初めてのお願い
報道番組で得た情報のまとめ――。
・今現在多くの人々が原因不明の意識障害を発症し、社会全体に混乱を齎している。
・発症者は言語等、高度な理解力――知性を失う様である。人を襲う(噛み付く)場合がある。呆ける、或いはただ歩き回る等、単調な運動に終始するのがほとんどの様である。
・世界中――地球規模で、ほぼ同時に頻発し始めた。
・他の動物への影響は報告されていない。
・前述の通り、発症の原因は一切不明である。真っ先に思い出される、先日発生した噛み付き通り魔事件――この事件の被害者が病院で発症した事から、感染症の怖れがある。とは言え、噛み付かれた直接の被害者以外の発症者も圧倒的多数存在し、その分布の散らばり方、規模から見て、他国での同様の事件数件を加えても、全ての発症者がこれらの通り魔由来とは考え難いだろう。
・仮に感染症――特に空気感染するとなると、被害はもっと深刻なものになるだろう。発症率は定かではないが、発症者は続々と増加中であり、まだ存在すると推測される潜伏期間中の感染者にも注意が必要である。
・発症する直前の数十分~数時間前から気分が悪くなる等、何らかの体調不良を訴える様である。
「大体、こんな感じか……。もうこれ以上は難しそうだな」
男が残念そうに呟く。テレビ・ラジオは最早どこも放送していない。電話・ネットに至っては、随分と前から繋がらなくなっている。
「発症者――仮にゾンビの様なものとして、無意識の行動に違いがあるのは何故か? 発症の原因――仮にウィルスみたいな物として、数種類あるのか、それとも……」
男が暫し黙り込む。考え込んでいるのだろう。私も気になっていた事だ。
「……性善説、性悪説の話し、分かるか?」
男が唐突に聞いてくる。……うろ覚えだが、聞いた事はあった。『人の本質は善か悪か?』がテーマの倫理学だっけか? 詳しい事は分からない。が、この男に、知らないと応えるのは癪だ。
「聞いた事あります」
私は素っ気なく、曖昧に答える。
「人の本質は善か悪かを考察する倫理学の一つだ。刑罰の意義を問う上で重大なテーマの一つでもある。……余談はさておき、本質というか生まれつきかどうかはともかく、善人と悪人は両方いるだろう? あくまで想像の話しなんだが、理性が無くなって本性が剥き出しになるんじゃないか?」
確かに。そう考えるのが一番自然な気がする。
「……噛み付かれた被害者の中から“噛み付かない”症例が確認出来れば、ほぼ間違いないと思うんだが、病院で発症した被害者は“噛み付く”方だったか……。これだと、数種類ある可能性も捨て切れないな……。他の被害者は、今更分からないだろうし……」
男がまた残念そうに呟く。データが少な過ぎるのだ。無理もない。
……情報は多いに越した事はない。一応、報告しておくべきか……。私は映画の撮影中に発症したスタッフについて、話す事にする。
――先日とある繁華街にて、一人の男が歩行者数人に無差別に噛み付くという連続通り魔事件が発生した。通報で駆け付けた警官が加害者に対し制止を求めるも聞かず、自らも襲われかけたために恐怖にかられて発砲し、射殺してしまう――。
この警官の対応の是非を問う討論がニュース番組の大半を占め、さながら現実世界に現れたゾンビの様だと、大きく取り上げられた日もあった程の出来事だった。
「その事件で最初に噛まれた被害者が、同棲している恋人だったらしいんです。服の上からだったし、すぐに振り払って逃げたんで、ちょっと切れた程度で済んだらしいんですけど……」
私は今朝の車中にて嬉々として話す、スタッフの得意顔を思い出していた。いくら大した事なかったとは言え、愛する人の不幸話しをよくもまあ、あんな楽しそうに話せるものである。半ば呆れて聞き流していたのだが、そのスタッフ自身が発症した事で、何らかのヒントになるかもしれないとは皮肉なものである。
「そのスタッフ君が発症したという事は、性交渉でうつる可能性も考えられる訳だ。元々自前で持っていた可能性も否定出来ないが……俺はこんな生活だからご無沙汰だが、えーと……君は……?」
「……はい?」
「……性交渉は?」
何て事を聞くのだ。私はキッと男を睨む。
「いや、あの……変な意味じゃない……」
そんな事は分かっている。分かっちゃいるが腹が立つ。話すんじゃなかった。私は険しい表情のまま答える。
「無いです」
キスだってした事ない乙女だ。いや、それは関係ねえ。……大体、噛まれたかどうかさえ聞かなかったくせに、何でよりによって、それをピンポイントで聞いてくるのだ? ……まあ、噛まれたかどうかは、様子を見れば分かるかもしれないが……。
私は唇を尖らせたまま、黙り込む。
「……まあ結局、何にも分かってない、って事だよな……。せめて感染経路だけでも特定出来ていれば対策の立てようもあったかもしれんが……。まあ、感染症かどうかすら分かってないのに、無理な話しか……」
暫しの沈黙を経て、男が口を開く。
そうなのだ……。本当に、何も分かっていないのだ。
テレビを観ていてハッとした。不安で堪らなくなっていた。それが一番、引っ掛かっていたのだ……。
「……もし、空気感染するなら……私、うつってますよね……」
恐怖のあまり、考えない様にしていた。口に出してしまった事で、不安で堪らなくなってしまった……。私もあんな……理性・意識も失い、ともすると他人を襲う様な化け物になってしまうのか……。
泣き出しそうになってしまう高ぶりを、必死で押さえ込む。
「空気感染は、しないと思う」
男が訝しげな面持ちで言う。
どういう事だ? 何を根拠に、そんな事を言うのだ?
「空気感染するとしたら、もう既に世界中の人類に感染してるだろう。地域的には満遍なく、発生してる訳だしな……。おそらくは最初の発症者によるものだろう例の噛み付き通り魔事件――他にも同じ日に離れた地域で数件起きてるんだけど、これらの加害者達は渡航歴、無いんだよ。接点が無いんだ。空気感染なら、彼ら“だけ”が感染してた、なんて事は有り得ない。あの時既に、人類ほとんど感染済みだった筈だ。それにしては、最初の発症者が少な過ぎると思う。それに、あの後今日まで数日間何も無かった、ってのも違和感あるんだよ。潜伏期間に個人差があるにしても、ばらつき方が、何か変なんだよなぁ……」
“最初の発症者達に接点が無い”と言うのは、初耳だった。接点がなかったなら、尚更空気感染なのではないか? 共通の接触者を媒介にして感染した、と考える方が合理的なのだろうか? その辺はよく分からない……が、言われてみればそんな気もする。……とは言え、そんなのは飽くまで推測であろう? 根拠を持って、はっきりと否定して欲しいのに……。
情けない話しである。こんな、いけ好かない男に縋らなくてはならないとは……。分かってはいるのだ。この男に、私を宥める義務などない。ましてや学者でも医者でも何でもない、ただの素人であろう? 情報だって少ない。私の甘え、我が儘なのだ……。だがそれでも……不安で一杯なのだ。心が壊れそうなのだ。大丈夫だと、言い聞かせて欲しいのだ。それを強く納得させて欲しいのだ。やはり、気休めが必要なのだ。一刻も早く安心したいのだ……。
「……さっきも言ったが、空気感染するなら既に人類全て感染してる。俺もな……。なら今更足掻いたって、気にしたってしょうがないんだよ。……ただ、発症率も分かんねえし、治療方だってあるかもしれないし……。そもそも、まだ空気感染だと特定された訳じゃない。とにかく、最悪な方ばかり勝手に想像して絶望に浸るのは、お互いにやめよう。今出来る、最善の事を考えよう。……良いかい?」
……ふん……何を偉そうに……。そんな事は、頭では分かっているのだよ。言うのは簡単だが、人間には感情ってもんがある。そんなになんでもかんでも理屈通り、って訳にもいくまい……。
「世界がどれ位混乱しているか、ここでは見当も付かないが、テレビもラジオもやってないってのは結構大変な事になっているのも覚悟しないといけない。もしも警察が機能してない位酷い事になってるなら、とんだ輩が幅を利かしているかもしれん。こんな時にならず者共が傍若無人に振る舞っているのを映画とかでも見た事あると思うけど、あれは強ち大袈裟でもないんだよ。現に死体漁りや火事場泥棒を当たり前に出来る連中ってのは存在するしな。こんな時に怖いのは、むしろ、そんな鏨が外れた悪党なんだ。そのての連中にとっては、むしろ良い機会だろうしな。……さて、どうするか……。真っ先にすべき事として思い付くのは、敵の来襲に備える事と生活必需品の確保、といったところか……? 他何かあるかな……? 敵の来襲に関しては、まだ大丈夫だと思う。この場所は親族と幾つかの業者位にしか知られてないし、悪党共が仮に知ってたところで、どこが安全かも把握出来ていない状況で敢えて真っ先にピンポイントでここを目指すとは考えられないからな。周りに人なんか住んでないから発症者との遭遇も心配ないだろうし、あとは……」
男が一息つき、唾を呑む。……どうしよう……こんな事をお願いしても良いものなのだろうか……?
「水も電気も問題ない。屋上でパネル見たろ? 太陽光発電だから、曇りの日に余程無駄遣いでもしない限り、心配ない。問題は限りある食料だが……。幸い、さっき大量に買い込んではいる。一人で半月分位の目安で買ったから、二人だと一週間分だな。あとは、趣味でやってる畑でちょっとだが野菜が採れるのと、つい多めに買いだめしてしまっているパスタとかの乾物もあるから、もうちょっとは持ちそうだが……。それまでに収束してくれると良いんだがな……」
私をここに、匿ってくれようとしているのか? そのお気持ちは大変有り難く思う。だがやはり……心配で仕方ないのだ。私の父親も植物の栽培が好きで、庭の手入ればかりしていたっけか……。
「あ、あの……お願いがあるんですけど……」
男が黙ったまま首をかしげる。申し訳ないが、居ても立ってもいられないのだ。言うだけ言ってみよう。
「私を……私の……実家に連れてっていただけませんか?」
実際に、そう遠くはない筈なのだ。実家から程近い所での撮影という事もあって、終わり次第、帰省させてもらう予定だった。撮影現場からだと車で二時間程の距離だった。無論、撮影スタッフに迷惑を掛けられる訳もなく、都合の良い鉄道の駅の近くで降ろしてもらい、電車で帰る手筈になっていた。車の運転をしないーーというより、出来ない私には方向も距離感もピンと来ないが、ここはそんなに極端に遠ざかってはいない筈なのだ。
「……安全な場所から、危険かもしれない所にわざわざ行っていただきたいなんて身勝手なお願いなのは承知しているのですが……両親が心配で……」
事情を説明し、もう一度懇願する。が、これ以上は何も言えなかった。図々しいお願いなのだ。距離とか所要時間とか、そんなのは大した問題ではない。自分にとって何の得もないーー赤の他人の小娘の為だけにわざわざ自らを危険に晒すーーそれを強要出来る程、私は非常識ではない。
「……分かった。いいよ。行ってみよう。ただ……申し訳ないが、明日まで我慢してくれないか? 今からだと、着く頃には真っ暗になってしまう。万が一の時、身を守れる自信がない。……本当に申し訳ないが……」
何と……行ってくれるというのか? 有難い……。
急いだ様子で、男が続ける。
「もうすぐ、夕方だ。夜を迎えるにあたって、守って欲しい事がある。ここを他人に見つけられる訳にはいかないからな。俺達人間の生活を隠さないといけない。大きな音、声は出さない。これは昼でも言える事か……。あとは、照明を点けるのも止めよう。暗闇の中での光ってのは、意外と遠くからでも見えるからな。……とはいえ、真っ暗ってのも良くないか……。いざという時、こっちも動けないんじゃ都合が悪い。……テレビだけでも付けとくか。ニュースとか入ったら真っ先に気付けるしな。……今夜一晩だけかもしれんが、よろしく頼む」
言い終えると男がそそくさと立ち上がり、キッチンに入って行く。
……そうか……。一夜は共に過ごさないといけないのか……。
「腹減ったろ?」
男が出してくれたトーストとサラダ、目玉焼きを急いでほおばる。なるべく明るい内に、済ませたかった事だろう。
いよいよ、本格的な闇に包まれようとしている。今日は色々と有り過ぎて、本当に疲れた。眠い。が、このシチュエーションで、私が眠る訳にはいかない。気が急く。早く両親に会いたい。私自身も大丈夫なのだろうか?
頭の中で様々な思いが渦巻く。引き込まれ、深淵に引き釣り下ろされるが如く、それぞれの思いはやがて、暗闇の中に溶けて行った。