英雄ホエール その2
ボールを取り逃した。
ころころと、転がるボールを目で追っていると、突然黒い犬が駆け出して、ボールを咥えたかと思うと、更にそのままどこか遠くに行ってしまった。持ち逃げされた、と遅れて気付く。
「あ、あれ。アンタの犬だろう」
時久は、慌てて言う。「どこ行ったんだ。おい。ボール」
「直ぐ戻ってくるから大丈夫」
声は、男のものだった。
「本当か?」
「……」
無言で、犬の姿が消えた方向を見つめて、顔をしかめた。小声で、「たぶん」と言ったのが聞こえた。それからこちらに振り向き、笑顔で「まあ、それより」と手を打った。
「ちょっと、協力してもらいたいんだが」
「ボール返せよ」
「こうしよう。協力してくれたら、ボールを返す。アイツは俺の言う事しか聞かない。俺の言う事も聞かない時はあるけど、他の奴の言う事は、基本的に聞かない」
「なんだよ、協力って」
怪しい、と警戒する。悪魔に協力を持ちかけられたかのような緊張感があった。亡霊のような、その男は不適な笑みを浮かべて、「あっちで」とどこか遠くを指差した。
「今、野球の試合をやってるんだが、人数が足りないんだ」
「あ? 野球?」
思わぬ単語が出て、驚いた。
「野球を知らないのか?」
「このグローブと、アンタの犬が咥えていったボールが見えなかったのか?」
それは確かに野球の道具だな。と、男が神妙に頷く。「で、お兄さんにピンチヒッターをやってもらいたいんだ。頼むよ」
「そういう事なら、別に構わないけど」
断る理由は特になかった。この世の最期の思い出に、野球をやっておくのも悪くないかもしれない、とそう思った。
「うん、そう言ってくれと信じてた。お前なら、そう言ってくれると」
「アンタ俺の何を知ってるんだ」
道すがら、羊と名乗った男は、事情をぺらぺらと話してきた。
「いい試合をしているんだが、急にこっちのメンバーが一人欠けたんだ。風邪を押して試合に参加してくれたのはいいんだけど、いきなり倒れてな。三塁で」
と、肩を竦める。
「別に俺達は八人で試合続行でも良かったんだがな。よっぽど負けたくないのか、相手が許さなかった。言うに事かいて、『野球は九人でやるものだから。三十分以内に後一人揃えないと俺達の勝ちだ』だとさ」
「それは間違ってないと思うが」
「最初は俺の相棒をスタメンに起用しようとしたんだが、それすら許されなかった」
「アンタの相棒?」
「あの犬だ。お兄さんのボールを持ち逃げしたやつ。足、速かっただろ。ランナーとしてはかなりの戦力だと思ったんだが。『犬は戦力に認めない』だとさ」
「それも間違っていない」
「そこで現れたのが、お兄さんだ」
羊と名乗った男は、人の話を聞かない節がある。
「正直、諦めかけていた。集落からも離れてるし、人なんて見つかりっこないってな」
羊の言うとおり、この辺りには人が居ない。一人、ひっそりと世の中から退場するには丁度いい場所だ。
だから時久は、ここに居た。
「どこがいい試合だ」
そこは、学校のグラウンドだった。校舎自体は廃墟と化しているが、グラウンドは奇麗なもので、スコアボードやネットまでが残っている。そして、そのスコアボードを見て、時久は愕然とする。
「なんだよ、二十対一って。しかも九回か。もう負けてるじゃないか」
「いや、まだ負けてないと思うんだ」
羊は、その時だけ、若干ムキになった。負けず嫌いらしい。「まだ一回だけ、攻撃のチャンスがある。そこで二十点取って、あとは点を取られなければいい」
「あのな。八回も攻撃チャンスがあって一点しか取れないのに、なんで一回だけで二十点も取れるんだよ。言っておくけど、これ、公式の試合なら、とっくにコールドだぞ」
「お兄さんの頑張り次第では、なんとかなるのでは」
ならねぇよ。時久がそう言った直後、羊が大声で、「おーい」と叫んだ。
「助人を連れてきたぞー」
おお、とグラウンドがざわめいて、人が集まってくる。グローブを嵌めた者、バットを担いだ者、様々で、年齢や性別もばらばらな集団だった。
「よし、これで逆転出来る」
そう言ったのは、中年の、一番恰幅の良い男だ。豪快にバットを振ったが、それだけで息が上がっている。「いけるぞ」
「無理だ」
そう指摘してやったが、御構いなしに、回りは盛り上がる。
「いや、最悪勝てなくても良いんだけど。アンタ、ピッチャー返しって出来る?」
おそらくは、一番若いであろう女性がそう言った。女性、というよりは、少女とも言える年齢に見えた。
「ピッチャー返し?」
「ピッチャー返し。ピッチャーが投げてきた球を、ピッチャーに当てる技があるでしょ?」
「技じゃない……」
「あのおっさんの顔面に、当てて欲しいんだよね」
と、相手側のピッチャーらしき中年を指差した。「アイツ、裏切り者。アタシ達のボスなのに、なんでか相手側に居るんだよ、信じられる?」
「羽羽ー、聞こえてるぞー」
相手側のピッチャーが、そう返してきた。羽羽と呼ばれた少女を含めたメンバーが一斉に、「黙れ裏切り者」と糾弾する。
「野球の経験は?」
誰からともなく、そんな質問をぶつけられた。「一応、高校で野球をやってたけど」圧倒されながらもそう返事をすると、喝采が上がった。ざわざわと、騒がしい。
「よし、いけるぞ」
「だから無理だって」
間が開いてしまって申し訳ない。ちょっと、予告無く旅に出ていました。