おはようシープ その5
犬に顔を舐められる夢を見ていた。
今回は、ストレートで来たか、と羊は呆れる。眼を覚ましてみると、案の上、そこには犬の真赤な舌があって、顔は唾液に塗れていた。こいつ、これから、これを日課にするつもりじゃないだろうな、と不安を覚える。
正直に言うと、眼が覚める瞬間には、先日の事は全て夢だったのでは無いか。とそんな事を考えていたのだが。眼が覚めてみると、相変わらず世界は滅んでいて、自分の事は何も思い出せない
一晩寝かせたお陰なのかどうかは判らないが、羽羽の車は、驚くほどあっさりと治った。拍子抜けするほどだった。猛々しいエンジン音が、街に響く。仲間を探す獣の咆哮にも聞こえた。
「あっさり治ったな」羊は、トラックの荷台を撫でながら、言う。「いい子じゃないか」
「でも、またいつか、あっさり壊れるよ。エンジン音ちょっとおかしいし。そろそろ乗れなくなる。この車が、ってことじゃなくて、そろそろ、車という存在が溶けるね」
「溶ける?」
「風景の一部になる。風景に、溶け込む。野に咲く花だとか、水溜まりだとか、そういった連中の仲間になるんだ。文明は、少しずつ消えていく。この十年で、動く車が大分減った」
「ついに車まで絶滅危惧種か」言いながら、ふと、パンダはまだ生き伸びているだろうか、と関係があるのか、ないのか、自分でも判断のつかないことをなんとなく考えた。
「まぁ、調子のいい内に、行こうか」羽羽が運転席から声を掛けてくる「乗りなよ」
その言葉に従い、助手席のドアに手を掛けた。
車に乗り込む直前に、振り向いて、周囲の瓦礫に眼をやった。「風景か」と呟く。なるほど、確かに、散らばる車や、白骨ですらも、風景の一部として溶け込んでいる。壮観な、一枚の絵のようだ。
助手席に乗り込み、背もたれに体重を預ける。犬は、助手席と運転席を行ったり来たりと、騒がしい。
「本当に人がいるのか?」
あっちへこっちへと騒がしい犬を抑えつけながら、言う。周りの景色を見る限りでは、疑り深くなるのも当然に思えた。窓の外に広がる終末の風景からは、間違っても人々の嬌声が聞こえる気がしない。どこまで行っても、こんな風景が続いている気がした。
「人が生きる場所が、この世界のどこかにあるのか」
「人は、世界が滅びたくらいじゃ死なないよ」
「逞しいな」
「図太いんだ。アンタと同じで」
それはどういう意味だ。と思いながらも、口には出さなかった。
車が、がくがくと怪しげな挙動を交えながら、動き始める。
「そういえば、昨日の夜、どこに行ってたのさ」
「ん?」
「夜中に目が覚めたら、アンタ居ないし。やっぱり幽霊だったのかって納得してみれば、朝方には居るし」
「やっぱりってのは、なんだ」
「最初見た時は、本当にびっくりしたよ。出たー! って。幽霊だー! って」
「幽霊とは酷い」
「だって、白いし」
「白いだけで幽霊なら、白クマもアウトじゃないか。クマの幽霊だ。白クマが泣いているぞ」言いながら、実を言うと、自分が本当に幽霊ではないのか、ハッキリと断定は出来なかった。自信はない。
「昨日の夜は、まぁ、散歩をしてただけだ。犬の散歩だ」
「何か、珍しいものでもあった?」
「俺の覚えている世界とは懸け離れているからな。何が珍しいのか、判らない」というよりも、全てが目新しく、新鮮だった。「で、幽霊に襲われてた」そう説明する。
「幽霊?」
「幽霊。あれは、なんだったんだろうな」暗闇に潜む、得体の知れない、赤い眼を思い出した。あれは、なんだ。そう思いながらも、答えを知りたくないような気もする。
「止めてよ、アタシ、そういうの苦手なんだからさ」と、羽羽が年相応の事を言う。「アンタ、表情が変わらないから、本気なのか冗談なのか判らないし」
「今のは冗談だ」あの赤い眼は、どこか寂しげではなかったか、そんなことを思った。
どこまでも、似たような風景が続いている。人の居ない街角、瓦礫の山、白骨、折れた信号機、電柱、無言で横たわる車。延々と、風景が付いてきているのではないか、とそんな気持ちにさせるほど、風景に代わり映えはない。
「運転、代わろうか?」ようするに、風景に飽きていた
「嫌だよ。なんか、アンタ、真顔で事故りそうな気配がするし。大体、運転できんの? 記憶喪失の癖に」
「運転は手続き記憶だ。身体が覚えている」羊は、言う。「気がする」
「どっち道、アタシ、この車の運転は人に譲ったことないから。悪いね」言いながら、羽羽は障害物の多い道路をスイスイと運転する。慣れた手付きだ。
「道路によっては、整備されてるのさ」羽羽は、そう説明した。「みんなで、道端に落ちてる車をどけたり、瓦礫をどけたり、死体をどけたりしてさ。ちゃんと車が通れるように」
「ふうん」
「でも、移動するなら、自転車が一番便利だよ。車で通れる道なんて少ないし。故障も少ないしね」
「その割に、君は車を大事にしてるな」
「愛着があるからね。それに、荷物もあるし」
そういえば、荷台に望遠鏡があった。「あれで、クジラを観察しているのか?」
「あれ? 説明したっけ?」
「クジラ調査団、とか、なんとか、言ってただろ。そういえば、聞いてなかったが、それはなんだ? 名前のままでいいのか?」
「名前のままでいいよ。クジラを、調査する、団体」
「生物学者、ってことか」
「いや、ただの趣味の集まり」羽羽は、どこか誇らしげだった。「暇人達が集まって、クジラを見て、感想を述べるだけの集まりだよ。でかいなぁ、とか、格好良いなぁ、とか、飛んでるなぁ、とか。そんなレベルのサークルだね」
それも、世界の終わりの過ごし方の一つか、と羊は感心する。逞しいな、とも思う。
「一応、仲間内にさ、元生物学者もいるんだけど。クジラのことを聞いたら、『知るか!』って怒られたし。『あんなん、判る訳ないだろう!』って」
「その、集落とやらに、仲間がいるのか?」
「みんな、結構好き勝手に動き回ってるから。全員居る訳じゃないよ。帰ってこない奴もいるし。勝手に減ったり増えたり、本当にアバウトな連中の集まりだから」
さりげなく言った、「帰ってこない奴」という台詞には、どことなく重みがあった。振り払うように、羽羽がハンドルを切った。
「犬ってのは、どうして一々窓から顔を出すんだろうな。何か、俺達には理解出来ない、深い理由があるのかな」窓から顔を出す犬の背を撫でながら、言う。
「単に、熱いだけじゃない?」
「俺には、理由があるように思えるんだ」
「無いって」
無いかな、と呟く。どの道、理由無くぼやいただけなので、無理に理由を考える必要もない。「そういえば、いつまでも『犬』じゃ呼びにくいな」そのことにようやく気付いた。
犬が振り返り、わん、と吠えた。ようやく気付いたか、と言わんばかりの態度だ。
「ウール。ウールか? ベルカ。ウルカ」
「なにそれ」
「名前の案。ウルカだな。君の一言、『ウールか?』をもじって」
「酷いダジャレ」苦笑交じりの声が聞こえる。
それから、不意に小雨が降り始めた。いつの間に雲が出ていたのか、羊には判らなかった。まどろんでいたのかもしれない。犬が、窓から顔を引っ込めて、丸くなった。
雨足は叙々に強くなり、しまいには、右も左も判らぬ様な有様になった。叩きつけられる雨の勢いで、車が潰れてしまうのではないかと心配になる程の勢いだった。
そんな雨を眺めている内に、現実と夢の境界線に辿り着いた。この、一定感覚に車を叩く雨音に、あやされているのだなと判った。眠りに落ちる直前に、これが最後だ、と心に決めて、縋る様な思いで、弱音を吐き出す。
「これは全て現実か?」
眼が覚めたら、自分という存在が居て、何も覚えていなくて、犬が居て、自分の色が無くて、クジラが空を泳いでいる。世界が終わっていて、犬と遊び、闇に潜む何かに狙われ、犬に助けられ、そして、雨音を聴いている。これは、全て現実か? この、夢にも似た、リアルティの無さはなんだ?
「アンタは眼を覚ましてるよ」
羽羽の回答が聞こえる。しかし、実際には羊は眼を瞑っていて、それが本当に羽羽の声だったのか、それとも、物分りの良いもう一人の自分の声だったのか、判断は付かなかった。
ただ羊はそうか、と苦笑いを浮かべ。次第に、意識が雨音に塗り潰されるのを感じている。眠りに落ちるのだなと判って。眠気に決断を急かされているかの様な気分に成り。どちらでも大差無い、と面倒になった。
「眠ってもいいか?」
この終わった世界で、生きていこうと決めた。
世界観の説明、手続き的なオープニング部分、終了です。
世界観の説明って、難しいですね……。俺もあとがきにでも、補足を入れて見るべきなのでしょうか。