孤城の借り猫
「もうすぐだ」
運転席の男に声を掛けられ、ハッとする。そうだ……こっちも非常事態ではないか? 助けてもらっておいてこんな事を考えるのは失礼なのかも知れぬが、見ず知らずの男とこんな人気のない山奥を二人きりでドライブとは、通常なら正気の沙汰ではないだろう。逃げ出したい一心で、何も考えずに乗り込んでしまったが……。
大体、本当にこんな所に住んでいると言うのか? 私は騙されて、変な所に連れ込まれてしまうのではないだろうな……?
「あ、あの……停めて……」
その上、この道だ。酔ってしまった。車はそんなに苦手という訳でもないのだが、精神的な事も大きいのだろう。
「酔ったか? 本当にもうすぐなんだ。我慢してくれ……ほら、着いたぞ」
車が減速し、視界のほとんどを占めていた木々が途切れる。行く手を遮る様に立ちはだかる金網の向こう側、10メートル程先に白い洋風の家屋が佇んでいる。住宅街で普通に見られる様な、ありきたりな二階建てだ。こんな山奥に、本当に住んでいたのか。
車が停まるのももどかしく、私は慌てて車から這い出し、脇の茂みに胃液をぶちまける。いつ以来だろう……? 思い出したくもなかった、不快な苦味と酸味が口いっぱいに広がり、鼻が痛くなる。
「……大丈夫か? 急いでたから、ちょっと乱暴だったな。悪かっ……危ないっ!」
金網に絡み付く鎖に掛かる南京錠を外し終え、顔だけこちらへ向いた男に突然怒鳴られる。フラフラと歩き出していた私は、ビクッとして固まる。
「茂みに隠れて見えないけど、そこ、でっかい穴空いてるから気をつけて。落ちたら引き上げるの、大変なんだよ」
男が面倒臭そうに言う。……何なのだ? そんなの知らないし、しょうがあるまい? そんなに怒鳴らなくても……いや、それはしょうがないが、そんな嫌な言い方しなくても良いだろう?
……普段なら言い返してしまうかも知れない所だが、堪える。というより、そんな気力など既に残っていない。
「先に行ってニュース見てるから。落ち着いたら入っておいで。遠慮しなくていいから」
顔だけ中途半端にこちらに向け、既に小走りの男が言う。乱暴に開けたドアを閉める事なく、家に入って行く。
いけ好かない……。
何て事だ。こんな男に……。
……いやいや、そんな事を思うもんじゃない。助けてくれた恩人ではないか……。
自分に言い聞かせる。とにかく落ち着こう……。
……とは言え、男の本性が掴めない内は、どうにも安心できない。どうしたものか……?
……迷っても仕方がないか……。何やら非常事態に陥っている様だし、何かと協力してくれる人間がいた方が心強い。こんな所で一人放置されても困る。どの道、私に選択肢などない。
護身用に手頃なこぶし大の石をパーカーのポケットに忍ばせ、なるべく音を立てない様、家に近づく。不意に抱き着かれでもしたら、堪ったものではない。そっと、家の中を覗き込む。男の姿は見えない。
「おじゃまします……」
男に聞こえない様、吐息程の声で囁く。男に向けての挨拶の筈なのに、おかしな事だ。
スニーカーをそっと脱ぐ。動きやすい靴で良かった。ヒールだったら、あの斜面は登れなかっただろう。
右手に二階に上がるであろう階段があり、左右に閉まっている扉が一つずつ、真正面――廊下の突き当たりに扉が開けっ放しの部屋が見える。漏れ聞こえるテレビの音らしき話し声は、あそこからだろう。今更避けても仕方あるまい……。覚悟を決めよう……。奥まで進み、部屋の中を覗き込む。
左斜め奥に大きめのテレビ、それを正面に見据え、あの男が私に背を向ける格好で胡坐をかき、画面を食い入る様に眺めている。右手にはキッチン――ここがリビングか。……悠長に間取りを確認している場合ではない。一体何が起こっているのか……? 私も画面に意識を持っていく。
映し出される航空機や自動車の事故、ユラユラとうごめく人影の様なもの――ネットに投稿された動画を集めたのだろう。撮影者が動揺しているのか、手ブレが酷く、また気分が悪くなる。まだ口の中に残っている、さっきの不快感を思い出した。口を濯ぎたいのだが……。
次の瞬間、私の背筋が凍り付く。
――口元から血を滴らせ、撮影者に向かいゆっくりと歩を進める女――目の辺りにモザイク処理が施され、表情までハッキリとは分からないが……上擦った声で早口でまくし立てる撮影者らしき男性の狼狽ぶりが伝わってくる。
「ぃゃ……」
さっきの恐怖が甦る。思わず声が洩れてしまった。
「うわぁっ! ビックリしたぁ」
聞こえる程の声ではなかった筈だが、気配を感じたのか、突然振り向いた男が私を見て叫ぶ。その声で私もビクッとする。……見つかってしまった……。
「……声掛けてくれよ。こんな時に驚かさないでくれ」
……ビックリしたのはこっちもだ。驚かす気など毛頭ない。人聞きの悪い事を言わないでくれ。
「……そうだ。荷物取ってくるわ。車に置きっぱなしなんだ」
黙ったまま俯く私には意を介さず、急に立ち上がった男が私の横を通り過ぎようとする。突然の事に、私は思わず露骨に避けてしまった。男に正対したまま横に飛びのき、距離を取るために後ずさる。
「ここ水道ないんだけど、キッチンにあるペットボトルの水きれいだから、使っていいよ。冷蔵庫にも入ってるから、御自由に」
廊下から、男の声が聞こえる。それはありがたい。
足音が遠ざかるのをもどかしい思いでやり過ごすと、キッチンへと急ぐ。足元に家庭用サイズの大きなペットボトルが数本並んでいる。一番右側のを持ち上げる。……コップを借りるのは止めておこう。シンクを正面に立ち、キャップを外し、右手で持ち上げて左手に水を掛ける。……片手一本でその手を洗うのは難しい……。四角いペットボトルで良かった。贅沢な使い方で申し訳ないが、シンクに注ぎ口がはみ出る様ワークトップに横向きに置き、こぼれ落ちる水滝に土塗れの両手を突っ込み、素早く擦り合わせる。勢い両手に溜めた水を口に含み、濯ぐと同時に顔も洗う。
間に合った……。急いだ甲斐があったというものだ。水が半分程になり、零れなくなったペットボトルを元の場所に戻す。喉も渇いた……。冷たいのを貰おう。冷蔵庫を開け、右から二番目、の水がフルに入っているペットボトルを引き抜く。一人暮らしだと、家庭用のペットボトルでも直接口を付けて飲む人が少なからずいると聞いた事がある。“それ”は勘弁してくれ。
キャップを開け、肩程の高さまで持ち上げ、傾ける。こぼれ落ちる水を捉えるべく、口の方から近付ける。私の腕力では、これはきつかった……。安定しない軌道を描く冷水が、容赦なく私の右頬を叩く。私の顔面を冷やすためだけに舞い降りた水竜が、シンクの排水口に逃げ込む。
……惨めだ……。
落ち着け。とにかく、水を飲もう……。冷水では、この手は使いたくなかったのだが、しょうがない。さっきと同様ペットボトルを横向きに置き、こぼれ落ちる水を両手で受け止め、前屈みになって啜る。冷たさに特化した命の源が存在感を過剰に誇示しながら下りていき、腸の内側から生命力を甦らせ、それと引き換えにその存在感を失っていく。
ふぅ……うまい……。
一息つき、顔と手を上着のパーカーで拭うとペットボトルを元の位置に戻す。さてと……どこに居よう……。キッチンを出る。とりあえず、扉近くの“さっき”の場所に立つ。
……私は何をコソコソとしているのだ? 情けない……。
冷水に直接触れた、右頬と両手がジンジンする。不当に冷やされた事に反発するが如く、内側から熱い血を滾らせる。
紙袋が擦れる音とともに、廊下を歩く足音が近づいて来る。男が戻って来たのだろう。
「入るよ」
開け放たれたままの扉の前で、男が私に声を掛けてくる。……もういいさ。なるようになれ。自然に振る舞おう。
「はい、どうぞ」
……割りと自然に応えられたのではないか? とは言え、『どうぞ』って……。男の側なら、自分の家で赤の他人の小娘に言われる筋合いも無いだろう。
両手いっぱいに荷物をぶら下げた男が私の横を通り過ぎ、キッチンに入って行く。紙擦れやプラスチックの軋む音、台に物を置く音が聞こえてくる。
「水、飲んだか? うまかったろ?」
男が冷蔵庫の中を覗き込みながら問い掛けて来る。“変化”に気付いたのだろう。……水は確かに、うまかった。
「あ、いただきました。……すいません。顔洗わせてもらったので、お水、沢山使っちゃいました」
「いいよ。遠慮すんな。すぐ近くで、いくらでも湧いてるからな」
湧き水か。水道が無いのだものな。……さっきもふと思ったのだが、下水はどうなっているのだろうか? シンクの下が、ちょっと気になる。
「そんな事より……大丈夫か? 震えてるぞ?」
思いの外、近くから聞こえた男の声に驚く。意識が他に行っていたために、キッチンでの音が途切れた事に気が付けなかった。
そうなのだ……。汗がひいた上に、お腹が冷水で濡れてしまって、急な寒気に襲われている。
「ちょっと待ってろ」
さっきより格段に速いリズムを奏でる足音が階段を上がって行く。すぐに二階から戻って来た男が、持ってきたスウェットをハンガーごと私に差し出す。
「着替えろ。風邪ひくぞ」
……それには及ばぬ。大丈夫だ。乾けば問題ない。それまでの辛抱だ……。
「いや、あの……大丈夫ですから……」
遠慮のフリ、をして見せる。
「いいから着替えてくれ。ちゃんと洗ってあるから。……見ず知らずの、こんなオッサンの服なんか汚らわしくて着たくないのは分かるが、体調崩したって病院なんか連れてってやれねえぞ。……イジワルで言ってるんじゃないんだ。こんな状況じゃ、病院側だってそれどころじゃないだろう? 下手すりゃ、やってない可能性だってある」
お見通しか……。これは申し訳ないな……。とは言え、何もアンタだから嫌と言う訳では無い。誰のでも同じだ。……否、気心知れた女の子のなら平気だ。経験は無いが、好意を持った男性のなら平気なのだろうか……?
「……どこでもいいから、着替えておいで。覗いたりしないから。……戻って来るまで、ここに居るから」
男に穏やかに諭される。吸い込まれる様にスウェットを受け取る。
……分かってはいるのだ……。平和ボケをかましている場合ではない事も……。そう……非常事態なのだ。しょうがないのだ。足手纏いになるなんて、真っ平御免だ。我慢だ……。
廊下に出てすぐ、右手にある部屋に入る。窓が広めの、家具も何も無い八畳分程の洋間だった。窓は開いているものの、出口を塞がれ逃げ場のない空気は春の陽射しに暖められ、文字通り私を温かく迎え入れる。決心した以上、早い方が良い。急いで着替える。ダボダボなスウェットはたった今まで干していたかの如く、一段と温かかった。
私の服をハンガーに着せ、それをレースのカーテンに引っ掛ける。窓から差し込む陽射しを浴びながら、伸びをする。“暖”という力の源が外側から私を包み込み、突然の身震いと共に頭が軽く痺れ、下から突き抜ける様に頂点から寒気が抜けて行く。
身体が充分に温まったのを感じる。言う事を聞いて、着替えて良かった。リビングに戻ろう。
男がテレビを正面に見据え、私に背を向ける格好で胡坐をかき、画面を食い入る様に眺めている。さっきと同じだ。
「あ、あの……着替えました。服、ありがとうございます……」
後ろから男に声を掛ける。さっきとは違う。
テレビを観たまま、男が応える。
「おう。身体の調子どうだ? 大丈夫そうか?」
「……はい。多分……」
「そうか、良かった。……他に何か欲しい物、あるか?」
……急に言われても、思い付かないものだ。
「いえ……特には……」
「そうか。……新しい情報もまだ無いみたいだし、ちょっと屋上行って来ても良いかな?」
……私に断る事でも無いだろうに……。好きにしてくれ。
「はい……お構いなく……」
「……出来れば、色々と手伝ってもらえると助かるんだが……。どうかな……?」
男が遠慮がちに言う。……そう言われて、断れる筈などなかろう……。こんな状況なら当然だ。
「はい。私に出来る事なら……」
「そうか、ありがたい。とりあえず、テレビ観て情報を纏めといてもらいたいんだが……。観るのが辛い場面もあるかもしれん……。一応録画してるし、無理しなくても良いんだが……」
……それ位、出来るわ……。馬鹿にするな。屋上でもどこでも、とっとと行きやがれ。
「分かりました。……この紙、頂いても良いですか?」
男の傍らに置いてあるレポート用紙を指し、“おねだり”する。依頼に応えるために、必要な物だ。
「おう……。じゃあ、頼むわ。腹減ったら、適当に食って良いから。トイレは出て左な。あとは……屋上にいるから、何かあったら遠慮なく」
男が立ち上がり、私の横を通り過ぎる。入れ替わり、男が居た場所より少しテレビ寄りの場所に、紙とペンを手に座り込む。……台は無いのか? しまったな……。書きづらいったら、ありゃしない……。
男の足音が遠ざかり、ちょっとのブランクを経た後、ほぼ真上を横切ると更に遠ざかり、聞こえなくなる。行ったか……。あの男には申し訳ないが、やはり一人の方が気楽ではある。
さてと……何より情報だ。少しでも多く、正確に状況を把握した方が良い。頼まれた事だが、私のためにもなる事だ。
――テレビでは、番組で何度かお世話になった女性アナウンサーが、半泣きで同じ原稿を繰り返し読んでいる。時折聞こえてくる怒声、叫び声――。
同情を禁じ得ない。心配でならない。テレビ局も相当数の人間がいる。局内での“発症者”もまた、結構な数であろう。そんな中、逃げずに放送を続けるプロ根性も大したものだ。
さっきの事を思い返す。――後先も考えられず、混乱の中、逃げる事しか出来なかった。あの時は、確かに恐怖だった――。私自身が遭遇したのだ。それなのに遠い昔の出来事の様な、映画でも観ている様な、どこか現実から離れたものを見る感覚で、私は画面を眺めていた。