おはようシープ その2
美女に何度もキスされる夢を見るくらいなのだから、自分はさぞ色男なのだろうな、と一縷の望みを抱き、ひしゃげた車のバックミラーを覗き込んで、羊は直ぐに息を飲んだ。
亡霊のような男の顔が、鏡に映っている。これが、俺か、と眉を潜める。肌が異常な程に白く、髪も透明に近い白だ。眼だけが、血のように赤い。「羊だからか?」と声を出した。「羊だから、白いのか?」そういう訳でもあるまい。
色素欠乏症だ。記憶どころか、色素まで足りていない。ついでに言えば、荷物らしい荷物ももっていない。
ポケットをまさぐっても、ゴミしか出てこない。見事に素寒貧だ。ポケットから手を出し、両手を広げた。「何もないよ」と犬に見せる。「知ってるよ」と言わんばかりの眼で見られた。
本当に、何者なんだ、俺は。と羊は思う。
無数の車が、道路を堰き止めている。
歩行者道路も、交差点も、おかまいなく、だ。
これは、壮絶だな。と羊は眼前の光景に呆れる。まさに、世界の終わりだ。無数の車が大挙して、逃げ道を探している。そして、ことごとくが、失敗して、乗り捨てられている。運転席に、白骨死体が残っているのもあった。
車、というよりは、障害物だ。堰き止められた川のようでもあった。大海が押し寄せてくるかのような迫力も、ある。
先頭のほうの車は横転していて、完全にひしゃげている。何を間違ったのか、積み木を組み立てるかのように、その、横転した車の上に、段々と車が重ね合わせられている。強引に突破しようとして、失敗したのだろうか。
じっと眺めている内に、ふと、悲鳴が聞こえた。逃げ惑う人々の悲鳴と、わが子を探す母親の絶叫と、理不尽に対する怨嗟の声が、一斉に聞こえる。この、乾いた風の中に染み込んでいるのか、そういったやり場のない声が、耳元を通り過ぎる。
「助けて」「あの子はどこ」「死ね」「死にたくない」「早く行けよ」「何が起こった」「クジラ」「神」「なんだよこれ」ささやかながら、重い。執拗に頭を叩くかのような、幻聴の渦に眩暈を覚える。慌てて耳を抑えた。
「何が起こった」幻聴としても聞こえた、その台詞を、羊は呟く。
乾いた街は答えない。
幻聴も止んだ。
とくに行く当てがある訳でもないのだが、車の上を歩く事にした。犬が付いてこれるか心配ではあったが、直ぐに、無用な心配だ、と悟る。犬は、羊よりも遥かに軌敏だった。
というよりも、羊自身は、車を乗り越える度に息を切らし、頭上から降り注ぐ太陽の光にさえ押しつぶされそうなありさまで、早くも車の川を渡ろうとした事を後悔し始めていた。
ボンネットを踏みつけながら、正面を見据える。車の川は、どこまでも続いていて、果てがないように思えた。肩で息をしながら、額の汗を拭いながら、やがては赤いセダンの上に座り込んだ。「無理だー」と呟いて、大の字になる。熱を持ったセダンを、背中で感じる。
犬が、寄り添うように、羊の隣で寝込んだ。喉元を撫でながら、休憩がてら、しばらくはそこで転がっている事にした。
鳥が、頭上を横切った。その先には、羊毛をまぶしたかのような空が広がっている。笑ってしまうほど青くて、広い。背の高いビルがことごとく倒れているせいなのか、羊が知っている空よりも、更に深く感じた。そこ知れぬ海の底を眺めているかのようでもある。
それから、そうか、と羊は気付いた。地上がどうなろうと、空の青さと、のんきさだけは変わらないのだな、と。そう思うと、心強いような、爽快なような、なんとも言えない心地になって、ふと口元が弛んだ。「まぁいいか」とそんな事を呟く。
まさに、その時だった。
ふと、
空を、
遥か、空の、彼方を、
薄い、青白い雲の更に上、成層圏にさえ届きそうな青い境を、
巨大な魚の影が横切った。
「あ」と思わず声が漏れ、影を注視する。周囲の音が、消えた。どれほどの高度を漂う影なのか、無音の飛行だった。泳いでいるようにも見える。曖昧で、輪郭だけがうっすらと判る漠然としたシルエットにしか見えないが、人工物の動きには見えない。
タイミングを図っていたかのように、風に乗って、どこからかジョン・レノンの歌声が聞こえてきた。
相変わらず台詞が少ないですね。まぁ、まだ序盤という事で勘弁してください。
バトルもなければ、愛もない。そんなのんびりとした旅情ファンタジーですが、末長くお付き合い頂ければ幸いです。
一週間に、一、二度程度の更新予定です。
まとめ
羊・本編の主人公。色素欠乏症にして記憶喪失の男。
犬・本編の正ヒロイン。雑種犬。