プロローグ1
「世界で最も人間を殺したものは『情報』である」
この言葉が日本の学校の授業で取り扱われるようになったのは、今から約百年ほど前のことである。と言っても、このことに関しては他国の方が早くに気づいていた。そのきっかけは、世界中の誰もが知っている『第二次世界大戦』である。この大戦の明暗を分けたものは、何といっても情報だった。より多くの情報を使いこなした連合国側は、大戦の後半一方的なほどの力で同盟国側を撃破していったのだ。
このことで、世界は改めて『情報』の重要性を理解した。それは、敗戦国である日本も例外ではない。それまで猛威をふるっていた日本の敗戦は全国民が衝撃を受け、今もなお言い伝えられている。しかし、国はそこから学ぶべきものを履違えた。それを指摘したのが三代前の総理大臣である工藤樹だった。
彼は、学生時代に多くのことを学んだが、その中でも特に力を入れてきたのは世界史だった。あらゆるところから資料を集め、大学三年次に休学を取り、その期間で五か国を巡った。そして、彼は卒業論文で『世界大戦から学ぶべき情報』と題した論文を提出した。それがあまりにも衝撃的な内容だったことと彼の択一的な文章表現が国をも促し、卒業後の工藤樹は時の人となった。
論文は、その後文部科学省の目に留まり、翌年には学校教育に彼の思想が取り入れられるようになった。そうなると黙っていないのが日本のメディアである。ニュースや教育番組はもちろん終いにはバラエティーにも顔を出すことがあった。工藤樹は、論文からもわかる通り独特のセンスの持ち主で不思議な雰囲気に包まれていた。それが民衆に受けたのか、はたまたテレビ映りが良かったのか、彼の知名度はうなぎ上りに上がっていった。
教育に大きな影響を与えた工藤樹は、そのまま文科省に二年務めた。そこで、彼はさらに日本の教育について多くを吸収した。そして、必要な情報を必要なだけかき集めた彼は二年でその職を手放し、政治家への道を歩むことを決意した。
工藤樹が文科省を辞めた三年後、ヨーロッパで大きな戦争が起きた。この戦争は、それまでも顔をのぞかせていたもので、水をめぐる戦争だった。十九世紀末から始まった人口爆発は、二十一世紀に一度勢いを止めるが、その後すぐに勢いを取り戻し、二十二世紀に入ると世界人口は九十億に達した。すると、必然的に貧困問題や食糧問題、教育、政治、秩序ありとあらゆる問題が浮き彫りになった。きっと、それまでもあった問題であったが、人口の増加がより問題の深刻性を上げていった。
中でも大きな問題だったのが水不足だった。人口の増加に比例して技術の発展を大きく見せた世界は、その技術に見合う世界になるために莫大なエネルギーを消費した。エネルギーの消費は、そのまま環境汚染の原因となった。得てして世界は生きやすくなるために生きにくい環境を生み出したのだ。そして、その中でも人間にとって重大な問題となったのが、水不足である。
環境汚染による異常気象や気温の上昇で各地の水源が急激になくなってしまったのだ。最初は、貿易でどうにかなっていたが、それにも限界が見えた。そして、この状況を逆手にとって利益を出そうと企む国が出始めた。先進国は、汚染水から汚染物質を取り除き、飲み水へ変えることを可能にする技術の開発に成功していった。そして、彼らはその技術を売り物として売買するようになった。しかも、その金額は一つの国を買えるほどに莫大だった。しかし、人間が生きていくためにはどうしても水は必要であった。よって、国が買えるほどの莫大な金額を提示されても、発展途上国はそれに縋るしかなかった。
この商売を境に、国と国との商談はモノそのものではなく、有益な技術や情報といった形ないもへと変わっていった。それは、とても簡単に急激に変化した。きっとこうなることが先進国には分っていたのだ。だから、情報の重要性をどこよりも早くに先進国は気がついたのだ。そして、もともと準備がされていた出来レースが時代の流れと技術の発展の後押しで可能になった。
しかし、どの国もがその金額を用意できたわけではない。もともと植民地だった国や貧困のひどい国々は、もうどうしようもなかった。そこで、戦争は起こされた。第二次世界大戦から約百年後の出来事である。