おはようシープ その3
羊は、ジョン・レノンの歌声を追って、再び歩き出した。辺りが静まりかえっているせいか、やけにハッキリと聞こえる。ジョン・レノンの歌声が聞こえたからといって、実際にジョンが居たら、ここはかなりの確率で天国だろうな、と、そんなことも思った。
ただ、実際にジョンが居る訳がないにしても、音楽が聞こえるという事は、誰かが居るということだ。
歌声が、少しずつ近くなっている。曲名すら言い当てることが出来る距離だ。二番目のアルバムに入っていた、あの曲だ。自分の事もロクに覚えていないのに、ジョンの事は覚えている。その事実に、羊は苦笑する。
迷宮のような裏路地に入った。崩れた瓦礫の下に白骨を見つけた。二人分だ。親と、幼子だろうか。重なり合うような形になっている。
迷いそうになりながらも、なんとか裏路地を抜けると、大きな通りに出た。閑散としていて、唐突に現れた太陽が眼に眩しい。
白いワゴン車が眼に入った。荷台に、望遠鏡のようなものが積んである。その周りにもいくつか車があるが、不思議なことにそのワゴンだけが、白黒の写真の中に、唐突に現れた色彩のような存在感を持っている。
ワゴンの隣には、ラジカセがある。あれか、と羊は納得する。ラジカセから、ジョン・レノンの歌が大音量で聞こえてくる。
それから、ワゴンの下に人が居ることに気付いた。白骨ではない。生きている人間だ。ワゴンの下から、足だけが出ている。
既に、世界で独りぼっち、という気分だったので、警戒心を抱くよりも速く、嬉しくなった。「俺だけじゃないんじゃないか、なぁ?」と羊は犬に声を掛けた後、ワゴンに歩み寄った。
「もし」
と、声をかける。「もしもし」
大音量で歌うジョンのせいか、こちらに気付く気配がない。しかたなく、ワゴンの下から飛び出している足を、二度、三度と叩いた。
「なぁ、君」
「んぎゃ!」
と、悲鳴がワゴンの下から聞こえた。それから、頭を打つ音。工具が落ちる音。「なんだ、なんだよ」と、情けない声が続いて聞こえてくる。
「うわ、なんだ、アンタ。白っ」
ワゴンの下から這い出てきた女の子は、真っ先にそう言った。鋭い目に、肩口でざんばらに切った髪。尖った鼻のせいか、気の強そうな印象を受ける。どことなく幼さが残っている。
「驚かすつもりはなかったんだ」
羊は、無害なことを示す為に、両手を上にあげた。「俺は、怪しいもんじゃないよ」
「びっくりするくらい怪しいけど」
こちらを値踏みするかのように、眼を細めてくる。「アンタ、男? 女?」
「見て判らないか?」
「判りづらい。まぁ、どっちだっていいんだけど」と、肩を竦める。よくないだろうが、と羊は顔を顰めたが、気にする様子はない。「しかし、驚いたよ、こんな所で人と会うとはね」
「俺も驚いた」羊は、辺りの景色を見回す。「ついさっきまでは、世界に独りぼっちのつもりだった」
言ってから、犬を見た。「俺がアダムで、こいつがイブかと心配してた」
「何言ってんだアンタ」
「それくらい参ってたんだ」
頭を掻いて、それから、
「ここはどこだ?」と聞いた。
「迷子? 情けないなぁ。アンタ、どっから来たんだ」
羊は肩を上げる。「さぁ?」
「さぁ? って」
「眼が覚めたら、ここに居たんだが。覚えがないんだ」
「夢遊病かなんか?」
「それも、さぁ?」
「困った。なんだか変な奴に絡まれた」
「俺のほうが困ってる」羊は、くだらない勝負にも負けたくない一心で言った。
「やっぱりアンタ、怪しい」
そう指摘された。
「君はさっきから、何をしているんだ?」
羊は、またもワゴンの下に潜り込んでいった女の子に、そう声を掛けた。「何って」と声が聞こえる。
「何をしているように見える?」
「車を直しているようにも見えるけど」
「いや、それで、普通に正解だから」苦笑交じりの声だ。「さぁ帰ろうって時に、このポンコツが駄々をこね始めてさ」
帰る場所があるのか、と羊は小声で呟いた。「手伝おうか?」
そこで、若干の間を置いた後、「鍵つけっぱだからー」と妙に間延びした返事が返ってきた。「エンジンが掛かるか、試してみてくれぃ」
判った。と返事をして、車に乗り込んだ。犬が、器用にジャンプして着いてくる。座ったと同時に、膝の上に乗ってきた。
ブレーキを踏みながら、鍵を回そうとして、はた、と止まった。「どうしたー?」と声が聞こえてくる。
「早くしてくれー」
「いや、今エンジンが掛ったら、君を轢く形になるかも知れないけど、良いか?」
「良くないって」
言いながら、ワゴンの下から這い出てきた。「っと、これでいいよ」
言われた通り、今度こそエンジンを掛けた。獣の咆哮のような音と、振動が背中に響く。「お」と、期待に満ちた声が聞こえた。「いけるか?」言った矢先に、止まった。
「だめだ」
「だめだね。あー、もういいや。今日は無理。疲れたし」
「諦めが早い」
「アタシは、アンタが来るずっと前からやってるんだってば」
「自己紹介がまだだったね」
と、女の子がこちらに手を伸ばす。手が、油のせいか黒くなっている。「アタシは羽羽」
「ハバハネ」
本名とは思えない。「本名は、教えれない。ってやつか」
「文句は親に言ってよ。――アンタは?」
「羊」
「羊? ウールか?」
「なんで英訳するんだよ」苦笑する。「しかも、それ、羊毛だし」
「本名は教えれないってやつ?」
「そういう訳でもないんだが」
説明に困る。「覚えてないんだ」結局、正直に話すことにした。
「眼が覚めたら、ここに居たんだ。自分が誰かも判らないし、なんだか辺りは瓦礫の山だし、なんか、犬に懐かれてるし。本当、どうしたものかと」
羽羽は、怪しいものを見る目付きになった。「覚えてないって? 本当?」
「何も覚えてないよ。全部、すっからかんだ」
「全部?」
「全部」
「記憶喪失ってやつ? 本当に、そんなのってあるの?」
「頭でもぶつけたのかな」言いながら、自分の頭を撫でてみる。「で、困ってぶらぶらしてたら、ジョンが歌ってたから。ジョンが居るかと思って」
「あんまり困ってるように見えないけど」と、顔をしかめる。「なんでジョン・レノンを親しげに呼ぶのさ」
「この街の有り様は?」
瓦礫の山と、地面にちらほらと散らばる白骨を見る。「地震でも起きたか?」
「嘘でしょ? そこから?」
「俺も嘘だと信じたい」
「十年も前の話だよ?」
「十年?」
「クジラのことは?」
「クジラ?」
クジラとは、あの、大海を泳ぐ哺乳類のことか?
羽羽は空を見上げた。
「クジラが落ちてきたんだ」
羽羽は、そう切り出した。その視線は、なぜか空だ。「こう、上から、どん! って」
「いや、待て」
羊は、手で制止する。「なんでだ」
「なんで、とか言われても困るんだけど。アタシが知る訳ないし。っていうか、多分、誰にも答えられないよ」
その時の事を思い出しているのか、空から視線を外さない。「あれは、ちょっとした衝撃映像だったなぁ」
そこで羊はようやく、ボンネットの上で空を眺めていた時に、遥か頭上を横切った影を思い出した。「もしかして」と言う。「あれ、さっき、空を飛んでたのは」
「あ、見たんだ」
羽羽は、なぜか嬉しそうだ。
「クジラってのは、あれか?」
「まぁ、もちろん、クジラとは別物だけど。そうだね、みんなクジラって呼んでる。竜って呼ぶ人も居るけど」
どちらかと言えば、見間違いかと納得していたので、裏切られたような気分になった。
「アンタが見たのは、『アカ』だね」と、羽羽がまた意味不明な事を言う。
「アカ?」オウムになった気分だった。
「うん、アカ。この辺を飛んでるクジラ。あいつら、航路が大体決まってるから。アタシ達が適当に名前を付けて回ってるんだ。で、この街の頭上を飛んでるのが、アカ」
「なんでアカなんだ」羊は、言う。「全然赤くないし」
「中路さんが付けたんだけど」
「誰だ中路さん」
「『クジラ調査団』のボス」何が可笑しいのか、羽羽は笑った。「まぁ、とにかく、中路さんはね、クジラを見つけては、友人やら知人やらの名前を付けて回ってるんだよ。変な人でしょ」
アカ、というのは、人名らしい。
「なんでも、南極でバッタリ会って、意気投合した友人の名前らしいよ」
「どういう出会い方だよ」
「まぁ、こんな事になっちゃってからは、生きてるのか死んでるのか判らないらしいけど」
こんな事、と両手を拡げる羽羽の後ろには、瓦解した世界がある。
結構長くなる予定なのですが、このペースで大丈夫でしょうか。急ぐべきか。
羽羽
『クジラ調査団』メンバーの一人。一番若い。
中路
『クジラ調査団』のリーダー。既婚。
朱花
中路の友人。南極でばったりと出会ったらしい。