無能の苦悩
結局、何も思い付けなかった。車の運転に手一杯で、何も考えられなかった。普段のお気楽ドライブとは違う。周囲への警戒・観察を怠る訳にもいかず、それどころではなかった。
敷地内である山道にようやく差し掛かり、車を減速させる。後方に注意しながら、そのまましばらく、流してみる。後続はない様である。つけられてはいないだろう。誰かに遠目で見つかった可能性は否定出来ないが、とりあえずは、一安心だ。
気が重い。しかしだからといって、時間を潰す気にもならなかった。心配が大きいのと、俺の帰りーー否、報告を待っているさゆりを必要以上に待たせるのは不誠実な気がした。
ーー子供の頃、家に帰りたくなかった。言い掛かりをつけては怒鳴りまくる父親と、一緒になって俺のせいにしては蔑んだ視線をおくる母親とーーそんなのが毎日のように続いた。姉もいたが、憂さ晴らしのための八つ当たりの矛先は何故かいつも、俺だけに向けられた。あの頃は、ペットの存在だけが俺を家に帰らせていた。
苛酷な日々の思い出が、ふと頭を過る。異質ではあるが、家までの道程がこんなにも気苦しく感じられるのは、あの頃以来だろう。
視界のほとんどを占めていた木々が途切れる。こっちもまた何事もなさそうで安堵する。……さゆりに南京錠の鍵を渡してしまっていたんだっけか。気が引けるが、大声で呼ぶしかないか……と思いかけたが、そんな懸念は無用だった。俺の姿を見て取ったのだろう、車から降り家の方に向き直ると、既にさゆりは家から出て来ていた。騒音がほとんどない電気自動車なのに、である。余程、待ち遠しかったのだろう。
金網越しに鍵を受け取る。さゆりからの問い掛けをぞんざいに受け流しながら鍵を開け、そそくさと家に入るとキッチンへと急ぐ。コップ一杯の冷水を胃袋に流し込むと、大きく息をついて落ち着く様、自らに言い聞かせる。いよいよ、覚悟を決めなければならない。
リビングで胡座をかき俯く俺に対峙する様さゆりが正面に正座し、目を合わせない様にしている無能者の顔を覗き込み、返答を待っている。……あまりの気まずさに堪えられず、ついチラッと見てしまった……。若干顔を上気させ、潤んだ瞳で真っ直ぐに俺を見つめるさゆりの視線が突き刺さる。……無理だ……やはり、言えない……。
脳ミソが暴走し、やがて訪れるさゆりの絶望が俺の中に流れ込んで来る。喉の奥が熱くなり、横隔膜が震えだし、涙が溢れてくる。駄目だ。何とかしろ。何とか取り繕え。バレてしまう……。
「ごめんな……」
「……何で謝るんですか?」
泣きながらやっとの思いでようやく絞り出した言葉に、さゆりもまた涙声で応える。当然だが、もう既に察してしまったのだろう。
本当の事なんて言える訳がない。だからといって、気の利いた嘘で誤魔化してやる事もできなかった。気が利く、鋭い娘だ。下手な嘘など通用しないだろう。いやそもそも、誤魔化すべき事でもないのだ。そんな事は分かっている。いつかは伝えなけれはならないし、イタズラに時間を引き延ばしても仕方ないーーそう自分に言い聞かせたつもりだったのだ。だがしかし……。
こうなる事は分かっていた。こうなる事は避けたかった。きちんと伝えるのは俺の義務であり、誤魔化して逃げるのは不誠実なのかもしれない。だがやはり、さゆりの悲しむ姿はどうしても見たくなかった。出来るだけ先伸ばししたかった。今現実にこうして……置かれた状況を理解し、絶望と対峙し嗚咽をあげて悲しむ心優しい娘に、俺が何をしてやれるというのか?
さゆりが心を許せる恋人や親友、親族なら、悲しみを減らしてやる事も出来るのかもしれない。だが、俺には出来ない。俺ごときでは何もしてやる事が出来ない。あの時通り掛かったのが俺じゃなかったなら、さゆりはこんな世界なりにも希望を見出だせるかも知れない。ここに居るのが、俺じゃない誰かなら……。
情けない。自分の不甲斐なさに腹が立つ。情けなくて、涙が止まらない。さゆりの悲哀に支配され、嗚咽しか聞こえない部屋の中で二人きり、俺もただ泣きながら見守る事しか出来なかった。