英雄ホエール その3
バッターボックスに立った瞬間、ピリピリと、帯電した空気が肌を刺してくるのを感じた。自分自身の血が、別の何者かと入れ替わるかのような変化があって。戸惑う。
相手ピッチャーに眼をやる。白髪混じりの頭髪に、骨ばった身体。還暦も過ぎた中年だ。
「打て! 打て!」
歓声が聞こえる。言われなくても。と、思う。しばらく野球から離れていたとはいえ、お遊び程度の草野球の、お遊び程度の中年ピッチャーに打ち取られるつもりなど、毛頭ない。
それから、そうだ、と思った。
この辺りが頃合いではないか。
この一打席を最期の思い出に、この世界から退場するべきではないか。この一打席は、何者かが、最期の思い出に、とくれたプレゼントではないか。
与えられた最後の舞台がこの一打席で、役目を終えたのならば、役者は舞台から退場するべきだ。
今日こそが、自分の最期の一日に相応しいのではないか。
バットを、二、三、と振った。調子は悪くない。
ピッチャーが投球モーションに入った。悪くないフォームだ。来るか。足が地面を噛んでいることを確認する。
そして、
「――ストライク!」
え、と思わずキャッチャーに眼を向ける。確かに、グローブには白球が収められていた。慌てて前を見る。嘘だろ。
速い。
ピッチャーが不適に笑っている。笑っている、が、皺だらけの顔から覗く眼は鋭い。実際に喋った訳ではないが、その眼は、何を油断している、と詰問してくるかのように感じた。
「おっさんだと油断したか?」
この声は、キャッチャーのものだ。
「あの人な、中路のやつ、ああ見えて若い頃は球児だったんだよ。甲子園でも活躍してたんだぜ」
「若い頃の財産だけで、今の速度は出るもんじゃないだろ。何キロだ? 今の」
「スピードガンでもあれば良かったんだけどな。まぁ、今のアイツは、ガキの頃より速いよ」
キャッチャーは誇らしげだ。
「アイツ馬鹿だから、この十年、暇さえあれば練習してるんだよ」
この終末の世界で? なんのために?
「お前みたいな若い奴を凹ましたいんだよ。嫌な奴だろ?」
バットを握る手に、汗が流れていた。
「悪いけど、お前さんじゃあ、打てないよ」
歯を噛み締める。
この、――!
二球目が、来た。
「ぐ――」
反射的に捩った身体を、肩を、足を、なんとか制止しようと力を込める。違う! と全細胞が叫んでいた。この球は、違う。打てるコースじゃない。僅かに逸れている。
ボール――。外に投げてきやがった!
「ボール!」
そう叫ぶ審判の声が、聞こえる。
「良く見たな」
子癪だ。挑発しておいて、ゾーンの外に投げてきやがった。時久は歯噛みする。絶対、キャッチャーの、このおっさんの指示だ。この、底意地の悪そうな声の、キャッチャーの罠だ。
「ちなみに、バッテリーは、俺だ。今も、昔も」
と、ボールを投げ返す。
「キャッチャーがバッターに、ぺちゃくちゃ話しかけていいのかよ」
「ムキになるなよ。遊びじゃないか」
遊びか。と、苦笑が出る。グリップを確認して、それから再び前を見据える。
「打たせねぇけど」
間髪入れずに、三球目が来た。バットを振る。当たらない。空を切った。
声援とも野次ともつかない声が飛んでくる。
情けない。
打ちとられて退場するつもりか。
四球目、――
「当たった!」
と、誰かの声。
チップだ。
また誰かの声が聞こえたが、誰かの声は、ガラス越しのように現実味に欠け、誰の声なのか、なんと言ったのかも、判らない。
周りの音が聞こえなくなってきた。
スイングだ。
スイングをしろ。
時久はバットを振る。
スイングだ。
スイングを、する。
――どこかで、快音が鳴ったような気がした。
足元に、黒い犬が居た。
あれ? と思いながら、喉元を撫でる。真赤な舌が見える。
それから、前を見た。羊、と名乗った男がバッターボックスに立っている。代わりに、自分はベンチに座っていた。
そうか、と時久は気付く。
俺の出番は終わったのか。
スコアボードに眼をやる。二十対、二。
隣に座っている少女、確か、羽羽と呼ばれていた少女に、点数に付いて尋ねてみようとも思ったが、止めておいた。
「打てー! 羊ー!」
羽羽が声を上げ、それを皮切りに、次々に声援が飛んだ。
「どうした?」
と、尋ねてくる声がある。慌てて横を見る。不精ひげを生やした男が座っている。会ったばかりだし、名前は知らない。
「何を呆けている」
「あ、いや」
どうなったのか、まるで覚えていない。突然時間がジャンプして、気が付けばベンチに座っていた。無我夢中だったのか、呆けていただけなのか。じっと手を見る。若干ながら、心地良い痺れが残っていた。
「打ったのか?」
間抜けとしか思えない質問を、した。
「打った。大したものだ」
名前も知らない男の表情は、冷たい。鋭敏な気配があって、ゾっとした。同い年くらいか、それとも少し上か。判らないが、どうでもいい。
「ホームランだ。中路の落ち込みぶりは面白かったな」
「実は、良く覚えてないんだ」
ただ心地良さだけが残っている。
そうか、終わりか。と、雲間から光が差し込むかのような清々しさがあって、眼を細めた。安心感すら、ある。
試合を眺める。羊がバットを振っている。特別目立った欠点を上げることも出来ないが、褒められる点もない、そんなファームだった。細腕のワリにスイングはそれなりに鋭いが、十八点差を引っくり返すような迫力はない。
この試合が終わったら、と時久は思う。この場に居る全員に礼を言って、それから退場しよう。
たぶん、死ぬことと、ベンチに戻ることは似ている。
次の出番がないだけだ。
疲れの所為なのか、ピッチャーが羊に向かって投げた第一球は、大きく逸れていた。誰が見ても、ボールだ。
「お前、死ぬのか」
そんな声が聞こえたのは、審判がボール! と叫んだとほぼ同時。だから、歓声に混じって聞こえたその声が、自分に向けられたものだとは、直ぐには気付けなかった。
「え?」
「自殺か」
名前も知らない、不精ひげの男が、そう尋ねてくる。尋ねてくる、というよりは、確認に近い口ぶりでもある。
また間が開いてしまいました……。