど、一応確認するわね。結局、あなたの本当の姓は公表してもいいのかしら?」
「あ、はい。それなんですけれども、まだ折り返しの連絡待ちです。現時点ではまだ判断できかねる、というところでしょうか」
ロレッタは先日近況報告も兼ねて、実家に手紙を送ったことを思い出す。ロレッタの生家ことフロストバード領は結構遠いので、返信はそれなりに後のことになるだろう。
「そう、公式的な公表は出来ない、というところかしら。あなた個人の気持ちではどう?」
「別に気にならないですよ」
「なら、今日集まる面々には話してしまうから、そのつもりでお願いね」
淡々と告げながら紅茶をすすり、ささっとペンでメモに何かを記すフラン様。とても優雅なキャリアウーマンっぽさ、いい。美しい。
「では本題の注意点を述べるわ。ロレッタ、あなたは極力喋らないように。すでに集まる面々で個別に話は通しているから、この茶会が荒れることはないわ。でも、あなたが不適切な言動をすれば話は別。意見を翻しかねない問題行動は控えて頂戴」
「フラン様の御心のままに」
「その慇懃無礼な態度もやめなさいね。あなたのその態度は主人にのみ向けられるもの。そして上級貴族に属するあなたにとっての主人とは、陛下を始めとした王族だけよ。とはいえ砕けすぎるのも良くないから、くれぐれもシータのことをビンタ嬢なんて呼ばないように」
あ、これマジ注意ですね。とロレッタはバツが悪い気持ちで「……はい」と頷く。
「とはいえ、あなた自体のマナーはちゃんとしているから、この点以外の心配はないと思っているわ。弁えているわね?」
「もちろんです。その辺りは全人類のロマンですから」
「マナーね」
ロマンって何よ、とフラン様が怪訝な顔になったところで、メイドさんが「フラン様、シータ様御一行がご到着です」と声をかけてきた。
「通して差し上げて。――ロレッタ、重々、注意なさい」
最後に念押しして、フラン様は表情から強張りを抜いて鷹揚さを加えた。こう言った完璧な表情づくりは、見ていてちょっと感心してしまうほどだ。惚れた欲目抜きでも、ここまでの社交人は前世含めてそう居なかった。
そして、名だたる令嬢たちが現れた。ズッコケ令嬢三人組に加え、十人近い令嬢たちが庭園に姿を現す。
やっぱ楽園じゃないですか。とロレッタは癒しの光景に頬が緩むのを必死に我慢する。
「本日も麗しゅうございます、フランソワーズ様。バラービン侯爵家が長女、シータにございます。本日はお茶会にお招きいただきありがとうございます。花園のサロンに所属する侯爵家、並びに伯爵家の面々を代表して、ご挨拶申し上げます」
ほんでビンタ嬢の挨拶が思った以上に硬い。ロレッタ、にわかに緊張の面持ちになる。
「ええ、御機嫌よう。好きなところに腰かけてもらえるかしら。その後にロレッタからも挨拶させるわ」
「はい。では皆さん、お好きなところに」
とはいえ、それぞれの令嬢がちょこまかと長椅子なりちっちゃいオシャンティーな椅子に座るのを見ていると、心もほぐれるというもの。目上の人にご挨拶、というよりはおままごとする子どもたちに合わせて丁寧になる保護者のような気分になる。
子供なんて出来たこともないが。童貞、コンプレックスを思い出しちょっとげんなりした。
「じゃあ、ロレッタ……何で元気ないのよ」
「いえ、ちょっと全く関係ないトラウマをば……。ごほん」
全員が自分に注目しているのを確認して、ロレッタは立ち上がった。全員美少女だなぁ、こんな空間に居られるロレッタはやっぱり最高だなぁ、と優越感に浸ってしまう。それから、高揚気味の言葉づかいで高らかに名乗った。
「御機嫌よう、高貴な皆様方。すでにお会いしたこともある人もいれば、本日お会いするのが初めての方もいらっしゃいますでしょうか。ロレッタ・コールドマン改め、ロレッタ・フロストバードにございます。以後、お見知りおきを」
淑女の微笑みと礼にスカートを慎ましやかに持ち上げると、半数の令嬢たちが溜息を吐いた。だがフラン様やビンタ嬢を始めとしたズッコケ令嬢三人組はとても嫌そうな顔をしている。あの三人可愛い~。
「本当にフロストバードの人間ですのね……。お話しを聞いた時にはそんなまさかと思っていましたけれど」
ビンタ嬢が言うと、ズッコケ令嬢三人組がうんうん頷いている。そこで、他の令嬢が声を上げた。
「となると、伯爵家のわたくしどもよりも家格が上の辺境伯家という事でございますね。よろしくお願いします、ロレッタ様」
「ろろろろろろろ、ロレッタ様!?」
女の子に様付けされる貴重すぎる体験に、童貞突如の困惑である。顔が真っ赤になり、照れと変な汗がヤバい。
「え、あの……?」
「ロレッタ、もう座っていいわ。あとはワタクシがやるから」
手を引かれて強制的に座らされ、「では細かいこれからの方針について説明するわね」と素早く助け舟を出してくれたフラン様に、童貞は惚れ直す一方である。マジ素敵。そろそろフラン様を褒めるための語彙が足りなくなってきているほどだ。
「現状上級貴族の中でロレッタに対する反感が高まりつつある今ではあるけれど、これでロレッタを花園のサロンに迎えなければならない理由が分かったことかと思うわ。その上で、これからどうするか」
まずロレッタ、とフラン様はこちらを見つめてくる。
「あなたはこれ以上ことが荒立たないように、しばらくアルフィーとの接触は控えなさい。もちろん、以前のように二度と近づくなとは言わないわ。フロストバード辺境伯からの許しや、こちらの準備が整って本当の姓を公表できたら、それ以降は自由にしていい」
期限付きで、という訳らしい。以前ははぐらかして逃げ延びたが、今そうする必要はないだろう。「はい、分かりました」と頷いておく。
次にフラン様は、「シータ」とビンタ嬢を呼んだ。
「まずあなたに、このロレッタのおもりを任せるわ。しばらくはあなたの寄り子という扱いで、出来る限り他の陣営から手出しできないようにしておいて」
「はい。では、ここは一旦失礼して部屋を移動させていただきますわね」
「助かるわ。それで続きだけれど、他のみんなは情報の操作をお願い」
言いながら、フラン様はスムーズに他の令嬢たちに向かう。
「具体的には、生徒会派閥に属さない上級貴族たちの間で、ロレッタに関する噂を複数流してほしいの。例えば王族の庶子であるとか、平民から養子として男爵家に迎えられたとか、そう言った眉唾話を複数ね。そしてその中にフロストバード家である、という真実を――」
何やら高度な情報戦略がフラン様の口から語られる中、ロレッタはビンタ嬢に連れられ庭園を出た。そのままメイドさんの案内に従って、小さな客室に移る。前にフラン様やハルト殿下、アルフィーの三人と話した部屋だ。
そしてその中には、一人、見覚えのある黒髪の美少女が席についていた。
「ロレッタはそこに座りなさい」
ビンタ嬢に言われ、「はい、び、シータ様」と答える。「今ビンタ嬢と言いかけたでしょう」という質問には、頑として首を振った。何を言っているのだろうか失礼な。ビンタ嬢と言いかけて噛んだだけだ。
というか、横。横に座るこの美少女は。とロレッタ、背筋が痛いくらいびしりと伸ばされる。
「こんにちは、今朝の授業以来ですね」
そしてニコリと笑う黒髪美少女である。可愛い。日本人の顔つきではないが、何か近いものを感じる。再び見る三日月を模した髪留めがチャームポイントだ。
「ひゃっ、ひゃい、おひしゃしぶりでしゅ!」
そして毎度のことながら、慣れない内はどちゃくそ緊張する童貞である。こればっかりは死んでも治らなかった。
「……ゴホン。じゃあ早速で申し訳ないですけれど、本題に入らせてもらいますわ」
ビンタ嬢は微妙な顔つきをキリリとさせて、説明を始める。
「先ほどのフランソワーズ様の命令の通り、ロレッタ、あなたは私の寄り子という扱いになったわ。つまり、周辺地域を治める上級貴族と下級貴族の関係、ということ。あくまで便宜上ですけれど」
「直属の上司と部下みたいな関係性ですか?」とロレッタは質問。
「ずいぶん男性的な表現ですけれど、そう認識してもらって構いませんわ。そして、その関係で部屋を移してもらわなければなりませんの」
「なるほど」
恐らく学校側でも、寄り親寄り子関係に配慮した部屋組みがなされているのだろう。どうせ二人部屋を一人で使っていたような寂しい生活である。特に未練はない。
ん、ということは? と童貞、勘づき始める。
「差しあたっては、そこにいるオルドジシュカと同じ部屋に入ってもらいたいのですわ。二人部屋を贅沢に一人で使っていたところ悪いですけれど」
にや、とビンタ嬢が笑うのに呼応して、童貞は興奮と緊張に打ち震えた。「あば、あばばばばばばばばばば」と軽くバグる。そこに、覗き込むようにして黒髪美少女――オルドジシュカちゃんの顔が近づいた。
「あの、大丈夫ですか? 辺境伯なんていうとても高貴な方と同じ部屋なんて、子爵家の私には分不相応だとは分かっているのですが……それでも、短い間ですが、同じ部屋で仲良くなれれば嬉しいです」
「結婚してください」
「え?」
童貞、思わず色んな気持ちが先走って求婚してしまう。ハッとしたときにはもう遅い。ビンタ嬢は顔を青くしてドン引きの目でこちらを見ている。こんな目で見られてしまったら、流石の童貞とて傷つかずには――
「――ふふっ、冗談がお上手なんですね。褒め言葉として、受け取らせていただきます」
天使だ。童貞美少女ロレッタは、確信した。このトチ狂った求婚を変わった冗談だと受け取って微笑む彼女は、まさに天使に違いないのだ、と。
神と天使の住む部屋、爆誕である。




