さゆりの苦悩 逃走先での平安
「例えば、同じ商品を通信販売で扱っている二店があるとする。商品自体の価格は同じだ。で、方や送料は普通に掛かるが、もう一方は送料無料で頑張っている。この場合、“前者が普通で後者のサービスが良い”と考えるのが普通だ。が、クレーマーは違う。“後者が普通で前者が悪い”になるんだよ。“普通”の基準がズレちまってんだな。一般的に権利の反対は義務だが、奴らに欠落してるのは、“自分の権利”の対極にある“他人の権利”に対する想像力さ。ストーカーとかにも言える事だな。思っても黙っててくれればまだマシなんだが、そういう輩に限って文句言わないと気が済まなかったりすんだよな。頭が悪い上に傲慢だから始末に負えない。自覚出来ねえんだろうけど」
手振りを加え、敦也が熱弁を振るう。ごもっともである。ファンは大変ありがたい存在だが、権利を越えた振舞いをする勘違い野郎も時折現れる。困ったものである。
……この前は散々だった。酒は元々そんなに強くない。その上、空腹に普段飲み慣れない焼酎を煽り、完全に酔い潰れ管を巻いてしまった。今日はしっかりしないといけない。汚名返上、名誉挽回である。この前は愚痴を聞いてもらった。今日は聞き役に徹しよう。
「分かっててごねる奴も厄介か。損得勘定ばっかりで、善悪の見境ない奴。言い掛かりつけてゴネ得出来ればラッキーみたいな、卑しい考えでな。まあ、どっちも馬鹿に変わりはないがな」
ともあれ、敦也が普通に食事を摂るようになって一安心だ。元気になってくれて何よりである。今日のおつまみは私が作った。我ながら、大変美味しく出来た。敦也のアドバイスのまんまだが……。とりあえず、掃除と自分の分の洗濯と、敦也に教わりながら料理を覚えるのが私の仕事である。あとは、形ばかりの見張り役だ。
「……今日は何か、おとなしいな……」
「ええ? そんな事ないよ? 話し、聞いてたから」
唐突に振られ、慌てて応える。
やめてくれ……。この前の醜態は思い出さないでくれ……。恥ずかしくて、居ても立ってもいられなくなる。ジタバタしてしまう。
……とはいえ、敦也との距離が急速に縮まったのも確かである。ケガの功名というものだろうか? 私は図々しくも、ちゃっかりタメ口を続けている。
「ならいいけど……。この前言ってたさ、撮影中みんなを置いて一人だけ逃げちゃったのがずっと気に掛かってるって話しだけどさ……うーん……さゆりちゃんが気にする事はないと思うよ……。というか、しょうがないよ。突然おかしくなった奴に睨まれたら逃げるしかないじゃん。力では敵わないんだし、残ったって無駄な被害者が増えるだけだよ……」
まあ、それはそうなんだが……。そんな事まで吐露したんだったな……。
――あの悪夢の様な出来事を思い出す。私は下を向いて目を瞑り、精神を集中しようとしていた。突然悲鳴があがり顔を上げると、あのスタッフが相手役の俳優に掴みかかり、腕に噛み付いていた。怒号をあげながら駆け寄り引き剥がそうとした監督にも噛み付き、そして――。立ち上がり数歩近づいた所で唖然として立ち竦む私にも、その狂暴な顔を向け――。
『さゆりちゃん! 逃げろ!!』
監督の声で私はハッと我に帰った。踵を返すと脱兎の如く走り出し、木々に囲まれた斜面を四つん這いになって這い上がり、ようやく辿り着いた車道でどうしていいか分からず立ち竦んで居たところを、偶然車で通りかかった敦也に拾われた――。
腕力では貢献出来る筈もない。だが少なくとも二人は噛まれ怪我をしたのだ。雑用でも何でも力になれる事があったかもしれない。それを私は半ば見捨てる様な形で、一人安全圏へと離脱したのだ。そして、私が他人に助けられ、もうそこにはいないという事も知らずに彼らは私を捜しただろう。だが見つけられず、私を一人山中に残してしまった――という要らぬ罪悪感を心に残したまま、あそこを離れた事だろう。それが申し訳なく、心苦しくて仕方ないのだ。
「俺も、暫くあそこで待機してたら良かったんだよな。悪かったな……。というか、言ってくれたら良かったのに……」
私は大きく首を横に振った。悪いのは私に決まってる。敦也が悪いなんて有り得ない。あの時の私はそんな事も考えられない程に正気を失い、ただあの場所から離れたいという衝動に駆られていた。あの時は未だ、こんな大事になっているなんて知る由もなかった。なのに何故あんなに、我を忘れる程にがむしゃらだったのか?
――私は元々、逃げ出したかったのだ……。何でもかんでも非難してくる連中から……。そして、そいつらにとって絶好の叩きネタになるであろう映画の、その撮影現場から……。
覚悟は決めたつもりだった。だが心の奥底に無理矢理封じ込められた本能は消える事なく燻り続け、あの場面で一気に爆発し、身体全体を支配したのだろう。
「ネットの掲示板とかで他人の誹謗中傷に明け暮れる連中もだが、相手にしたって無駄さ。無論、真っ当な抗議は反省しなきゃいけない事もあるだろうが、ほとんどは言い掛かりだろ? あいつらには理念なんかない。叩ける人間を叩く――倒れた人間に襲い掛かる、謂わばあいつらこそ映画の中のゾンビの様なものさ。言ったって分からない。闘えないなら逃げなきゃ」
分かるのだ。が、悔しいし悲しいのだ。芸能界に入ってから、ずっと苛まれてきた。こんな筈じゃなかった。私の何がいけないのだ……。
「しかし芸能人も大変だな。華やかで羨ましいと思える反面、馬鹿に見つかっちまう可能性も高いって訳か。……こんな時に言うのは不謹慎かもしれないけど……良い機会だと思って、ゆっくり心を落ち着かせるといい。こんな所……何の娯楽もない、つまんない所かもしれないけど、ここは悪い奴には見つかってない。ここには、さゆりちゃんを責める奴はいない」
そうだな……。まあ愚痴ったおかげで、かなりスッキリした。一時的な事かもしれんが。元の世界に戻ったら、また闘いだ。暫しの平安がこんな時に、いや、こんな時だからこそもたらされたが故の結果とは、皮肉なものだ。
「……敦也さんは、どうして“こんな所”で、一人で暮らしてるの?」
気になっていた。
「どうしても何も……俺ん家だもん。山ごと俺のもんだし。死んだ叔父から、ご指名で譲り受けたから」
ああ、これは聞き方が悪かったか……。聞きたいのは、どうして“一人”を選んだのか? という事だ。ここでの暮らしは、恋人や友人との関係を捨ててまでしなければならない様な事なのか?
改めて聞いてみる。
「まあ、色々あってな……。というか、俺の事はいいだろ別に……」
敦也が言葉を濁す。やはりか……。良くはないのである。私の愚痴は聞き出しておいて、自分は言わないというのはズルい。“お互い様”の精神に反する。今日は私が聞き役なのだ。
次のおつまみの準備のためと言いながら、敦也がキッチンに逃げ込む。これから先、料理は私の仕事になる。今は私に料理を教えるのも、敦也の役割である。私も敦也の後を追い、キッチンに向かった。




