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現世・幽世・狭間の世

作者: 秋月雅哉













壱 人の世の物語






世界は日々生まれ、消えていく。人の世で生きる者に、ここで物語と命題を一つ。




私にとっての世界が変わったのは、四年ほど前のことだった。


大げさと笑われるかもしれない。けれど日常も常識も、全てあの時を境に変わったのは間違いない。


未確認飛行物体や未確認生物、心霊現象や超常現象。それは四年前まではテレビの中にある、本物か偽物かで考えれば偽物のイメージのあるものだった。


あるいはファンタジー小説の世界の物事。


結婚を多分お互い意識しながら交際していた男性に、打ち明けなければいけないことがあると言われたのは、今でも暑さと蝉時雨が鮮やかによみがえる夏の日のことだった。


『自分は人間ではない。家族の振りをして暮らしてきた人たちも、人外の存在だ』


最初は冗談を言っているのだと思った。折しも夏、怪談の特集が組まれる季節だったから。


けれど証明に、と見せられた本来の姿の彼は紛れもなく人外の存在で。


結婚を考えているからこそ、隠すわけにはいかないと思ったという言葉に、吸血鬼なのだと知って尚、自分を愛してくれるかという問いに一時は心が激しく揺れた。


生きる世界が違う。


生きる時間が違う。


きっと、見てきたものだって本当は凄く違う。


何より、結婚した後私は人として生きていくのか、それとも吸血鬼の妻として生きていくのか。


そんなこと、考えたこともなかった。考える必要もないと思っていた。


それ位、遠くにいる存在が、実はずっと隣にいたのだと衝撃を受けた。


結論が出るまでしばらく距離を置こう、と言った彼が帰っていった後は、もう会えないんじゃないか、これでお別れなんじゃないか、その時私は悲しむだろうか、


それとも人の世で生きて他の人と結ばれるのが幸せなんだろうか、そんな自問自答を繰り返した。


結局、私は彼と結婚する道を選んだ。生きる世界が違っても、生きる時間が違っても、彼が今まで私に注いでくれた愛情に嘘はないと信じられたから。


彼の手を、離したくないと思ったから。例えその道が険しく茨に包まれた道だとしても、共に歩める限りは共に歩もうと誓った。


お互いの両親への挨拶をするため、彼の郷里…ということになっている町を訪れたのはそれからしばらくしてからのこと。


優麗荘、というアパートで彼の両親と弟が暮らしているそうだ。


秋風に黄金色の稲穂がたなびき、夕焼けが山に沈む町。


都会のような喧騒と華やかさはないけれど、地に足をつけて生きる人々の営みが感じられるような気がした。


「田舎だから、交通機関の乗り継ぎで疲れただろう?」


「大丈夫」


「会ってもらうのは、一応両親と弟ってことになってはいるけど、血のつながりもないし種族も違うんだ」


「どうしてそれなのに家族として暮らすことになったの?」


「人の世で生きる時に都合がいいから、かな。同じ種族で家族を構成している場合が多いんだけど、俺たちは半端者の集まりっていうか」


「?」


「俺は遠い昔人で、吸血鬼の牙を受け入れて吸血鬼になった。


母ってことになってる鬼女は、恨みつらみに飲まれて鬼になった元人間だし、父親は人の妄執が凝り固まってできた亡者。


弟は俺と似て、人狼の牙を受け入れて物の怪になった。


要するに全員純血の物の怪ではなくて、妖の世界だと浮いてしまうから人の世の片隅で家族の振りをして生きてるんだ。…あまり仲は良くないけどな」


「そうなんだ……上手くやっていけるかな」


「こっちに帰ってくるとしても仕事が休めるのは盆と正月、ゴールデンウィーク位だし、そんなに深刻に悩むことはない。


向こうも距離を測りかねているという意味では俺たちと同じさ」


「そう、なのかな…」


「できればあまり積極的には会わせたくない人たちだな…俺にとっては家族なんだけど」


彼の目が暗く翳る。


「…そんなに仲が悪いの?」


「両親は恨みつらみや妄執から物の怪になった存在だから機嫌のいい時はともかく機嫌が悪くなると手が付けられない程暴れるし、弟は…なんていうか少し、変わってるから。


親近感っていうのは誰に対しても持てないかな…人間の方が、正体を知られなければ優しいし温かい、家族より大事な存在だよ、俺にとっては」


正体を知られなければ。そんな前提をつけなければいけないことが、なんだか寂しい。


私はここにいるよ、貴方の傍にいるよ、貴方が望み、時間が許してくれる限り、ずっとずっと隣にいるよ。


そんな思いを伝えたくて、言葉で伝えればなお遠くなる気がして、彼の手をそっと握る。


彼は驚いたようだけれど、手を振り払いはしなかった。


「優麗荘って名前はついてるけど優麗というよりお化けの方の幽霊の字が合いそうな古いアパートでさ。


住民も人間の振りしてこっちの世界で暮らすことを選んだ物の怪が多いんだ。


だからちょっとびっくりするかもしれないし、夜は部屋から出ない方が良いと思う」


「優麗荘に幽霊、か。なんだか狙ったみたいなネーミングだね」


「噂になった時冗談で済むようにわざとそんな名前にしたのかもしれないな」


田園風景を映した電車の窓の景色が動きを止め、停車のアナウンスに荷物を網棚から降ろしてホームに降り立つ。


駅まで彼のご両親…ということになっている方たちが迎えに来てくれるとのことだった。


「あぁ、もう来てる。結婚の挨拶だから、張り切ったのかな」


「優、久し振り」


「元気にしていたか?」


私の両親と外見の年は同じ位に見える。でもきっと実際に生きてきた時間は相当違うんだろうな…。初めて会う、彼の家族。緊張で息が詰まりそう。


「初めまして。千鶴と言います」


「優の母です。田舎でびっくりしたでしょう?」


「都会に比べると何もないところだけれどゆっくりしていってください」


恨みつらみや妄執が、と言われていたから厳めしい人たちだと先入観を抱いていたけれど二人とも穏やかに笑っている。


「人の家じゃゆっくりできないでしょうけど、とりあえず家に行きましょう。立ち話もなんだから。お父さん、安全運転でお願いしますね」


「分かっているよ。今日は道も混んでいないしそれほど遠くに行くわけじゃないから飛ばす理由もない」


「…二人とも、標準語喋ろうと頑張ってるんだな。なんか変な感じがする」


「訛だと優はともかく千鶴さんと話が弾まないでしょう。母さんたちだって頑張るときは頑張るのよ」


「いつまで続くかは分からんがな」


大らかに笑う二人に先導されて車に荷物を積み、後部座席に乗り込む。


車の中での会話は、優さんとどこで出会ったのか、といったもので、物の怪や妖についての突っ込んだ話は出なかった。


やがて車が止まったのは二階建ての賃貸住宅の駐車場。 壁に蔦が絡み、敷地を区切るように杉の木が植えられていた。


「ボロボロでびっくりした?」


「いえ、そんなことは…」


「いいのいいの、古いのは本当だから。物音が響くかもしれないけれど帰省中は我慢してもらえると助かるわ」


二階の角部屋が借りている部屋だということで、荷物を持って錆の浮いた階段を上がる。


鍵を開けて招き入れてもらい、靴を脱いで視線を上げると、私より一つか二つ下に見える青年と目が合った。


「こんにちは、幽霊荘へようこそ、お嬢サン。いや義姉サンとお呼びするべきですかネ。


化け物の巣窟にくるとは剛毅な方だ」


カラカラと笑いながらそんな風に言葉を紡いだその青年に、優さんや彼のご家族は一様に渋い顔をした。


「樹、失礼なことを言うんじゃありません!」


「本当のことを言って何が悪いんです。図星さされて逆切れするのはみっともないですよ母サン?


あまり怒ってると人に化けていても角が消えなくなるかも。なんてね。ケケケ」


「樹!」


「やれやれアタシはお呼びじゃないようだ。もとより人の文化には疎いですからねェ。接触は最小限にしておけっていうんでしょう?


引っ込みますからそう怒鳴りなさんな。近所迷惑ですよ。このアパートは壁も薄いし古いから防音性なんてないですしねェ」


プライバシーの欠片もありゃあしない、そういって樹と呼ばれた青年が襖の陰に引っ込む。三人分の溜息が玄関に落ちた。


「すまんね、千鶴さん。あれは昔から変わり者で…どこにいっても馴染めないせいか世界を斜にみるようなところがあってね。不快な思いをしただろう?」


義父となる人の苦々しげな言葉に緩く首を振る。


「吃驚はしましたけど…最初から打ち解けられるとは思っていませんでしたし、少しずつ距離を縮められたらうれしいです。家族として、迎え入れてもらえるように」


「素敵なお嬢さんを見つけたわね、優。人間、と聞いた時はどうなる事かと思ったものだけれど…心根の優しい人で良かったわ」


義母となる人が頬に手を当てて吐息を漏らした後私を見て微笑む。


「…人間か妖かなんて、関係ないよ。人間にだっていい人も悪い人もいるし、妖にだって気のいい奴も性根の悪いやつもいる。父さんも母さんも、それは分かってるだろう?」


「でもねぇ…上辺だけの付き合いなら、人とも折り合いをつけられるものだけれど、結婚となると話は別でしょう?


生きる時間も、見てきたものも、常識として捉えているものも、まるっきり違う。


私たちは本性を見せれば人からすれば化け物でしかない。それは優だってしっているでしょう」


「そうだけど…」


こんな時、改めて実感する。ヒトの姿をしていても今私を取り囲んでいるのは、似て非なる生き物なのだと。


隣り合う世界に生きる隣人たちの輪の中に、私は入っていけるだろうか。


彼らは私を受け入れてくれるだろうか。拒まれるだろうか。私にとって優さんは生涯を共にしたい伴侶だ。


でもそれ以外の妖はどうだろう。化け物でないと、言い切れるだろうか。それともそう考える私の方が彼らにとっては化け物なのだろうか。


無意識に握りしめた拳が暖かくて大きな手で包まれる。見上げると、つい先刻私が籠めた思いを返してくれるかのようにそっと私を見つめて微笑む優さんの姿があった。


…そうだ。 たとえ受け入れてもらえなくても、世界中に誰一人味方がいなくても、私には優さんがいる。


私が愛し抜くと定め、私を愛し抜いてくれるであろう人がいる。


隔たりはある。国籍が違う、という悩みより高い壁がある。それでも私は優さんを信じている。


それなら、二人で道を切り開いていけばいいんだ。


妖の世界で分からないことは一つずつこの身をもって知っていけばいい。拒まれても受け入れられる努力を続けて、妖の世界で暮らす日がくるなら片隅にでも生きる場所があればいい。


私はただ優さんと、自分の思いを信じればいい。綺麗ごとでも、空元気でも、何もないよりはずっといい。


「まぁ、まずはお茶でも。長旅だったし疲れているでしょう」


場を仕切り直すように優さんのお母さんがぱたぱたと台所があると思しき方向へかけていく。


「ちらかっているが、寛いでもらえると嬉しい」


「…掃除、しなかったのか?」


優さんが咎めるように父親を見て、息子の視線に父親は困ったように肩をすくめる。


「したさ。でも古いアパートだろう、収納が少ないからしまう場所がなくてね。結局出しっぱなしになる。樹の伏魔殿よりはましだから、それで勘弁してくれ」


「樹の部屋と比べられてもなぁ…」


樹さん…さっき顔を見せてくれた、私の義弟になる存在。わざと周りを攪乱しているように見えたのは、勘ぐり過ぎだろうか。


自分で周りから距離を置きながら、周りに煙たがられるように仕組みながら、彼の眼がどこか悲しげに見えたのはどうしてだろう。


「お茶請け、もっとちゃんとしたのがよかったかしらねぇ。あまり気負いすぎると気を使わせてしまうかと思ってスーパーで買った物なんだけど」


「気負ったもの、って言ってもこの辺デパートなんてないだろ。あんまり安物でもあれかもしれないけど」


居間に通され座布団を進められる。テーブルには緑茶と、大手製菓メーカーのお菓子。


「地元ならではの物、とか考えたんだけれどねぇ。あんまりないじゃない?この辺の銘菓って。米菓ならあるけれど若い人にあうか分からなくって」


「まぁ我慢してもらおうじゃないか、折角のお茶が冷めてしまう」


「あらあら、そうね、ごめんなさい」


朗らかなお母さんは美里。そんな妻を窘めるお父さんは正志、と名乗った。


そこで初めて彼のご両親の名前を聞いていなかったことに気づいて興味がまるでなかったと誤解されるのでは、と少し焦る。


それを表情から読み取ったのだろう、美里さんはゆっくりと首を振りながら安心させるように笑ってくれた。


「よそ様のようには、お互い行き届かないでしょうから。あんまり気を張らずに行きましょう。ね?


少しずつ距離を縮めていかないと私たちのような生き物と接する時は失敗がつきものだから」


「…はい」


「千鶴さん、本当に息子と……いや、血のつながりがないのに息子と呼ぶのはおかしいか。優と連れ添っていく覚悟が君にはあるのかね。


失礼な問いだとは思うが、これだけははっきりさせておかなくてはいけない。私たちは人間の社会の中でひっそりと生きていかなければいけない存在だ。


不用意に行動して、物の怪が現代社会にも存在する、フィクションの世界の生き物ではない、としれれば仲間たちにも迷惑がかかる」


正志さんが居住まいを正し、真摯な表情で私に問いかける。 それだけ、人間の社会で彼らのような存在が生きていくということは難しい事なのだろう。


答える私も、自然と背筋を伸ばしていた。呼吸を一つ。


「私は優さんを信じています。他の…物の怪の方々と上手くやっていけるかどうか。それは実際に言葉を交わしてみなければわかりません。


人間の世に留まり続けるのか、それとも優さんのように牙を受けて転化するのか、それすらはっきりしていません。


そんな今の私が言えることは…私が生きる場所は、優さんが生きる場所、その隣で在りたいと願っているという事です。


私に許された時間の中で、出来るだけ多くの思い出を優さんと作りたい。それだけです。ご不満かとは思いますが…それを答えとさせていただけないでしょうか」


しん、と沈黙が降りる。結婚を許可してもらえなかったらどうしよう。一応お互い成人はしているから保護者の許可なく結婚しても法律には触れないはずだけれど、できれば円満な形で結婚を迎えたい。


不安で胸が早鐘を打つ。


「いいお嬢さんを見つけたな、優」


沈黙を破ったのは、正志さんのそんな言葉と先程とは打って変わって穏やかな笑みだった。


「優、同じ問いを貴方にもしないといけないわ。私たちは人間とは似て非なるもの。


それは私たちより長く生きている貴方の方がよく分かっているでしょう。物の怪は人の世で暮らす以上人として行動し、怪しまれてはいけない。


千鶴さんと一緒に生活するうえで、今まで以上の注意を払って、千鶴さんと、同胞。両方を守っていけると覚悟を決めたうえでプロポーズしたの?」


優さんに問いかけた美里さんの表情も、真剣そのものだった。


「俺は確かに二人より長い時間人と一緒に過ごしてきた。俺自身が人だった時もあった。多くの人と出会い、別れ、死を見送ってきた。


時には友人として、時にはライバルとして。そして時には恋人として。でも生涯の伴侶に迎えたいと思った女性は千鶴ただ一人だよ。


彼女なら同胞たちをいたずらに刺激しない、距離の置き方を一生懸命に学んでくれると信じてるし、


そんな彼女と最終的に生きる時間が違うことになっても最後まで添い遂げたいと思った。それが全てだ」


優さんが二人をしっかりと見つめたままきっぱりと言い切る。


「そこまで二人が言うなら、反対はしないわ。貴方たちの行く末がどうなるか見守るのも、かりそめの親の役目でしょう」


美里さんがふぅ、と息を吐いてお茶を一口飲む。正志さんもそれに習った。


「芯の強いお嬢さんだ。優をよろしく頼みます」


「こちらこそ…」


受け入れる、まではいかないのかもしれない。それでも譲歩はしてくれたのだということに感謝して頭を下げる。


「夕食までにはまだ時間があるし、すこしゆっくり休むといいわ。来て早々重い話で肉体的にも精神的にもつかれているでしょう」


お茶を楽しんだ後は客間に通してもらった。


「やっぱり…緊張するね」


「そうだな。お疲れ様」


大きな手が宥めるように私の頭を軽く撫でる。その手は温かくて優しくて、触れられた時に一番ほっとする、いざという時きっと頼りにする。


そんな何よりも誰よりも心の深い場所に住んでいる人の手だった。


「ここで、優さんは暮らしていたんだね」


「そうだな。ちょうどこの部屋。客間にしてたんだな…」


あんまり帰省してなかったから知らなかった、と懐かしそうに目を細めて優さんは元自室だという部屋を見渡す。


「三泊四日だし、今日は疲れてるだろうからやめておくけど明日は地元を少し案内しようか。


…俺も、あんまり覚えてないから凄く変わっててナビゲーターには不向きかもしれないけど」


「そうだね。優さんが案内してくれるなら是非」


ポツリポツリと途切れがちに、けれど決して切れることなく続く会話。


都会の喧騒と違ってこちらの昼間は静かだ。


夏だったらきっとプロポーズをされた時のようにここでも蝉時雨が聞こえてくるんだろうな…。


「この辺、俺が小さい頃は夏だと蛍とかもみれてさ。田舎だけど、引っ越してみてあぁ、田舎で不便なことも多いけど自然の豊かさっていう財産もあるんだなって実感したりしたよ」


「そうなんだ。お盆とか、お祭りもあったりするの?」


「あぁ。小さい規模だけど盆踊り大会と花火大会があって、道路に縁日が出来て…樹がたまに出かけて行って土産だ、とかよくわからないもの買って来てたりしてたな」


「よくわからないもの?」


「縁日って言ったらお好み焼きとかたこ焼きとか…後はわたあめとかお面とか、光る玩具とかだろう?」


「そうだね、あとはプラスチックの宝石掴みとかスーパーボールすくいとか金魚すくいとか」


「あぁ、そうそう。普通はそんな感じなんだよな。でもアイツが持ってきた土産っつーのがなんか射的だったかくじだったかで当てたって言ってたけど、


変なオブジェみたいなやつでさ。扱いに困った結果、今はどうなってるんだろうな、あれ。十年くらい前の話しなんだけど」


アイツだけは昔からこれっぽっちも変わってないよ、と優さんは樹さんについて苦笑気味に評価を下した。


「子供の振りしてた頃とかも修学旅行とかいくとさ、本当どこで見つけてきたんだよっていう変な物ばっかり買ってきて母さんが怒るんだよな」


あまり家族仲が良くないと言っていたけれど、優さんの言葉は穏やかで表情は柔らかい。


きっと支え合って生きてきて、その中で衝突したりもあったのけれど、決してそればかりではなかったのだろう。温かい記憶も、少ないかもしれないけれどあったのだろう。


そう教えてくれる態度に、少しほっとした。家族として生きてきたのにいがみ合いばかりではきっと悲しいから。


「あぁ、あと蛍じゃないけどここだけでしか見れないものっていうと鬼火とか狐火とか人魂かな。ここの住民…っていっていいのかな。


寄ってくるんだ。綺麗だけど人から見ると怪奇現象そのものだからもしかすると怖いかもしれないな。


そういう感覚は、俺は割と麻痺してるから千鶴が綺麗だと思うか怖い物だと思うかはちょっと予想できないな…」


害はないし見てる分には色とりどりの蛍とかイルミネーションがふわふわしてる感じなんだけど、と私がどう思うのかを想像しようと眉間にしわを寄せて考え込む優さん。


こうやって、種族の隔たりを越えて私と同じ視点で物を見ようとする態度を取ってくれる優さんだから、私はきっと惹かれたんだと思う。


そして出来る事なら私も同じ視点で彼の世界を見ていきたい。 物見遊山ではなく、そこに地に足をつけて生きる存在として。


「樹さんって、結構独特な人みたいだね。わざと周りを混乱させようとしてるように見えたかな」


「そうだな…アイツが本音で話してるのか、それとも道化を演じてるのか正直俺にもよくわからない。


ストレートに感情を見せる事っていうのがないからなぁ。…打ち解けるつもりはないっていう意思表示、なのかな」


「妖の世界でもうまくいかなくて斜に構えてるって言われてたみたいだけど…」


「そうでもなかったよ。…まぁ、万人とうまく当たり障りなく付き合うタイプではなかったけど。うぅん、なんて言えばいいかな。


癖のある連中っていうか、人や妖と付き合うことをどっか苦手としてる相手からは割と話しやすい相手になってたみたいだ。


本音をはぐらかして、自分の領分に踏み込んでこない、けど饒舌だから沈黙で気を使うこともないって感じだったかな。


本人に聞くと多分『アタシはただの道化ですよ』とか言ってごまかすんだろうけど、さっきのあれとかも多分千鶴が妖の義弟、しかも実年齢は自分も何倍も上っていう相手に接する時に避ける理由を作るためにわざと攪乱させたのかも」


母さんと父さんの受けは悪いけど、と今度はため息。


「本当の親子じゃないんだけどさ、やっぱり人間として生きる上では自然と世間体気にしたり自分の子供に当たる俺や樹のことをしっかり監督しなきゃって責任感はあるみたいでさ。


樹は縛られるのが嫌なのか他に理由があるのか、多分わざと嫌われる態度を取ってる」


その辺が斜に構えてるように見えるんじゃないかな、と言って優さんは言葉を締めくくった。


「…人の世で生きるのも、妖の世で生きるのも、デリケートな部分があるから樹さんなりに気を使った結果、なのかな」


「どうだろうな。アイツの事は多分、アイツ自身にも分からなくなってるんじゃないかな。嘘と冗談と演技で自分を誤魔化すようになって大分たつし」


「大分って事はそうなる前の樹さんも知ってるの?」


「吸血鬼の牙を受けた後、妖の世界にいたころに少し世話になった。牙を与えてくれた人が長く生きすぎたって霊廟で眠ることを選んだから…もう何百年も前の話だけど。


あの頃のアイツは結構世話焼きで、まっすぐで、親切で。そうだな、その頃のアイツを知ってるから余計に今のアイツに俺は複雑な思いを抱くのかもしれない。


一緒に暮らしてた頃も俺が自立してからはふらふらっとどっかにいって暫く帰ってこなかったり、帰ってきてみると変な土産持ってきたり。


変わったのは…俺が妖の世界に慣れて、子守役をする必要がなくなったころ、かな。最初は戸惑ったよ。別人みたいに性格が変わったし」


でも、と優さんは天井を仰ぐ。


「そうやって人の世で生きる時の距離の取り方を教えるつもりだったのかもしれないな」


「樹さんの方が先輩なんだ?」


「家族の中では一番長く生きてるよ」


……その分、別れもたくさん経験してきたのかな。それをたった一人で耐えてきたのだろうか。それは寂しい事だと、人間の私は思ってしまうけれど妖の樹さんはどうだったんだろう。


もっと親しくなれたら、聞いても不快な思いをさせずに尋ねることができるだろうか。


それとも親しくなっても聞いてはいけない領域だろうか。 そんなことを考えながら優さんに妖について教わっている内に夕食の時間になったとかで美里さんが私たちを呼びに来た。


手料理と出前のお寿司を頂いて、お風呂は秘湯だという温泉に連れていってもらって、都会に比べると驚くほど星が良く見えて代わりに街頭やネオンの少なさから圧倒的な夜の気配を感じる時間になる。


優さんは美里さんと正志さんと話してくる、と言って部屋を出ていったので今は部屋には私一人だ。


(そういえば狐火や鬼火や人魂が見えるって言ってたっけ…害はないとも言っていたし、ちょっと見て見ようかな)


彼の住む世界の片鱗に、すこしでも触れてみたいと思ってベランダに通じる窓を開ける。


「初対面の時も言った気がしましたが剛毅なお嬢さんだ。夜は危ないから部屋から出ない方が良い、とここの住民はアナタに忠告をしなかったのかな」


誰もいないと思っていたベランダで突然声をかけられ、悲鳴を飲み込む。飲み込むことができたのは昼間彼の声を聴いていたからだろう。


「樹さん…」


「どうも。北の夜は冷えますよ。人間は脆弱ですから風邪をひかないようご注意なさい。


兄サンの大事な人ですからね。…でも、人はあっけなく死ぬ。だからもっと自分を大事にしないと駄目ですよ?」


飄々とした口調の中に、何処か昼間とは違った温かさを感じた。


「何か聞きたいことがある、そんな顔をしていますね。気が向いたら答えてもいいですよ。今日は月が綺麗ですからね」


人狼、ということは月の満ち欠けに体調が左右されたりするのだろうか。 見上げてみれば確かに綺麗な満月。


「不躾だったらすみません、樹さんにとって人というのはどういう風に見えているんですか?」


「さァて、これは難しい質問だ。ヒトと言ってもいろいろいますからねェ。


善人も悪人も犯罪者も宗教に敬虔に生きる人も、貧しい者も富める者もアタシからみれば全て人なわけでして。


それに国の違いやら地方と都市部の違いやらが混じってきますし、長く生きてると人にとっては古文の時代も知っていますからねェ」


さてさて、どう答えるのがお気に召すやら。そんな風にどこか楽しげにつぶやきながら樹さんは空に向かって伸びをする。


「観察対象としては面白いと思いますよ。集団で生きながら、同調することと個として己の目標を全うしようとすることを両立させるという生き物をアタシは他に知りませんね。


妖はどちらかというと必要以上の干渉は避けて独立独歩な気風に近いですし、目標自体も生きる時間が長すぎて見失う連中も多い」


その目は揺らめく鬼火…それとも狐火か人魂だろうか。人の世では普通みられない不思議な光源を見ているようで、実際はもっとずっと遠くを見ているように見えた。


「短い人生の中で悩み、もがき、挫折と立ち直りを繰り返す。或いは挫折したまま立ち上がれずに自ら自分の命を絶つ。


生き急いでいるように見えるのに本人たちにその自覚はない。…だからこそ、強い輝きを放つ可能性を持っているってところですかね。脆弱で、我がままで、傲慢で。


好もしくない点も多いですが短い命の中で何かをなそうとする姿勢はアタシにはもうなくした情熱を感じられてその点は好もしいかもしれませんね」


このヒトはどれだけ長い時を生きてきたんだろう。何百年、と言っていた優さんより長く生きているからもしかすると千年以上生きていたりするのだろうか。


それを問いたくて、でも問うていいのか分からずに音にすることができない。


「言ったでしょう?気が向けば答える、と。答えたくない質問には答えませんよ」


「樹さんは、どれくらい長い時を生きてきたんですか?」


「人間は短命なせいか財産を多く持つ人ほど不老不死に憧れるみたいですけどね。実際に近い立場になると退屈なもので。いくら生きてきたかなんて覚えてる妖はあまりいないと思いますよ」


「そうなんですか…本当に、生きる時間が違うんですね。価値観も」


「ヒトだってそうでしょう?」


不思議そうに返された言葉と向けられた視線の意味を測りかねて無意識のうちに首をかしげていた。


「ヒトだって生まれることなく死んでいく命もあればヒトにしては長命な方もいる。


妖とヒト程じゃないですが生きる時間はヒトによってだいぶ違うもんだと思ってましたがね。


価値観だって時代や世論や法律や生活環境によってはぐくまれるものだ。


この世の生き物なんてものはね、脳によって支配されている限りは全く同じ考えなんてできないんですよ。脳を直接並列にでも繋いで同じ情報を同じように処理しない限りはね。


同じものを見ているという幻想を抱いているだけで実際はまるっきり違う物を見ているのかもしれない。常識とか一般大衆とか、便利だけど怖い言葉だとアタシは思いますよ。


そこにあるのに本当の姿を誰も知らない。それなのに人は妄信する。同じように存在する幽霊の存在は鼻で嗤う人も多いんですけどね」


妄信的に何かを信じた結果それを否定して争いが起きたことがあるというのは歴史の授業で何度か習った。宗教だったり選民意識だったり。


理由は様々だったけれど、樹さんのいう常識と常識のぶつかり合いでこの世には多くの争いがあったし、それは今も続いている。


「まァ、知らないものに対して排他的になるのは妖もおなじなんですけどね。きっとヒトと妖というのは何かの裏表なんでしょうよ。


昔はヒトは昼の世界で、妖は夜の世界で暮らしていた。科学が発達するにつれてヒトは夜の世界の住民を信じなくなった。


妖たちは空間を作り出せる種族もいますからね、隣り合った世界を作ってたまに遊びにきたりここの連中のように人に混じって暮らしたりしている。


ヒトの暮らしに妖が少し邪魔で、妖の世界にヒトが少し邪魔だ、なんて意見もありますけど今は比較的平和ですよ」


魔女裁判とか、今はないですからねェ、とカラカラと樹さんは笑う。楽しげで、でもどこか冷たさと鋭さを孕んだ笑いで。


「たまにね、妖の世界に子供が紛れ込んでくることがあるんですヨ」


 そう言って樹さんは神隠しにあった子供の話や、攫われてはいないけれど何かのはずみで開いた世界の穴に落ちて妖の存在を知ってしまった人の話を色々聞かせてくれた。


「中には心を壊しちまう子もいるんですがねェ、そういう子は記憶を逆行させてなかったことにする。


覚えていたいという相手の記憶は夢という誰も立証できない思い出に変えて人の世に還す。


…一部、還す前に人食いにつかまって変死体で還ることになったり骨さえ残らなかったりもしますけどねェ。


だからお嬢サンも、今後兄サンと付き合う上で妖の世界に足を踏み入れることになったら気をつけることですよ。結構人肉が好きな連中が、向こうには多いですから」


こういうことをあっけらかんと言ってのける辺りが、樹さんが人ではないという決定的な価値観の違いなのだろうか。


「うちの母サンと父サンもね、気が高ぶってる時はヒトを食らいますから。


あんまり心を許さない方が良いかもしれないですよ。ご両親を泣かせたくないでしょう。先立つのは一番の親不孝ですからねェ」


「はぁ……」


「嫌ですよう、ずいぶん気の抜けた返事をしちゃって。そんな隙を見せてるとアタシに食われるかもしれませんよ。狼は肉食ですからね」


ケラケラと笑っているけれど完全に冗談というわけでもないのだろう。


進んで食べる気があるかどうかは謎だけれど、食べられてもおかしくない場所に、私を食べてもおかしくない人と話をしているということは薄らと理解した。


――本当に、生きる世界が違うんだ。このヒトにとって私は非常食にもなる存在で、人よりずっと長く生きていて、移ろいゆく人の世を見つめてきた。


「……人が好きですか?」


「どうでしょうねェ。いつみても同じものというわけでもないですしね。でもまァ、人の世にも妖の世にもいたくなかったらアタシには隠れ家があるんで。


それでも人の世を選んで住んでるってことは少なくとも嫌いではないんじゃないですかね。


そろそろ体が冷えてきたんじゃないですか?兄サンも心配してるでしょうし、戻っては如何で?」


「…そうします。色々話を聞かせてくれて、ありがとうございました」


「いい暇つぶしにはなりましたから、別にお礼は要りませんよ」


「でも楽しかったし勉強になったので勝手に感謝はしておきます」


「……剛毅で変わったお嬢サンだ」


そう言って自室に戻っていく樹さんの残した最後の一言が、一番温かみのある声だったように思えた。


滞在期間、優さんの故郷を巡ってご両親といろいろな話をして。


やがて帰る日がやってきた。


「今度は私たちの本当の故郷…異界にも、嫌じゃなかったら来てくださいな。


子供が生まれたら一度はどちらの世界に属するか決めないといけないでしょうし。それまでに見ておくのも悪くないと思うの」


異界…妖の住む世界。 私とは、人間とはまるで違う価値観を持ち、まるで違う文化を持ち、まるで違う姿を持つ存在が闊歩する世界。


もし私が優さんの牙を受けてその世界の住民となったとして、私はそこに馴染めるだろうか。 人の世を、捨てられるだろうか。


「そうですね…子供は、いつできるかわからないですけど。もっと妖の皆さんについて知りたいと思うので、ご招待をいただけるなら一度訪れてみたいです」


「化け物絵巻、だったかしら。あぁいうのを見ておいたほうがいいかもしれないわね。妖怪図鑑とか。人型を取ってる妖はあまりいないから」


「…勉強しておきます」


話を聞くだけではどんな世界なのか全く想像のつかない、まさしく未知の世界だ。


優さんやご両親とは打ち解けられたけれど、妖の世界で妖として生きている存在と、同じように打ち解けることはできるだろうか。


見送りの一行の中にいない樹さんに思いをはせる。 ……不思議な人だったな。


樹さんもきっと、いろいろな時代を見てきたんだろう、と思う。


本心をはぐらかす喋り方は、本音で話すことをやめたのは、そのせいで傷を負ったりしたから、とかそういう理由があるのだろうか。


観察対象として興味深いと言っていた。好もしい点も、好もしくない点も等しくあるといっていた。 あの人から見た世界は、どんな色をしているんだろう。


「そろそろ電車が来る時間だ。いこうか」


「あ、そうだね。…お世話になりました。とても親切にしていただいて、いろいろと勉強になりました」


「またいつでも来てください。大したおもてなしはできませんが」


「優、結婚するからにはしっかり幸せにするのよ」


「…あぁ。二人で幸せになるよ」


ホームに電車が到着したというアナウンスが流れる。 美里さんと正志さんに見送られて電車に乗り込む。


「また会えるのを楽しみにしていますよ」


「ありがとうございます。失礼します」


発車時間を迎えた電車がゆっくり動き出す。 人の世でありながら妖の生きる世界から、私は私の日常へ帰ろうとしていた。


これからの私の日常は、どちらの色に染まっていくのだろう、と考えながら。












弐 幽世の物語






命は始まり、終わっていく。異界を訪れたものへここで物語と命題を一つ。




優さんと結婚して半年。お腹に命が宿っていることがわかって、私は一度妖の世界を訪れてみることになった。


吸血鬼と人間のハーフ、ダンピールと呼ばれる種族は人より成長速度が速いらしく、また一定の年齢で成長が止まりそこからは不死に近い時間を生きるという。


人の世ではおそらく育てられない。そう判断した優さんと相談して、私が妖の世界で生きることを選べるか、


それとも全てなかったことにして優さんが隣にいない、人の世界で生きることを選ぶかを決めることになった。


「妖の世界で生きることを選ぶなら、俺の牙を受けてもらうことになると思う。


…でも、牙を受けた時点で外見の年齢は止まるから、人の世には千鶴のことを知ってる人がすべて死に絶えるくらいの時間がたつまで戻れない。


数年ならともかく十年以上姿が変わらないと流石に怪しまれるし。そのことも含めて、少しでも後悔しない道を選んでほしい」


たとえそれで一緒に生きることができなくなっても俺は千鶴の意思を尊重する。 それが異界に赴く直前に優さんから告げられた言葉だった。


人気のない路地裏、優さんがコンクリートの壁に手を当てて「開門」と呟くと、ふっと手が沈み込んだ。 私の手を取るとそのまま一歩踏み出す。 目を閉じたまま後に続くと、生ぬるい風が吹いた。


「妖の世界へようこそ、千鶴サン。お久しぶりですね」


「樹さん…」


聞き覚えのある声に目を開けば、優麗荘で言葉を交わした樹さんの姿。


「意外と早い訪問になりましたね。母サンと父サンも驚いてましたよ、兄サン」


「…きてるのか?」


「えぇ。アタシはまぁ……お分かりですよね。人がこの世界に来る時の決まりは」


「あぁ、面倒をかけるな」


「なに、人の世での兄、こっちの世界では弟分の大切な人が来訪者ですしね。


それに役目を放棄してあとでもめ事が起こって自由気ままに過ごす時間が減るよりはその場で対処できたほうが楽ですからお気になさらず?」


「役目…ですか?」


思わず耳が拾った単語を反復すると樹さんは以前会ったときもそうだったように真意を読めない笑みを口元に刻んだ。


「知らないに越したことはないことですよ。気持ちのいい話ではないですからね」


優さんを伺うと同意見らしく小さな首肯が返ってくる。


「…できれば知られずに過ごしたいな。樹の役目も、俺の役目も」


翳りを帯びた言葉と沈痛な表情がそれ以上の追及を許さなかった。


「人の世界とは少し趣が違うでしょう、千鶴サン。人の世の感覚でいくとちょっとレトロな雰囲気になりますかねぇ、この世界は。


妖は長生きする分あまり変化を好みませんし、電気とか必要ないですからね」


赤みがかった夜空に、同じく赤みがかった月がかかっている。 街並みも樹さんの言う通り現代社会というよりは少し前の時代に来ているような、不思議な街並みだった。


優麗荘でみかけた光球がここでもふわふわと浮いていて、薄暗いイメージはあったけれど暗すぎて歩けないということはない。


明らかに人の形とは違う影が伸びている。けれど明確に姿を現しているのは優さんと樹さんだけだ。


視線は感じるけれど姿は見えない。


「人が…しかも大人が来るのが皆珍しくて注目してるんです。興味半分恐れ半分でね。視線が居心地悪いかもしれませんが暫く我慢してくださいな。


向こうも不用意に姿を見せて千鶴サンの心を壊さないように気を使ってはいるんで」


そっか…この世界では私のほうが『異物』なんだよね。


「とりあえず父サンたちのところへ行きますか?それともやめておきますか?」


「きてるなら挨拶しないのはまずいだろう。…あんまり気は進まないけど」


「右に同じ、ですかねぇ。一応止めたんですよ?こっちは本性が出やすくなるからやめたほうがいいんじゃないかってね。


ただまぁ、あの人たちは…兄サンもご存じのようにアタシを煙たがってますから。ぜひお越しくださいっていったほうが効果的でしたかネ」


「どうだろうな…問題が起きない限り不干渉が妖の世界のルールだ、帰れとも言えないが」


難しい顔で交わされるやり取りに、私はこの世界にとって招かれざる客なのだろうかと少し心配になる。


樹さんが前に言っていた、妖の中には人肉を好む種族も多いということを思い出したこともそれに拍車をかけた。


「まァ、兄サンの伴侶だってことは触れ回ってますから大っぴらに手を出してくる輩はあまりいないと思いたいですねェ。


アタシもできるだけ目を光らせておきますけど兄サンも目を離さないように願いますよ」


「…助かる」


変わっていてあまり親しみを持てない、というようなことを帰省するとき優さんは言っていたけど…


妖の世界だと親身になってくれた昔のことを思い出すのだろうか、


人の世界でかわしていたどこか義務的なやり取りに比べてこちらの世界での二人はずいぶん親しげに見えた。


「あんまり油売ってると母サンが角を出してしまいますネ。千鶴サン、覚悟はいいですか?」


「え、えぇと…はい。できるだけ何があっても驚かないように、頑張ります」


「っはは、剛毅なお嬢サンだ」 彼にそう評価されるのは何度目だろう。私はそんなに勇敢じゃないと思うのだけれど。


「妖は人に危害を加えてはいけない、人に人外のイキモノだということを知られてはいけないというのはこっちの世界でも向こうの世界でも浸透している掟ですが、念のためアタシや兄サンと離れずに行動してくだサイ。


月の周期やその他いろんな影響で我を忘れる種族にうっかり食べられたくなければ、ネ」


樹さんがいつになく真剣な顔で私に忠告してくる。


「は、はい……気を付けます」


「あまり脅かすな、と言いたいところだが…ここでは千鶴は異分子だからな。俺か樹がついていたほうが安全だろう」


優さんが心配そうに私と樹さんを見比べる。


「俺もできるだけ目を離さないよう気を付けるが、いざというときは頼む」


「頼まれました。なァに、役目の一環ですからね。頼まれなくてもお客さんはしっかり元の世にお戻ししますよ。


そのうえで生まれてくる子供ともどもこちらへ来るのか、それとも夢として忘れるのか、生まれるまでにゆっくり考えるといい」


…役目?役目って…なんだろう?でもそれは今は聞いたらいけない気がした。


無意識に腹部をなでる。少しずつ大きくなってきている私の胎内の子供。


この子は何を選び、何処で生き、どんな生活を送るんだろう。


その時に私は隣にいるのかな?いるとしたら…その私は人間だろうか、牙を受けて転化したヴァンパイアだろうか。


選べる道は一つ。目の前に広がる分岐点から、一歩踏み出したら戻れない。 完全に正しい道なんて、きっとない。どの道を選んでも、きっと何かしらの形で後悔する。


優さんは私にはもったいないくらい素敵な人だ。でも、優さんと歩く道を選んだら二度と私を育ててくれたお母さんやお父さんには会えなくなるだろう。


そして、仮に人間界に戻るとしても、その時は戸籍も名前も違う人として、私が覚えているより何十年も先に進んだ世界に戻ることになるんだろうな。


あちこちで、犯罪の起きる世界。貧富の差は激しくて、環境破壊も進んでいて。 それでもあそこは私の生まれた世界、私のルーツだ。


捨てる覚悟はできているつもりだった。でもいざ捨てる段階になって、迷いが生まれた。


「…赤ん坊が生まれても二年か三年はごまかせる。今急いで決める必要はない。…俺も吸血鬼の牙を受けるときは、ずいぶん悩んだよ。


どんな道を選ぼうと、離れ離れになるとしても、俺は千鶴を愛してるし千鶴の進む道を祝福したいと思ってるから。遠慮して覚悟を曲げることだけは、しないでくれ」


「優さん…有難う」


「お熱いことで。さぁ、そろそろ母サンと父サンのところへいきましょうか。あまり待たせるとよくないでしょう、ここで注目を集めるのも、ネ」


「そうだな」


二人に促され、視線を感じながら美里さんと正志さんの待つというこちらでの家へと歩き始める。


「……父さんと母さん、どっちの姿なんだ?」


「本来の姿ですヨ。その姿で会うのはまずいんじゃないかって止めたんですけどね。自分たちを知ってもらうためにはこの姿のほうがいいと言い張って。


あとはまぁ……こちらは瘴気が強いですからあのヒトたちだと人の姿を取るのが難しいんでしょう。


 人より長生きだとはいえ妖の中では半端というかあまり力が強くないですからね」


「本来の姿、ですか…?」


「びっくりして悲鳴を上げることになるかもしれませんねぇ。鬼女と人の恨みつらみが凝って生まれたのが母サンと父サンですから」


「鬼女というとあの…能などで使われる般若の面のような…?」


「あれをもっと生々しくした感じですね。生成りなので角は少し小さいですが夜に見ると結構怖い顔だと思いますヨ。アタシらはもう慣れましたが。


部屋は別に用意してあるはずですけど鍵がなくてねぇ。それが心配といえば心配なんですが」


優さんが鬼女になるうえでのステップというか、経緯を教えてくれる。


最初は角は袋のようなものに包まれているものの、徐々に角が成長して人から姿が乖離していくのだという。


美里さんはそんな鬼女の中では比較的人に近い存在である【生成り】という状態で今は過ごしているとのことだったけれど……


義母となる人相手に悲鳴を上げずに応対することができるだろうか。


こうして会話をしていると本当に生きる世界も生きる時間も、種族も違うのだと思い知らされることばかりだ。


「…そういえば優さんも樹さんも人間の姿ですけど…なにか違いが?」


「差別していると取られる言い方を取るなら妖としての格や位が違うんですよ。あとは生きていた時間とか。


それにアタシらは遠い昔人間だったので、比較的場の瘴気に左右されない魂を持ってる」


「人の世界は陽の気が満ちているから生まれたての妖でもある程度人に似た姿をとれるんだけど、


こっちの世界は陰の気…妖を生み出す瘴気みたいなものが濃いから。


人の世界では人型をとれてもこっちにくると妖本来の姿に戻ってしまう妖は結構いるんだ。空気の質が違うのは、感じられる?」


「ちょっと重いっていうか、淀んでいるというか……」


空気に薄い紗がかかっているような見え方のする異世界。 意識してゆっくり呼吸するとそうでもないけれど普段の呼吸だとちょっと息苦しい感じがする。


「こっちで暮らしてる妖は陰気くさい空気が好きですからねぇ。逆に人の世界を選ぶ妖は明るい性質が多い。


優麗荘に住んでる妖は、中級でこちらでも人型を取れるけれど陰気くさいこっちの世界が性に合わないって人の世に出たタイプですネ。


父サンと母サンは本来こっちにいたほうが性質的にはあってるんですがアタシと兄サンが揃って人界にでずっぱりなんで向こうで暮らしてるんですヨ」


優さんと樹さんの住む世界に所属しなければいけない理由は、やはり聞かないほうがいいのだろうか。


まだそういう立ち入ったことを聞いていいほど私は妖について詳しくない。


聞きたくないと言ったら嘘になるけれど、必要な時が来たらきっと優さんか樹さんが話してくれるだろう。


「下級妖怪と義姉サンの両方のためを思っての忠告だと思ってほしいんですが、ここでの一人歩きは本当にできるだけ控えてください。


日本は人界では安全な場所なので危機管理能力が薄れがちですがここは異界。禁じられても人の血肉を求めるバケモノの世界です」


一軒の古民家を思わせるつくりの家の生垣の前で樹さんが立ち止まり振り返って改めて私に忠告をした。


「さっき空気が重いっておっしゃってましたね?」


「あ、はい。排気ガスとかのいがらっぽい感じはしないんですけど…どことなく重く感じて」


「これでもアタシと兄サンで小さな結界を張ってるんですよ。たまに異界の空気に触れただけで心が壊れる繊細な人もいるものでして。


短時間なら離れていても結界は作用しますが性能は落ちます。長く離れると体に良くない。


最悪お腹の子がアナタの腹を破って生まれてくるくらい、ここではヒトの常識が通じないんです。


あまり脅かしたくないですけど、教える部分は教えておかないと命を落とすのがこの世界の理でしてね。ご了承いただけますか?」


「…気を付けます」


「物わかりのいいお嬢サンで助かります」


「優、樹。千鶴さんがいらしたの?」


その声を聞いたとき、全身が粟だった気がした。 確かに結婚のあいさつの時に聞いた美里さんの声なのに籠っているのは怨嗟や妬み、激しいマイナスの感情。


これが…本来の美里さん? 古民家の玄関が開かれて現れたのは、人界で能などに使われる面よりずっと恐ろしい姿をした鬼女。


「いらっしゃい、千鶴さん。お久しぶりね」


凄惨さを感じる笑顔を浮かべた美里さんにどうにかこうにか会釈を返す。


人界出会ったときは本来が鬼女だということが信じられないくらい穏やかで朗らかな人だったのに、この鳥肌が立つほどの恐ろしい人が、あの美里さんと同一存在なの…?


「見苦しい姿ですまないね、千鶴さん。それでも人間界の私たちはいわば偽物。


優と付き合っていくうえで私たちの本性もいずれみせなければいけないと思っていたんだ。久しぶりに会えてうれしいよ。母子ともに経過は順調かな?」


美里さんに続いて現れたのは黒い靄が人型をとったような、影を凝縮したような姿に変わった正志さんだった。


口調は優しかったけれど声は美里さんと同様、負の感情に満ちている。


ドロドロとした人のマイナスの波動だけを抽出して煮詰めて人型に成形したような、阿久井以外の何も感じない波動。


体の血が下がっていくような感覚を覚えながら私は声が震えないように気を付けて口を開いた。


「お久しぶりです。お腹の子も、順調に育っています。この前の検診で男の子と女の子の双子だとわかって……」


「おや、それはめでたい。育てる苦労は二倍だが生まれた時の喜びはそれを吹き飛ばしてくれるだろう。そうか、私たちも祖父母になるのだなぁ」


「元気な子供を産んでね、千鶴さん。優、千鶴さんをしっかりサポートするのよ。人間のお産は大変なのでしょう?」


「いわれなくても家事の手伝いや買い物は手伝ってるよ、妊娠する前から。…千鶴、大丈夫か?」


「え、あ。はい。大丈夫です」


「異界の空気は私たちにとっては心地いいけれど千鶴さんには少し体に毒だったかしらね。でも赤ちゃんが生まれてしまうと来るのも難しくなるでしょうし…」


鬼女が…ううん、美里さんが私の頬を両手で包み込む。 鋭い爪。カサカサの肌。血のにおいがする気がした。


「顔色が悪いわ。少し休んだほうがいいんじゃない?」


血走った目、ざんばらの髪。ひび割れた唇を舐める舌はどす黒い。


「母サン、今の母サンと父サンは陰気の塊なんですから近づくと義姉サンがよけい具合悪くしますよ。


アタシと兄さんの結界がなかったら気が触れてるところだ。ただでさえおっかない顔してるんだから、近づくときはその辺を考慮していただきたいですね」


「……相変わらず憎たらしいわね、貴方は。…千鶴さん、どうぞ中で休んで。そのままでは倒れてしまいそうな顔色だわ」


人界でもどこかギスギスしていた美里さんと樹さん。その不調和さがこの世界では拍車がかかると嫌でも悟らざるを得ない鋭い口調のやり取り。


「…母さん。樹も。ただでさえ目立つんだし、とりあえず中に入ろう」


見かねた優さんが口を挟むと美里さんは私から手を放して家へと招き入れた。


土間があって、竈が据えられている。家に上がると畳が敷かれた和室。


部屋はいくつかあるようで、それをつなぐのは木目の浮いた廊下と漆喰で固められた壁だ。


「ちょっとレトロな感じだろう?日本と違ってこっちは気候の変化があんまりないからこたつとかはないんだけど」


家鳴りが酷いんだけどな、と優さんが微苦笑して私を居間へと招いてくれた。


「日本でいう…古民家、のようなもの?」


「あぁ。妖は本来家とか必要としないんだけどな。実態を持たない奴も多いしここは雨も降らないし。それでも水には不自由しないんだけど」


「その水も、飲料として必要とする妖はあんまりいませんがね。


人間の世界に行こうとする妖がヒトの暮らしを勉強するうえでの予行練習を行ったり人界の暮らしに慣れて家がないと落ち着かないという妖のためにこういう家があるんですヨ。ようこそ、異界版の我が家へってね」


へらり、と樹さんが笑う。美里さんとの確執を、少なくとも表面上は気にしていないその様子にほんの僅かほっとする。


「異界のお茶って人が飲んでも大丈夫だったかしら」


「………一部の妖が好む毒草茶じゃなければ平気なはずだけど…。飲み物と食べ物、持ってくればよかったかな」


美里さんがお茶を淹れようとして手を止めて呟いた台詞に優さんが何拍か考えた後口を開く。珍しく失敗した、という色の見える表情。


「結構独特な食べ物が多いですからねェ、異界は。何だったらアタシが調達してきましょうか、人間界の食べ物」


「お前に任せると人界の妙なものを買ってきそうだから頼まなければいけない場合は優に頼むべきだな」


正志さんの声、不安定に揺らめいているのは声帯を持たないせいだろうか?


「千鶴の口に合わなそうだったらその方向で行こう。樹、そうなった場合は千鶴を頼む」


「ハイハイ、任されましたよ」


「このお茶だったら人界のものに味が近いと思うのだけれど…母体にも影響はでない…はずだし」


姿は確かに恐ろしい。声にも負の感情がむき出しになっている。 けれど紡がれる言葉は、秋に初めて会った時の美里さんと正志さんの気遣いに満ちたものだった。


姿が変わっても根本的なところは変わらないのかもしれない、優さんもヴァンパイアの姿を一度証明として見せてくれたけれど、


その時も人ではないということを除けば優さんのままだったし……。


そう考えると、少しだけリラックスできた。


見慣れない家具…例えば囲炉裏や自在鉤、年季の入ってそうな桐箪笥も人界にある、


ふるさと村と呼ばれるような伝統を伝える施設を訪問しているようなものだと思えば違和感は小さくなった。


人工的な音が一つもない世界で囲炉裏を囲んで改めて再会のあいさつをする。


子供ができたことを美里さんも正志さんもとても喜んでくれた。


「触ってみていいかしら?そろそろお腹を蹴ったりする時期なの?」


「えぇ、元気に育ってるみたいで…不思議な感じがします。お腹の中の子供が早く出たいっていうみたいに蹴ったり動いたりするのは」


そっと私のお腹に触れる美里さん。 鋭い爪と微かに香る血の匂いはやっぱり恐ろしくないと言ったら嘘になるけれど、これが私に危害を加えるための演技だとは思いたくなかった。


性善説を盲目に信じるわけじゃない。人にだって妖にだって、きっと悪い存在はいる。


でも性悪説のように最初から歪んでいると思うより、少しでも綺麗なものになろうとする姿勢のほうが愛おしく感じる。


綺麗なものが成長するにつれて汚れていってしまうとしても、その汚れすら糧に清濁併せのんで本当の意味で優しくあれたら、と思う。


「…あら、本当。蹴ったわ、今。ふふ、元気な子なのね」


美里さんの、耳近くまで裂けた口に笑みが浮かぶ。仕草だけ見ればそれはとても恐ろしいものだったけれど、戸籍上だけとはいえ孫が生まれることを心から喜んでくれているように見えた。


「人界と違ってゆっくりできないかもしれないけれど、子供に影響が出ないようできるだけリラックスして過ごしてちょうだいね。


大事な時期なのでしょう?私は子供を産んだことがないし妖だから人の出産に関するアドバイスはできないのだけれど…」


「有難うございます」


「人の世界ではそろそろ夜かな。千鶴さん、お疲れだろう。


向こうの部屋に布団を敷いてあるから今日は夕食がすんだら眠って、明日優と樹にこちらの世界を案内してもらうといい」


正志さんに言われて初めてこちらの世界ではずっと夜のような景色だから時間がわからないことに気付く。


その言葉を疑うわけではなかったけれど時間の感覚が狂ってしまわないように正確な時間を知ろうと腕時計を見てみれば電池交換したばかりなのに止まっていた。


「あぁ…この世界では人間の作った道具…電化製品とかそういうのは動かないんだよ。説明してなかったな、ごめん」


「流れる時間が違うから時計も役に立たないし、家電に関しては電気が通ってないからただの箱ですね。ケケケ」


「だから妖が人間社会に出て一番苦戦するのはある意味家電の取り扱いなのかもしれないな。


長く人界にいる妖は家電がない時期から向こうにいるからリアルタイムで学べたんだけど、


最近人界にいった妖はパソコンとかスマートフォンとか…洗濯機やレンジや炊飯器もか、取り扱いに苦労してるみたいだよ。


母さんと父さんも最初はずいぶん悲惨な取り扱い方で……」


優さんが思い出して小さく笑うと美里さんと正志さんは気まずそうに体をもぞもぞさせた。


「フライパンを焦がすなんてしょっちゅうで洗濯機から泡が大量に噴き出して脱衣所が泡まみれになったり、


パンが炭化したりどろどろのお粥が大量にできたり掃除機が爆発したりしましたねェ。いやぁ、懐かしい」


「樹!」


美里さんが樹さんを呼ぶときは鋭い口調の時が多いけれどこの時は恥ずかしさと気まずさが混ざっているように感じられた。


それにしても…掃除機が、爆発?どういう使い方をしたんだろう…。


現代の調理器に慣れた私には竈や囲炉裏を使った料理は難しくて、結局お茶も食事も美里さん任せになってしまった。


人界とは生態系が違うから口に合うかわからないけれど、と出されたお茶と焼き菓子、そのあとの夕飯。


確かに食べたことのない味だったけれどできるだけ人界の食べ物の味に近づけてくれたのか素直に美味しいと思える献立だった。


せめて片付けだけでも、と思ったけれど異界は人が長くとどまるには消耗する場所だから今日は早めに休んで、と美里さんだけでなく正志さんや優さん、


果ては樹さんにまで言われて一人先に休ませてもらうことになった。


敷かれた布団は清潔なシーツで包まれていて、ほのかに石鹸の香りがした。


優麗荘に挨拶に行ったときは緊張でなかなか眠れなかったし、今回は完全に異界だからあの時以上に眠れないんじゃないかな、と思ったのだけれど…体が疲れているというのは自覚していないだけで本当のことだったらしい。


泥に沈んでいくように私の意識はゆっくりと眠りの世界へと落ちていった。








途中で目覚めることもなく、十分な睡眠をとって自然と覚醒した意識。でもまだ寝ぼけているのかうまく頭が働かない。優さんは…夕べ何処で寝たんだろう。


体を起こそうとして倦怠感で起き上がれないことに気付く。 おかしいな、睡眠はしっかりとった感覚があるのに。


それとも異界の空気による疲れが眠っている間に蓄積したのだろうか。


「…お香?」


不意に鼻をかすめたお香のような香り。妙に甘ったるい、頭がぼーっとする香りだった。…昨日は、置いてなかったよね、石鹸の香りしかしなかったもの。


何故か、できるだけそばを離れないようにする、といった優さんが隣にいないことがひどく不安になったときふすまが開いた。


「美里…さん…」


「あぁ、お香が効いてるのね。起き上がれないでしょう?」


「…一体、何が…?」


「ねぇ、千鶴さん」


美里さんが一歩足を踏み出す。後ろから正志さんと、異形の姿の隊列が室内に入ってきた。


不安が密度を増す。どうして優さんがいないの?樹さんも、どうしていないの?


「貴方とっても美味しそうね」


「…え…?」


美里さんが舌なめずりをしながら発した言葉を、私は理解できなかった。


――否、したくなかった。


「妖が手っ取り早く力をつけるためには食事が必要なの。それでね、共食いを百回繰り返すより人間の髪一筋のほうが妖力が増すのよ。


まして貴方は身籠ってる。胎児は、とても素晴らしいと聞くわ。寿命が千年は伸びるんですって。


しかも二人いるのでしょう?これだけの人数で分けても…下級と侮られる立場から中級、うまくいけば上級にも食い込めるかもしれない…」


目が血走っているのは昨日と同じ。でも昨日見つけられた理性の色は、今はどこにもない。


今美里さんの目に宿っているのは残虐で血に飢えて獲物を目にした捕食者の加虐的な色。


「優と樹は仲間が騒ぎを起こしてあの二人にしか鎮められないからと出かけさせたの。これってチャンスよね?


番犬がいなくなって、ご馳走は歯向かう力を持たないただの人。そしてお香の力で声もろくに出せない」


鋭い爪が頬をひっかく。にじんだ血を美里さんが指で掬い取って舐めるのを、私はたぶん呆然とした顔で見ているのだろう。


世界がひび割れる音が聞こえた気がした。 この人たちにとって私は食糧なんだ、歩み寄ろうとしてくれた姿は、嘘だったんだ。


見抜けなかった悔しさより、裏切られた怒りより、もう優さんに会えないことが、樹さんの飄々とした語り口で聞かせてくれる話を聞けないことが悲しいのが不思議だった。


あの二人は、私が食べられてしまったことを少しは悲しんでくれるだろうか?


それとも妖の世界に踏み込んで安穏としていた私を危機管理能力が低すぎると呆れるだろうか。


あの二人も…私を食べたいと思って、招いたのだろうか? 意識が拡散する。声ももう出ないだろう。


あぁ。最後に。最後に一言だけ。せめてお別れを言いたかった。 危険だ、と何度も言われた。人の世界に戻って忘れていいともいわれた。


それでもあの人についていくことを選んだのは私だ。 悲しいけれど、だけど優さんを恨む気にはなれなかった。


ただもし私が食べられることであの優しくて切なさを孕んだ眼が、悲しみに曇るのだけが嫌だった。


でも私は人間だ。悲しいくらい無力な、ただの食料だ。お香がなくても美里さんのこの腕力には敵わなかっただろう。


諦めて目を閉じる。


「いい子ね、千鶴さん。できるだけ痛くないように一瞬で終わらせてあげるわ」


美里さんが満足げにささやく声に悲鳴がかぶさった。


「何!?」


「やるんじゃないかと危惧してましたが本当にやるとは。馬鹿ですね、美里」


普段の軽い調子ではなく、声だけで人を切り裂けるほど鋭い口調。でもこれは樹さんの声だ。


「樹…!どうしてこんなに早く…!?」


「義姉サンが心配だったので、ご老体…先代に後を任せてきたんですよ。


アタシと優が魑魅魍魎の中、しかも理性の箍が外れやすい異界に人を一人で置き去りにすると少しでも本気で思ったなら救いようのない馬鹿ですね、母サン?」


「妖がヒトを食らうのは摂理だろう!?地獄の番犬だ夢守だといってあんたたちだって本心じゃヒトなんて食料だとしか思ってないんだろう!?」


「生憎アタシはその食料から転化したものなんで。それに人を食らって力をつけないといけないほど弱くもないですしね。


観察対象として興味深いとは思いますが食料としては見たことがない。アナタに共感はできませんよ。


さて、お集りの皆サン?美里と正志に唆されたとしても人を食らうのは最大の掟破りで、アタシは掟を破って人に害を成す妖を狩るのが生業の地獄の番犬。


今日狩られるのは千鶴サンじゃない。アナタたちだということは理解できましたか?遺書を書く時間を上げたいところですがアタシはせっかちで無精者なのでね。さっさと片付けますよ。


下級でも妖には妖の守るべき掟があることを目先の餌につられて命を縮めるとは馬鹿が集まったモンですね」


助命を嘆願する声に別の絶叫が被る。人とは違う姿をしているのに不思議と血の香りは鉄臭くて、人の血を彷彿とさせる匂いだった。


「…すまない、怖い思いをさせた」


「優、さん…」


「人の世と妖の世が分かたれたとき妖を統べる存在が定めた掟がある。人の世で暮らすのは構わない。


ただし人に自分の正体を悟られないこと、そして人に害を与えないこと。


妖の仲間の存在を脅かすことになりうるこの掟を破ったものは地獄の番犬と呼ばれる、特殊な系譜を持つ妖に狩られる。


当代の地獄の番犬は、樹だ。嘘をついてすまなかった」


優さんが私の頬に触れると暖かい気配が傷に集まって流れていた血も含めて跡形もなく消えたのが鏡を見なくてもわかった。


「そして俺が担うのは妖の被害によって心を壊した人や恐ろしい思いをした人の記憶を操作し、覚めれば忘れる夢に変えて人界に送り返す、当代の夢守。


俺と樹が美里と正志と暮らしていたのは、あの二人は人の負の念が凝って生まれた妖で、人界で暮らすにしても異界で暮らすにしても監視が必要だったからなんだ」


監視役。だから美里さんは樹さんに当たりがきつかったのだろうか。


「優、千鶴さんを連れて外に。人間のお嬢さんには酷な光景でしょう」


「…わかった。千鶴、すまないが抱いていく」


私を横抱きに抱きかかえて優さんが窓から外に飛び出す。頭を胸に押し付けるような態勢を取られたのは、悲鳴の結果が私の目に入らないようにするためだろうか?


「美里さん、たち、は……」


「…主犯だからな。共謀でも死罪は免れない。どんな妖でも冥王の代行者として狩る。それが地獄の番犬と呼ばれる妖が最強たる由縁だ」


たとえそこに一時結んだ情があっても、何処までも非情になることを強いられるんだ、と優さんは痛みをこらえて言うような声で付け加えた。


「俺も夢守としての役目を果たさないといけない。…千鶴」


嫌な予感がした。食べられることを悟った時よりずっと嫌な予感が。


優さんの役目は妖の被害にあった人の記憶を夢に変えて人界へ戻すこと。 その役目を果たす、ということ、は…。


「…別れよう。樹と力を合わせれば結婚する前の時間軸まで遡れる。俺とは出会わなかった。結婚もしなかった。子供も、当然…」


「いや…」


「千鶴」


「優さんのことを忘れるのは、嫌。確かに怖かった、でも…」


怖いのは貴方を忘れること。貴方と過ごした時間がなかったことになること。伸ばした手がもう二度と届かなくなること。


「忘れるなんて、そんなの…嫌よ」


「千鶴…聞き分けてくれ。今後も、安全は保障できないんだ。俺はもうこんな目にお前を合わせたくない」


「でも…!」


「夫婦喧嘩は犬も食わないってやつですねェ。ケケケ」


「樹!笑い事じゃないだろう!」


「えェ、笑い事じゃないですよ。そしてただなかったことにしていいことでもない」


「…っどうしろというんだ!」


「二人に必要なのは少し冷静になる時間ですかね。優は自分を責めすぎて視野が狭くなってますし千鶴サンは忘れることを恐れて頑なになってる」


「それは…そうかもしれないが…腹の子がいるんだぞ、生まれたらなかったことにするのが難しくなる!」


「アタシが狭間の世界で預かりますよ。あそこは時間と切り離された場所だ。妖もあの世界の住民もアタシの隠れ家には入り込めない。


景色はたぶん綺麗な方だと思いますし、気分を落ち着けるにはいい場所ですよ」


「……例の隠れ家か…」


「どんな事態になっても冷静に判断を下せるように精神力を鍛えろ、と昔教えたはずですがねェ、アタシも先代夢守も。


今のアナタは情に捕らわれすぎてみなければいけないものが見えていませんヨ、優?」


「………そう、だな。しばらくの間千鶴を頼む」


「優さん!」


「…千鶴の意思を無視してなかったことにはしない。約束する。だから今は、樹と一緒に行ってくれ」


「……優さん…」


「頼む」


「…はい」


「反乱を起こした面子の実行犯はアタシと先代地獄の番犬が屠りました。事後処理は、優と先代夢守に任せますよ。


妖の記憶に干渉するのは夢魔にも無理ですし、たとえできても彼らは快楽のためにしか動きませんからね」


「…承知した」


「じゃあ、千鶴サン、いきましょうか」


「は、はい…」


「なぁに、そんなに身構えなくても大丈夫ですヨ。 空気的にもここよりは過ごしやすいですし貴方をとって食おうとする者もいやしませんから。


静かで綺麗な場所です。身を落ち着けるには絶好の場所だと思いますよ」


優さんの腕から樹さんの腕の中へと移されて、私は異界を後にして、【狭間の世界】と樹さんが呼んでいた場所へと向かうことへとなったのだった――。












参 狭間の世界の物語






縁は巡る。円のように。狭間の世界へ身を寄せたものに物語と命題を一つ。




「着きましたよ」


 門を潜った先は人間界でいうと春の日差しに似た、柔らかな光の満ちる場所だった。


「ここが狭間の世界、ですか…?」


「正確にはカミサマに見放された箱庭、実験施設ですネ」


「カミサマに見放された、箱庭…?」


「千鶴さんは宝石、お好きですか?」


「詳しくはないですけど、綺麗だなって思います。小さいころは宝石店のチラシが新聞に入ってくると気に入ったものを切り取って集めたりして…」


靴を履いていなかったからか、樹さんが私を横抱きにしたまま屋敷の門を潜る。


澄んだ水に縁だけがうっすら赤い水蓮が咲いている。 空気も、異界と違って澄み渡っている。 人界の空気よりもっと清浄な感じがした。


「そうですね。宝石は長い時を閉じ込めて生まれてくる、綺麗なものです。


カミサマっていうのはね、何度も宝石のように綺麗な世界を作ろうとしては失敗して箱庭を放り捨ててきた。ここはその一つ」


どこからか鳥の鳴き声がする。葉擦れの音も耳に心地いい。


「汚れることが分かれば汚れようとせず綺麗になろうとするはずだとカミサマは考えた。この世界の人間はね、宝石と同化して生まれてくるんです。


でも宝石にはランクがあるでしょう?色のランクは高くても不純物が多かったり、不純物は少ないけど色がいまいちだったり。


アタシは宝石に縁がないんで違いがよくわからないんですけどね。天然のものだから、傷があったりもする」


「そうですね…深い色がいいとされる石でも、黒ずんでいるとランクとしては落ちたり、樹さんのおっしゃった不純物の多さや石の大きさ、


カッティングの技術…いろいろ判断基準があったと思います。私も宝石は高くて手が出せないので選り好みできるほど詳しくないですけど」


写真で眺めるのも楽しいかと、図書館で借りた宝石の選び方、という本に載っていた解説を思い出しながら口を開く間も樹さんの足は止まらない。


立派な門を抜けた後は古いけれどやはり立派な家まで結構な距離があった。


硝子でできたような繊細な花が軽やかな音を立てながら風に揺れている。 透明な小川が引かれていて、時折魚が光る水しぶきと一緒に小さくはねた。


「ここの人たちはね、最初は不純物も少なく、傷もなく、そこまで目立った瑕疵を持たない宝石と同化してきて生まれてくる。


育ち方によっては最上級の石になれる可能性を秘めている。そんな種族なんですよ。でも上り詰められる人はめったにいない。


人は妬み、羨み、蔑み、僻む生き物ですからね。


そうして身の内に不純物をため込んでいって、ついには人類の敵になる…いわばバケモノになる存在も少なくない。だから捨てられたんです、この世界は。失敗作だ、とね」


「バケモノ…ですか?」


「傷つきすぎて魂が濁ってしまうんですよ。それが宝石部分に顕著に表れる。不純物の多さや色の悪さを見て周りはろくな人間じゃないとその人を避ける。


避けられれば僻みから余計に不純物と傷を抱え込む。そうしていずれ人間をやめてしまう。自分が不幸なのは世界のせいだと世界を滅ぼそうとする」


先ほどまでいた、妖の住む異界の話を優さんに聞いた時も思ったけれど、まるでファンタジー小説のようだ。


けれど人界に出回る小説と違うのは、ここにも異界にもそこを現実として生きている存在がいて、


人界と同じように差別もあって、人界と同じように社会に適合できない人もいるってこと。


綺麗ごとだけじゃ済まない、生々しいリアルさがあるってこと。


「ここは人界の表現でいうと天上界、カミサマのいた場所ですね。だから地上の人間はここへはやってこれない」


「だから安全、と言ってたんですか?」


戦争のようなものが起きている世界を安全だと言い切った樹さんの言葉を不思議に思ったタイミングで、答えを示される。


「えぇ。この世界には三種類の…いわば人類がいます」


「三種類?」


「一種族目は、さっきお話ししたダークサイドに堕ちた存在。もう一種は、その存在からこの世界を守ろうとする、千鶴サンの知ってる【一般人】」


「最後は…?」


「生まれた時に宝石と同化していなかった種族です。この種族は宝石の加護を受けていないから脆弱ですね」


パワーストーンや、かつて薬とされた宝石はこの世界では人界より深く人とつながっているのだそうだ。


自分を磨けばそれだけ強く宝石の力を引き出す戦士となることができるし、生まれた時に同化していた石によって戦い方の向き不向きが出てくる。


石の種類によって大まかにではあるが性格の傾向も固まりやすいのだと樹さんは語る。


「明確な根拠を持った血液占いとか星座占いとか、そんな感じですかね、千鶴サンにわかりやすいたとえを出すなら」


例外はありますけどある程度は推測できるんです、と言って家の中を進んでいた樹さんは中庭に面した縁側に私をおろしてくれた。


「……体験したことは、ないんですけど」


「はい?」


「なんだか、岩手の民話に出てくる迷い家が実存したらこんな感じかな、って気がします。


人がいないのに綺麗に片付いているところとか、人の世界にあるものと基本は同じなのに形成してる物質が違うところとか。


この世のものじゃないっていう景色の綺麗さとかが」


「あァ、近いものがあるかもしれませんね。あれも一種の境界線ですから」


中庭には池があって、この池には薄紅の水蓮が咲いていた。よく見てみたいと思い目を凝らすと…。


「…え、人…?」


「水妖ですヨ。河童とかの親戚です、動きませんしあんまり気にしなさんな。ケケケ」


水底に蹲った人が沈んでいて、その人たちと水連を結びつけるように水中に茎が揺れている。


水妖と水連の間を、鯉に似た魚が悠々と泳いでいるけれど…お、大きい…。


「水底の水妖と泳いでいる妖魚はテリトリーを侵さない限り静かなもんです。


でも空中を泳ぐ天空魚は体の内に電気をため込んでいますから感電したくなければ触らない方がいいですヨ。最近じゃ数も減ってきましたがね」


なんて不思議な世界だろう…。


「あァ、話の途中でしたね。宝石の加護を受けられなかった人々はものすごく数が少なくて短命なんですが、


特殊な力は持っているんですよ。両陣営はその人たちを取り合う争いもしている」


「特殊な力、ですか?」


「未来予知ができるんです。精度は人によるようですがね。戦争をするうえで自軍にはほしい、敵軍にいられるとこれほど厄介な存在はいないでしょう?」


未来予知……確かにそんな存在がいたら、戦況に大きく響くことは戦争を経験したことがない私にも容易に想像がつく。


「実はアタシもいくつか能力を持ってましてね。知りたいですか?」


ふふ、と含み笑う樹さんの目の色は深い。


きっとこのヒトは絶望も希望も酸いも甘いも全部経験して、もしかすると人生に折れたこともあったかもしれなくて、その度にもがいて自分の最善を探してきたんだろう。


「教えて、差し支えないんですか?」


「そうですねぇ。差支えがあってもアタシはあんまり困りませんね。地獄の番犬の後継者はいませんが先代もまだ動けますし、問題視されたら終わるのも一興です。


長く生きすぎましたからね、アタシも。後継者を探して鍛えればここで楽隠居もできるんでしょうがそれも面倒でしてね」


全ての妖の命を握る断罪者として生きるのは、いったいどれほどの重みだろう。


美里さんや正志さんのように、一時家族と呼んだ相手すら、掟に背けば屠らなければいけない生き様は、強さを得る代わりに安らぎを失うのかもしれない。


美里さんに反発心を抱かせていたのは、いずれ殺されるかもしれない彼女が心置きなく恨めるように?


それともこんな存在に屠られる存在になり下がらないようにと自戒させるため?


…こんな考え方をしていると樹さんが知ったら、きっと彼は笑うだろう。


『アタシはそんな善人じゃないですよ、ケケケ』


そんな声まで聞こえてきそうだ。


「アタシはね、妖を人にすることができるんですよ。全ての妖を殺すだけの力は持っていますが、あまり殺すと妖の世の秩序が崩れてしまう。


一時的に人間にして、ヒトとしての生を終えた後に審判の間で自分の罪を思い出させてそのまま転生するか妖として改めて生きるかを問うんです。


美里のように最大の禁忌を犯した場合は、処刑が原則なんですがね」


「そうなんですか……」


「だから、優が望めば優とアナタと、腹の子を人間に転嫁することもできる」


「!」


サラリとしすぎて聞き逃しそうになったその言葉の意味が頭に染み渡った時、私は頭を殴られたようなショックを受けた。


「人に…優さんと、子供たちが…?」


「えェ。本人が同意すれば、ですがね。夢守も先代はまだ現役でいける年ですし」


「……そうなんですか…」


思いもよらぬ言葉に体中から力が抜けた。


「粗茶ですが、どうぞ。毒は入っていませんよ、ケケケ」


いつの間に淹れたのか、温かいお茶を茶碗に注いで樹さんが差し出してくれた。


「あ、ありがとう、ございます」


「あァ、朝ごはんまだでしたね、千鶴サン。なにか軽く召し上がりますか?


人は食べないと生体を維持できないでしょう。色々あって疲れてるでしょうし、甘いものがいいですかね」


「お構いなく…」


その言葉にかぶさるようにお腹から情けない音が鳴って樹さんはくっくと笑う。


「あれだけのことがあったのに胃袋は空腹を主張してるみたいですね。いやはや、本当に剛毅なお嬢サンだ」


「すみません…」


「生きてる証拠ですよ、腹が減るのも眠くなるのも。人間としてその感覚は大事にした方がいい」


「……はい」


樹さんが用意してくれた食事はシンプルだけれど身も心も洗われるといっていいほど気分をリフレッシュさせてくれた。


食後に改めてお茶を淹れてもらって、デザートだと果物を饗される。


 知っている果物のどれとも違う味のするその果物はささくれた心を柔らかくほぐしてくれた。


「あぁ、月が出ましたよ。千鶴サンにとっては珍しい景色として目に映るんじゃないですかネ」


いわれて空を見上げると見たこともないほどたくさんの星と、二つの月。


見ている間に欠けていき、満ちるときには青みがかった色がやや緑色へと変化している。


月が二つあるというのは、衛星の数によって変わってくるだろうから、と納得させることができたけれど…瞬きを数回する間に欠けて満ちたことも、色が変わっていることも予測不可能だった。


「地球住まいの人にとっては、珍しいでしょう?」


目を真ん丸にしているであろう私を見て樹さんが楽しそうに問いかける。


「はい…月が二つあるのも、こんなに早く満ち欠けするのも、色が変わるのも…全部、初めて見ました」


「今は満ち欠けが早い時期のようですねェ。ここはくる時期によって満ち欠けのスピードが違いますから。


遅いときは一年近く同じ月が出ていますし早ければ今日のように瞬く間に変わってしまう。その気まぐれさ、アタシは嫌いじゃないんですけどね」


「…綺麗、です」


「そりゃあよかった。今日はオーロラも出てますね。厳密にいうとオーロラじゃないんでしょうけど」


月の満ち欠けは生まれてくる子供に宿る宝石が何になるかを決める重要な項目なのでは、


と学者が推測しているけれどいまだ明確な理論は組みあがっていないのだと自分の茶碗にお茶を注ぎながら樹さんが教えてくれた。


「世の中には不思議なことがたくさんあるんですね……」


「世界は重なり合っていますし、どれもヒトの一生で見て回るには大きいですからね。


科学者はどんな世界でも世界の謎を究明しようと研究を重ねるタイプが多いようですが、アタシは全てが解明された世界より知らないことが隣にあるような世界のほうが楽しいと思いますよ」


オーロラと、満ちては欠けて、そのたびに色を変える不思議な月。そして名前も知らない夥しい数の星々。


空中を舞うのは雷を宿しているという天空魚だろうか。 色とりどりで、金魚に似た姿で、鰭が優雅になびく。 馥郁とした花の香りがして、とても安らかな時間が過ぎていく。


「少しは落ち着きましたか?」


「はい」


「それじゃ、お風呂に入って今日は休むといいですよ。優も頭が冷えたらここに来るでしょう」


「そうですね…いろいろ、有難うございます」


「役目ですから」


 ひらり、と手を振った樹さんが式とよばれる使い魔にお風呂の支度と寝室の支度を言いつけ、案内役につけてくれた。


和風とも洋風ともとれる不思議な内装のお風呂でゆっくり疲れを落とした後、天蓋つきの寝台に横になった瞬間に私は心地いい眠りについていた。








翌朝目を覚ますと縁側に樹さんと、優さんの姿があった。


「…おはよう、千鶴」


「おはようございます、千鶴サン」


「おはようございます…」


朝の太陽は柔らかく穏やかに差し込んでくる。 ここも、暑さや寒さといったものの気配が薄い。


ちょうどいい季節なのか、年中こんな感じなのかは、わからなかったけれど心地いい気候だった。


「優と話し合ったんですけどねぇ、優は人間になることを了承しましたよ」


「そうですか…って、え!?」


「千鶴に生まれた世界を捨てさせるくらいなら俺が人間になった方がいいかと思ってさ。


死んだ後は、二人で転生の道を選ぶか妖として生きなおすか改めて決めよう。


夢守の地位を捨てることになっても、俺は千鶴と生きたい。


頭が冷えて真っ先に思ったのは、そういう答えだったよ」


「優さん……」


「妖だった記憶を忘れて、お互いヒトとして生まれ育ち、出会った記憶に書き換えられる。それでもいいんですね、優?」


「あぁ。もう手を離さないと誓ったし、千鶴に今を捨てさせたくない。


人の世界で、千鶴と一緒に生きていきたい。力を貸してくれ」


「千鶴さんはそれで構いませんか?」


「はい。私の生きる場所は、優さんの隣です」


「わかりました。それじゃあ、目を閉じてくださいな。次に目が覚めた時、アナタたちは人間の夫婦です」


物柔らかな声に促されて私はそっと目を閉じた。










そして時は流れて――……。

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