さゆり 闘争と逃走
車は国道から外れ、木々に囲まれた粗末な道を更に奥深くへと進んでいる。
一日で最も、陽も気温も高くなる時分の筈だが、山中のせいか、春の装いを見せる外観から想像させるそれより、若干肌寒い。
緊迫した状況を伝えていたラジオも入らなくなり、方々から鳥の鳴き声だけが山肌に反射し、こだましている。
ただ逃げる事しか出来ず混乱していたものの、呼吸も整い、落ち着きを取り戻したさゆりは助手席で自らに問い掛けていた。
果たして、これで良かったのだろうか……?
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映画の撮影は順調に進んでいた。快晴の空の下、山と緑に囲まれた清流の辺に吹くそよ風は心地好く水面を揺らし、たゆたうアメンボを刺激しては、はじかせている。私は午後の出番に備え、カメラの死角になっている木陰に腰掛け、台本に目を通していた。
アイドルグループの一員として芸能界デビューした私にとって、初の映画出演だった。芸能界で活躍するべく、どんな仕事でも貪欲に引き受けて来た。それは私だけではない。グループの皆が皆、グループの為、そして喜んでくれるファンの為に前向きに頑張って来たのだ。だからこそ、この役をいただいた時には、それこそ小躍りする程に嬉しく、私なりに役作りに熱心に取り組んだものだが……日が経つにつれ歓喜は重圧に変わり、それはやがて苦痛へと凝り固まっていった。
こんな筈ではなかった……。不安で堪らなかった。逃げ出したい衝動に駆られる日々が続いた。
アイドルが映画に出る事を快く思わない方もおられるのだ。非難されるのは想像に難くない。端役とはいえ、下手な演技でもしようものなら……。いや、結果は関係ない。自分自身満足な演技が出来たとしても、散々言われる事だろう……。
とはいえ、覚悟は決めたつもりだった。そう……私だけの問題ではないのだ。応援してくれる人もたくさんいる。頑張らねばならぬ。そう自分自身に言い聞かせ、少しの空き時間でも台本に向き合い、それこそ共演者の台詞まで完璧にそらで言える程に読み込んできた。
“努力”と言う程の事ではない。ただ、頑張った分だけ自信に繋がる気がしたし、不安を掻き消したい――余計な事を考えてしまう時間が煩わしかった私にとっては、むしろ都合が良かった様に思う。
――それにしても落ち着かない……。私は空を仰ぎ見、大きく息を吸い込む。
やはり本番当日は緊張するものだ。良い話し相手でも居れば少しは気が紛れるのだろうが、こんな時に限って、いつも口うるさいマネージャーは居やがらない。私が所属している芸能事務所の社長が監督とは幼少の頃からの旧友で信頼しているらしく、安心して託されている、という訳だった。まあ要するに、放っとかれている。当のマネージャーは、グループの他のメンバーに同行中だ。
社長曰く、私は“しっかりしている”らしい。とんだ買い被りである。一人ではどうにも出来ない事だってある。現に今、緊張が過ぎて落ち着けないではないか。
本当に迂闊だった。全く以て情けない。仕事柄、日焼けも厳禁なのだ。紫外線が遮断された車内で待機すべきだったのだが……。
軽率である。また叱られるに違いない……。
私は先程まで独占していたワゴン車を一瞥すると、大きく息を吐いた。出演者と撮影スタッフをここまで運んで来た大型車だが、現場に着けば皆忙しく、出払う。とりあえず快適な一人きりだったのだが、長くは続かなかった。撮影スタッフの一人が戻って来た為に、出て来てしまっていた。具合が悪くなったらしく、一時間程前から休んでいるのだ。
無論、追い出されたという訳でもない。自分から出て来たのだ。昨日今日知り合ったばかりの男性と閉鎖された空間に二人きりというのには抵抗があったし、何より、そのスタッフをあまり良く思っていなかった。大した事なかったとは言え、同棲中の恋人が通り魔に襲われたという不幸話を得意げにペラペラと喋る軽薄さに、うんざりしていたのだ。折角解放されたのに、二人きりとか勘弁してくれ……。
私は今一度空を仰ぎ見、深呼吸する。もうすぐお昼時なのだろう。高く昇った太陽が晴れ渡った空の青さを際立たせ、緑に色付いた山とのコントラストを一層立体的に浮き上がらせている。それが、緊張から来る吐き気と、若干の空腹感が混ざり合った、何とも言えない不快感と闘っている私には生々しく、のしかかって来る様に映っていた。