10話 凡人だから皇太子でもだいたい逃げるが勝ち
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ブリタニア王立学園の魔法特進クラスの授業は、かなりスパルタだ。
元々アレクサンドル帝学院で学んでいたハルトではあったが、流石帝国を除けば最大規模を有するブリタニア=バロン王国連合なだけある。特に先鋭化された魔法研究、戦闘訓練は帝学院の普通クラスでは太刀打ちできないほど、厳しく苛烈なものだった。
「遅いッ! ハルト・アレクトロ! たるんでいるぞ貴様!」
「はぃいいい……!」
要するに、ついていけてなかった。
だだっ広い魔法特進クラス専用の訓練場をひたすらに走る。納得いかないのが、ハルトより明らかに体力のなさそうな連中が、鼻歌交じりにガンガン走ってハルトを置いていくことだ。
成績が酷すぎると退学勧告がされるらしい魔法特進クラスだから、ハルトも必死だった。恥も外聞もなく、汗とかその他色んな汁をまき散らしながら走る、走る、走る。他人のヤジになど耳を貸している暇は完全にない。
「おい、見ろよ……今日もハルト、何の魔法の補助もつけず走ってるぜ」
「それでトップに一周差つけられてないってヤバいよな……。どんな体力してんだアイツ」
どこからか聞こえる自分への声に、どうせ嘲る言葉なのだろう、とガン無視してハルトは死力を引き絞る。
だが、この程度の苦労は本物の死線に比べればどうってことはないのだ。人生初の暗殺者の時とかこれよりきついペースで悪臭ただよう排水路をひた走ったのが思い出される。足場の悪い森とかも嫌だったなぁ、など。それに比べればこの訓練場の走りやすいこと!
無事誰にも一周差つけられずに走りきって、ハルトは地面にぶっ倒れる。だが、少し休息を取ればすぐに復活できるだけの体力を回復できた。短時間の回復能力は、逃亡者にとって必須技能だ。突如掴んだ五分の安息でちゃんと休めなければ、今頃ハルトはここに居ない。
「よし! 休憩終わり! 次は戦闘訓練だ! 各自得意武器を取れ!」
数分もせず言われ、半分以上意識を失っていたハルトは跳び起きた。それを見てぎょっとするクラスメイト達をして「何だ失礼だな」とハルトは小声で愚痴る。
ハルトの得意武器は刀だ。ジパング諸島由来の、細長い片刃剣。だが世界の東端の武器が西端に伝わっているはずもなく、似通ったロングソードの模造剣でひとまずは良しとしている。
「では武器を取り次第、最も近くにいる者と模擬戦を始めよ!」
教官の宣言を皮切りに、甲高い声を上げて切りかかってくる少女が居た。名前はエルザ。魔法特進クラスでも落ちこぼれ気味なハルトを構ってくれる、優しいやんちゃ娘だ。
「隙ありゃぁぁぁぁあああああ!」
「来ると思ってたぜ!」
槍の一撃を剣ではじき返す。一応帝国皇室で剣術指南を受けた身だから、凡人とはいえこの程度の芸当は出来る。だが、長年やっていて結局モノには出来なかった辺りが、ハルトの才能の限界、といったところか。
「くっ、また防がれた! けど今度こそ一本取ってやるからな!」
言いながら、エルザは再び切りかかってくる。だが、ハルトは知っていた。彼女のこの言い草は、あくまでポーズに過ぎないのだと。
理由はもちろん、手加減してくれているだろうという確信からだ。人脈にモノを言わせてほぼ裏口入学みたいな方法を取ったハルトと、性別の壁を突き破って魔法特進クラスに入学したエルザでは、才能の差など計るまでもないだろう。
こういう模擬戦で毎回挑まれて、ボロボロに打ち負かされればそれだけ評定も厳しくなる。それをエルザは気にかけてくれているのだろう。それでも多少激しく打ち合って見えるのだから、彼女も演技派だ。何せ、演技の手加減ですら相手役のハルトは全力なのだから。
「おーおーやってんな、もう純粋な剣術でエルザの相手できるのってハルトくらいなんじゃねぇか?」
「エルザは才能の塊だけど、手加減まったくできないからな……。よくも魔法ナシであれだけ走った後に、エルザの相手なんかできるよな」
ハルトはかなり真剣にエルザの相手をしているため、ほとんど忘我状態で周りの声など何も聞こえない。脳裏に響くのは、模造剣の弾きあう音ばかりだ。演技の打ち合いですら何度か剣が折れるのだから、エルザは全く役者である。
「――そこまでッ! 続いて魔法訓練に移行する! 全員的を設置して、訓練場の端に移動せよ!」
訓練終了の合図とともに、エルザが「今日も一本取れなかったッ!」と悔しがる振りをして、べっと舌を出して向こうへと走っていってしまう。最後まで演技派だなぁ、とハルトは感謝の気持ちを込めて手を振り、自分の分の的を用意しに走った。
さて、魔法訓練だが、これが一番ハルトにとって嫌な訓練だ。魔法というのは基本的に信仰心と神話への理解がモノを言う。神話上の神の所作を真似することで神より力を賜る、というのが根本理念としてあって、さらに言えば国が違うと主流の神も違う。
例えばアレクサンドル大帝国で主流の神は北欧神話、次点でギリシャ神話となる。一方ブリタニアはケルト神話が主流だ。
要は、魔法は使えるがブリタニアで使うと国籍がバレるのだ。
的を用意して、さぁ撃つぞ、という雰囲気が出てくると、毎回嫌になる。元々大した魔法が使える訳ではないが、それにしてもケルト神話についての理解が乏しいハルトとしてはこの時間は苦痛だった。
「では、それぞれ得意な魔法で的を破壊せよ! 破壊に成功したものから今日の訓練を終了とする!」
うへぇ、と思う。横の生徒たちを見るとどいつもこいつも様々な木の種類の杖を持って、先ほどの剣術戦は何だったのかと思うくらい愚直に呪文を唱えている。
「火よ! 球体となりて的を破壊せよ!」
「水よ! 礫となりて的を破壊せよ!」
「風よ! 渦巻きて“巨大なる”暗雲となり、“巨大なる”音を轟かせ的を雷撃せよ!」
風だけ呪文長くて大変そう。
そんな呪文の後、火の玉が飛んだり、氷の礫が飛んだり、雷が一瞬で的を破壊したりと(結局そいつが一番乗りでドヤって訓練場から出てった)騒音がうるさい限りだ。ハルトは耳を塞ぎながら、俺の訓練終了と鼓膜が破れるのどっちが早いだろうと考える。
ケルトの魔法は何でもドルイド云々とか言って、木が重要になるらしい。そんな訳で様々な木質の杖があり、かつ相乗効果を狙うべく剣術を修めるとかなんとか。
多属性の魔法を操る奴は木質を合わせて何本も杖を持っていたりするのが少し文化の違いを感じて面白いところだったが、感情的には面倒な限りだ。何せ北欧神話由来の魔法は、基本的にルーン文字を記すもの。詠唱とか魔法の内容がバレるリスクでは、とすら思う。
「郷に入っては、か」
言い訳がましい文句を、ハルトは自分の中でねじ伏せる。それからこの杖の木質何だったかと思いながら「火よ!」とか「水よ!」とか言ってみる。
無論のこと、何も出ない。
「……こっそりルーン文字書いちまえ」
親指で杖に火の意味を有するルーン文字を記し、「火よ! 的壊せ的!」とか適当言いながらルーンを発動させる。すると周りと大体同じくらいの火の玉が飛び出て的にぶつかり、ルーンに込めた延焼効果で的に火がついて勝手に燃え始める。
あとは放置するだけだ。一分も経たないうちに全焼するだろう、と教官に許可を取って、そのまま訓練終了だ。ズルをしたのもあって、ハルトは目立たないように背を縮こまらせて訓練場を出ていく。
「ハルト、あんな雑な詠唱で的をしっかり燃やすなんて、余程神に愛されてるんだろうな」
「普通の火球じゃ燃えないもんなあの的……」
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訓練着から普段の制服に戻って、ハルトは大きく伸びをした。今日の授業先ほどの訓練が最後で、これからは自由時間だ。
なのでいつもなら適当に歓楽街にでも出て、ナサニエルとかいう少女を探したり、エルザとか気心の知れた連中と共に夕食にでも行ったりするのだが、今日は少々事情が違ったらしい。
「あなた、ハルト・アレクトロよね」
魔法特進クラスの廊下で、身に覚えのない女子五人組に、ハルトは素早く壁際に囲まれていた。
「あ、ああ、そうだけど……?」
ちょっと引きつった顔で、ハルトはこくこくと頷く。ハルトの真正面から詰めてくる赤毛長髪の小柄な女子は、制服の洒脱な柄を見る限り上級貴族クラスの人間だろう。つまり、いずれブリタニアの国政を担う人間の一人、という訳だ。
要するに、学校を通う上で一番睨まれてはいけない人間である。やっべーやっべー、とハルトは早くも逃げる算段を立て始める。
「先日あなたに手紙を差し上げた、フランソワーズ・アストヒク・ブルゴーニュ、という者よ。渡しに言ったメイドがにべもなく断られた、という話だったのだけれど、ご存知かしら」
「いやぁー、すいませんが、ちょっと記憶にないですね」
と言いつつ、ハルトは背中に冷や汗をかき始める。あの手紙の後調べたのだ。悪徳公爵ブルゴーニュ卿。かつての執政を欺いて失脚させた、反発貴族の弱みを握って黙らせた、民衆の暴動を弾圧で押し潰したと、悪評の出ること出ること。その娘がまともである訳がない。
表向きナサニエル・フロスト関連だという前置きは聞いていたが、ハルトとて身分を偽ってブリタニアに来ている身だ。まさか口の堅い学園長が皇太子の身分を明かしているはずはないが、国籍くらいはバレていてもおかしくない。
状況如何で国外追放からの近衛隊による捕縛、からの本国連行まで予見したハルト、もう後がないと決めて、逃亡ルートを確定させた。
「それで、一体何の用事ですか?」
言いながら、窓を開ける。それに、ブルゴーニュ嬢でない気の強そうな令嬢が口を挟んだ。
「ここは三階よ? 窓から脱出なんて考えないことね」
「いやいやそんな……、ここから飛び降りたら大怪我しちゃうじゃないですか。そんなこと、俺はしませんよ」
少し風にあたりたくなっただけです。と念押ししながら、ハルトは窓際に腰かける。
「用件は、ナサニエル・フロストについてよ」
力ある眼光。自信にあふれた態度。その気品あふれる所作は、ブルゴーニュ嬢が誰よりも小さな体躯であることを忘れさせる。恐らくだが、舌戦では勝ち目はないだろう。こういうのは、見ればわかる。
「はぁ、実を言うと俺も彼女については詳しく知らないんですよね。だからどこから話していいものやら」
「そうね。ではまず情報の共有から行きましょう」
ブルゴーニュ嬢は、ハルトに告げる。
「彼女の本名は、ナサニエル・フロストではないわ。偽名よ。本名は、ロレッタ・コールドマン。コールドマン男爵家の一人娘」
「へぇえ、それは知りませんでした。本人から直接そう聞いていたもので」
コールドマン? フロストバード領で会った彼女が、フロストすら名に冠していない? という疑問はおくびにも出さないで、ハルトはすっとぼけた返事を返す。
「ええ、そうよ。つまり、彼女はあなたに偽名を伝えたの。何故でしょうね? 何か後ろめたいことでもあったのかしら。アレクトロさん、あなた、何か知っている?」
ハルトは、吟味にかける。かつて命を救われ、しかも更なる困難からも遠ざけられた。その上借りを返そうとしたら要らないとまで言われてしまったのだ。事件後大事にならないようルーンでバカ貴族の記憶を飛ばしておいたが、それはハルトが勝手にやったこと。
恐らくだが、このブルゴーニュ嬢はハルトの素性については何も知らないだろう。だが彼女は、ナサニエル・フロスト――ロレッタ・コールドマンの弱みを握ろうとしている。
何があったのかは分からないが、ひとまずハルトに示された選択肢は二つだ。ここですんなり「ロレッタは侯爵家の息子を脅しました!」と告げるか、もしくは黙秘するか。前者はハルトに危険が及ばない。後者は悪徳公爵の娘を敵に回すリスクがある。
だが、正直、考えるまでもないことだ。
ハルトは借りを返そうとして、まだ返せていないのだから。
「いやぁすいません。ちょっと分からないですね。俺にはとんと見当も」
明らかに惚けていると分かる回答に、令嬢五人の圧が見るからに強まった。悪漢五人に囲まれるよりも、あるいは怖いかもしれない、と上級貴族たちを見る。特に、ブルゴーニュ嬢は笑みを湛えているのにも関わらず、すさまじい迫力だ。
だから、そのまま怖がってやることにした。
「え、ちょ、ちょっと、何で睨むんですか。怖いですよ――っと!?」
五人の圧力に後退する、と言った雰囲気から、ハルトは窓に腰かけたまま重心を崩して見せた。令嬢たちの表情に驚きが走る。その隙に、ハルトは窓から落ちた。
落下。三階の窓から、しかも頭を下にして。このまま地面に激突すれば死を覚悟する怪我を負うだろう。だが、ハルトは対応策を持っている。
「グレイプニル」
ハルトの腕、制服の袖内から、黒曜石を先端に付けた魔法の紐が走った。それは窓沿いを進み、天井のへりに突き刺さる。ハルトはグレイプニルと呼ばれるこのアーティファクトを握り、自身の落下を止めて壁を足場に素早く体勢を立て直し、そして跳躍する。
「縮め」
窓からは見えない角度でハルトは急上昇だ。目にも留まらぬ早業で天井の上に着地し、グレイプニルを回収する。その直後、令嬢たちは窓から身を乗り出した。それぞれが下を覗き込み、「え、どこ!? どこに落ちましたの!?」だの「い、今すぐ魔法医を!」と叫んでいる。
「……作戦だーいせーいこーう」
こっそりとその様を上から眺めて、ハルトは逃亡達成ににんまりと笑う。さて、このまま適当な場所から着地して、歓楽区域にでも遊びに行くか、と伸びをしたところで―――
「……」「「……」」
隣の建物の窓からあんぐりと口を開けてこちらを見る二人と、目が合った。
「……ナサニエル、じゃねぇ。ロレッタ・コールドマンじゃんか。しかも、何でとなりにブリタニアの第二王子が」
二人はポカンとハルトを見て、それから慌てふためく令嬢たちに目をやる。あやっべバレたバレた、と思いつつも、ハルトも念願のロレッタとの再会にこの場から離れるのを躊躇ってしまう。
二人の反応は、似通ったものだった。まずロレッタは状況を理解したのかしていないのか、慌てている令嬢たちを眺めとてもご満悦に微笑んでいる。その顔はまるで子猫たちの戯れを見ているかのようだ。一方第二王子はハルトを見てキラキラと目を輝かせている。
「え、何でちょっと憧れられてる感じの目で見られてんだ、俺」
と漏らした独り言で我に返ったハルトは、素早く踵を返して屋根伝いにその場を後にした。その後は問題なく歓楽街に出られたが、絶対この後事情拗れるという予感と、ロレッタに再会できた嬉しさに、どんな顔をすればいいのか分からなかった。