敦也 闘争の後、逃走した先
やれやれ、またやってしまった。いつもの事ながら、あの話し好きの婆さんに捕まるとついつい長居をしてしまう。せっかく朝早く出たというのに、すっかり遅くなった。用事は朝一で終わらせていたのだが、もう昼ではないか……。陽は既に高く陣取りその絶対的存在感を誇示させ、若干気の早い熱すぎる陽気を振り撒き、見下ろしている。俺は半月ぶりの買い物を終え、家路に向かいゆっくりと車を走らせているところだった――。
「暑いな……」
独りごちるとパワーウィンドウのスイッチを押し、運転席側と助手席側両方の窓を開け、無駄に温まった空気を車外に追い出す。この前は肌寒いくらいだったというのに、季節の移ろいは早いものだ。
外出するには良い天気だった。雲一つない青空が広がり、新緑の香りと、そして程よく涼しいそよ風が心地好い。
ただでさえ人里離れた田舎の山道だ。ましてや平日の昼間、この時間に他の車の往来など見た事もなかった。これでも一昔前は林業が盛んで近くにたくさん人も住んでおり車も通っていたらしいが、従事者も離れた今となっては見る影もなかった。だからこそ、これだけノンビリ運転していても誰にも迷惑をかける心配もないというものだ。というより、こんな所だからこそ敢えて引越して来たのだ。甲斐があった。こうでなくては。
前後の見通しが効く、待避所で車を停める。此処なら、万が一他の車が通り掛かったとしても追突される心配も無用だろう。いつもの場所である。休憩するとしよう。注して疲れた訳でもないが……。予定が入っている訳でもない。のんびり行こう……。
車から降り、空を仰ぎ見ながら大きく息を吸い込む。火照った身体の内側にまだ若干冷たさを残す空気を送り込み、体内の熱をそれに溶かし込むと、ゆっくりと外へ吐き出す。見上げた空はどこまでも蒼く澄み渡り、遥か上を鳶が優雅に風に乗り、流れて行く。
腹減ったな……。だが良い気分だ。あの頃はいつも二日酔いで、こんな清々しい解放された日々など、想像もつかなかった。こんな生活も悪くない。
――俺は、朝陽が嫌いだった――。
荒れ荒び、毎夜の如く散々呑んだくれ、疲れきって家路に向かう頃に容赦なく照り付け、痛め付けてくる。視界が霞み、目の奥から頭が痛くなり、惨めな後悔に苛まれるあの感覚――。
絶対的に真っ当な正義、抗えない圧倒的な存在――。
真っ直ぐに生きて来た人間からの容赦ない蔑み、圧倒的優越感から来る見下し――、それにも似た、あの屈辱的な感覚――。
あの頃に比べたら、随分と心穏やかに過ごせているものだ……。
俺は今一度天を仰ぎ、眩しさに目を瞑りながら深呼吸する。あの頃も目を瞑れたら良かった事もあったかもしれない。そんな考えが頭を過る。ずっと苛まれてきた、数え切れない程の後悔ーー。今となっては取り返しの付かない、数々の愚行ーー。今更悔いても仕方がない……頭では分かっていても振り払えない、自らの悪しき生き霊との戦いの日々ーー。いつか、楽になれる日が来るのだろうか……?
腹が鳴る。さっきの空腹感を思い出した。生きる事への切望を体が訴え掛ける。本能が生きる為に行動する様、急かす。
「……帰るか……」
車に乗り込みエンジンを掛けると、ソロソロと発進させる。急ぐべきだろうか……? 充電中であった為に携帯電話を家に置いて来ていた俺は、この時既に世界中が大変な事になっている事を知らないでいた。