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おはようシープ その4

 当時、羽羽は小学生で、校舎の窓からその圧巻たる景色を見ていた。

 遥か遠く。

 空を割り。

 雲を割り。

 雄大なるクジラが大地に落ちた。

 はじめは、山が空から落ちてきたのかと思った。山が、空から落ちてくる訳がないのだから、これは夢かな、とそんなことを思っていた。頬杖をついたまま、羽羽は動かない。

 地面が大袈裟に揺れ、それから、重量を持つ、押し寄せる波のような風が吹き荒び、全てを一瞬で薙ぎ払った。辺りの、爆発かのような絶叫は、熱と風に攫われて、消えた。


 夜になった。

 りん、りん、と、どこに潜んでいるかも判らない虫が鳴いている。街灯がないせいか、辺りは殆ど見えない。その分、頭上で輝く星が眩しい。

 夜風から逃れる為に、二人は比較的被害の少ない建物の中に入った。小さな喫茶店だった。屋根も残っていて、窓も割れていない。いらっしゃいませ、などという声は聞こえない。閑散としていて、乾いた匂いがする。カウンターの奥に、風化した白骨死体が転がっている。

 羽羽が用意した毛布にくるまりながら、羊は、冬は一体どのように過ごすのだろう、と先の事を考える。冬の寒さは、想像するだに空寒かった。

「明日、集落に帰るつもりだけど、アンタも着いてくる?」

「集落?」

「どうせ、行くとこなんてないんでしょ」

「ないな」

「もしかしたら、アンタを知ってる人も居るかも知れないし。そうでなくても、ここ、クジラの航路だから、危ない。あの、ずっと上をぐるぐる回ってるクジラ、アカ、たまに落ちてくるし」

「今落ちてきたら、俺達死ぬな」天井を眺めながら、ぼんやりと言う。

「死ぬね。っても、アタシ、車を置いてくないし。あれで、思い出の車だからさ」欠伸交じりの声だ。「まぁ、滅多にないから大丈夫大丈夫」

 じゃ、寝るから。と言った直後、羽羽はスイッチが切れたかのように静かになった。本当に、寝た。早いな、と感心する。

 

 羊は、中々寝付けずに、ああでも無い、こうでも無い、と寝返りを打つが、眠気が訪れる気配は、一向に訪れなかった。やがて諦めて、毛布から這い出ると、寝息を立てている羽羽を起こさないように、静かに歩きだした。

「くぅん?」

 のっそりと、黒い影が動く。始めは、カウンターの影が動いたのかと思ったが、直ぐにそれが犬だと判る。細くしなやかな体躯が、こちらに向かってのこのこと歩いてくる。その眼は、何処へ行くのだ? と問うている様に見えた。

「眠れないんだ」

 思わず、声を出してしまっている。犬に、話しかけるとは、と失笑が出た。

「直ぐに、戻るさ」

 そう言ったが、犬は足元に擦り寄ってきて、離れようとしない。仕方が無く、犬を連れたまま外に出る。

 夜風が思っていた以上に心地良かった。少し肌寒いが、耐えられない程では無い。

 辺りは暗い。ただ、不思議とおぞましさは感じなかった。世界の終わりの風景だというのにも関わらず、この、清涼さは一体どこから来ているのだろうか。夜の闇は、瓦礫の街を覆い隠しているというよりは、優しく包んでいる様に感じる。羊が知る夜とは、明らかに別種の夜だった。

瓦礫を踏み散らかして、羊は歩く。

「犬、余り遠くに行くなよ」

 気を抜くと、犬はあっちへこっちへと忙しそうに走り回って、時折見失う事が有る。見失った、と思った次の瞬間には、駆け足でこちらに戻ってくるのだが、それでも見ていて危なっかしかった。

「うぉん!」

「お前、テンション高いな」

 言いながら、足元に落ちていた木の枝を拾う。それから、思いっきり投げた。木の枝が、宵闇に溶け込む。直後、犬はそれを追って、走った。

 颯爽と走る黒い犬の姿は、美しかった。夜の闇に溶け込む様な真っ黒な毛が、追い風に煽られて、しなやかな体躯があらわに成る。瓦礫やツタなどの障害物をものともせずに、廃墟の街を踏み仕切り、あっという間に、木の枝を咥えて戻ってきた。

 それを、何度も繰り返す。犬が木の枝を足元に置く度に、広い上げ、投げる。角度や投げる方向は毎回変えてみた。どれだけ全力で投げても、犬は直ぐに帰ってくる。

 羊は、叙々にムキに成る自分に気付いている。何度投げても、容易く木の枝を拾ってくる犬に対して、「負けているのではないだろうか」と、そう感じたのだ。

「今度は、難しいぞ」

 そう宣言して、全力で投げる振りをする。木の枝をしっかりと握ったまま、急いで背中に隠すと、犬は見事フェイントに引っ掛かり、走り去った。

「ふん、所詮犬だな」

 が、帰ってきた犬の口に、木の枝が咥えられているのを見つけて絶句する。どうやら投げられた筈の木の枝が見つからなかったので、代用品を見つけて様だ。中々、狡い。

 犬は、またも羊の足元に木の枝を置き、尻尾を振りながら「わん!」と催促を始める。

「判った。判ったよ。俺の、負けだ。もう腕が上がらないんだ、勘弁してくれ」

 こちらの言葉が判ったとも思えないが、途端に犬が大人しくなったのを見て、ホっとする。同時に、隠し持っていた木の枝を置く。二つに成った木の枝を見て、犬が不思議そうに匂いを嗅いでいた。

 そんな犬の可愛らしい仕草を見詰め、一息を付くと、突然の眩暈に襲われた。眼が覚めてから今までの間に溜め込んでいた困惑や恐怖が、大挙して押し寄せてきたのだ。

 ダムの決壊にも近かった。静かに流れていた清涼なる川が、突然濁流に変わる。そんな感情の動きだった。

 この光景は、なんだ。と自問する。これは全て、現実か。現実は、どこにある。途端に吐き気がして、羊は座り込んだまま動けない。

 なぜか、溢れ出る涙を、止めることが出来ない。


 突然、異変が起こった。人の気配を感じたのだ。砕けたアスファルトを踏む音が、確かに聞こえた。誰かいるのか、と羊は辺りを見回す。暗がりしか見えない。

 気が付けば犬はこちらに背を向けていて、宵闇に向かって低い唸り声を発している。明らかに、威嚇の唸り声だ。威嚇という事は、威嚇される相手が居る訳だが、暗がりの所為か、何も見えない。

「おい、どうした」

 犬は、今にも走り出しそうな姿勢のままで、唸り声を発し続ける。こちらを守るかの様な体勢だ。

 暗がりの中に、何かが居る。

 初めに見えたのは、赤い、二つの光だった。それを見て直ぐに「眼だ」と気付いたのは、何故だろうか。とにかく、こちらを覗き込む様な、見透かす様な、そんな眼だった。身体らしきものは見えない。赤い眼だけが、ぽっかりと宵闇に浮かんでいる。

 羊は、直ぐに棒切れを拾った。拾ってから、棒切れで戦うつもりなのかよ、俺は。と呆れる。呆れるが、棒切れを手放す気には成れなかった。

「誰か居るのか? 羽羽?」

 震えた声で、言う。しかし、返事は返ってこない。返事は返ってこないが、確かに、何かが居る。それだけは確かだった。獣か? と自問する。確かに、今のこの世界を見る限りでは、野生の動物がそこかしこに現れても、不思議では無い。

 羊は既に、犬を抱えたまま逃げる算段を頭の中で作っている。<あれ>がなんであれ、良くない気配がする。警戒音が、頭の中で響いている。

 羊が犬を抱えようとした矢先、赤い光が増えた。二つから四つへ、四つから六つへ。それに伴い、一気に恐怖感が募る。

 身体が凍りついたかの様に、動けなかった。動いた瞬間、あの光が襲ってくるのではないか。そんな事を考えていた。息を呑む。

 赤い光が、叙々に近付いてきた。垂直に移動してくるのではなく、キチンと足が有るかの様に上下運動を伴った移動だったが、不思議な事に、どれだけ近付いてきても、身体らしきものは見えない。

 闇だ。羊は、そう思った。闇そのものが、意思を持って、こちらに近付いて来ているんだ。気が付けば、先程まで清涼と神秘を併せ持っていた宵闇が、得体の知れない空気を纏っている。

 膝が、地面に落ちそうになった。息苦しい。呼吸の仕方を忘れた。そう思った次の瞬間には、実際に膝が地面に落ちている。嘘だろ、と思うが、力が入らなかった。魂というものが存在するとして、それを、容器の中に押し留める事が出来ない。そんな感覚だった。

 ざわ、と背を撫でられた。身体の力が抜けていく。背を撫でる手が、身体の内側に侵入してきて、そこからどろどろとした、無形の液体を流し込まれている。侵食されている。なんだ、これは。思いながらも、どんどんと、意識が、闇の中に落ちて行く。唐突な眠気に近い。

 逃げろ。犬。

 声に出ているのか、自信が無かったが、犬がこちらを振り向いた所を見ると、声は出せていたのかもしれない。犬はこちらを振り返り、また直ぐに赤い光と対峙した。グルルと唸り声を上げ、そして。


「――――――――――――――――――――――――――――」


 耳を聾せんばかりの咆哮。始めは、目の前の、間の抜けた犬が発した声だとは気付かなかった。猛々しく、敵意が込められていて、聞いた者の心を萎縮させる。そんな迫力の咆哮だった。 咆哮は空気を切り払うかの様な勢いで、瓦礫の街に鳴り響く。

 まるで、咆哮そのものが、清涼さや神秘性と言った抽象的なものかの様に。得体の知れないドロドロとした空気が、また元の清涼な空気に塗り替えられていく。霧が晴れるサマにも似ていた。

 実際に、赤い光は、霧の様に消えていく。

 颯爽たる、霧を払う、風だ。

 全ての霧が消えた後も、羊は微動だに出来なかった。凛とした犬の後姿を見詰める。毛が逆立っていて、興奮している。

 何が起きたのか理解出来ないまま、羊は立ち上がる。その瞬間に犬も警戒を解いた様で、大人しくなった。いつもの間抜け面だった。夜は先程までの清涼さを取り戻しているが、その裏に、赤い光を隠し持っている気がしてならない。

 守ってくれたのか?

 犬の首元を撫でる。情けないことに、手が震えていた。







 ちょっとだけファンタジー。

 

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