おはようシープ
美女に、何度もキスされる夢を見ていた。
美女に何度もキスをされるいわれもない上に、その唐突さに、「これは夢だろうな」とかなり早い段階で判った。判ったが、そう悪い夢ではないので、目を開けて、げんなりするべきか。それとも、もう少しこの気分の良い夢を見ていようかと迷っている内に、濃霧が一気に晴れる様な、覚醒が始まった。眠気が、一気に無くなっていく。
美女は意識の底に沈んでいき。羊は、眼を覚ます。
眼を開けて真っ先に見たものは、見知らぬ犬の、真っ赤な舌だった。
黒い、猛々しくて大きな、犬だ。真っ赤な舌を出して、ハァハァしている。自分の顔が唾液まみれで、しかも先程の美女の夢を鑑みるに、十中八九、この犬に顔を舐められまくっていたのだろう。
猛々しいというのは、嘘だったかもしれない。間抜け面だ。千切れんばかりに尻尾を振っている。
「うぉん」と、犬が吠えた。
羊が眼を覚ました場所は、スクランブル交差点の中心だった。どうして、こんな場所で眼を覚ましたのか、羊自身には全く心当たりがない。
辺りを見回す。濃い霧が、周囲を包んでいた。その、霧の中で、大勢の人間が、交差点を渡っている。スーツを着た大人に、風船を持った子供。その子供の手を引く親。杖をついた老人。様々だ。人々が、アスファルトを踏み仕切る足音が聞こえる。
道を歩く人々の顔がよく見えない。輪郭だけは把握できるが、薄ぼんやりとしていて、色が極端に薄い。霧のせいなのか、それとも、頭がまだ眠っているせいなのか、それとも他に原因があるのか、ハッキリとしない。
しばらくは、しゃがみ込んだまま、その光景をジっと見ていた。
ここは、まだ夢の中か? と自問するが、返事はどこからも帰ってこない。
やがて、それは起こった。
砂埃を含んだ強い風が、羊の横っつらを叩いた。羊は思わず眼を閉じて、二度、三度と咳きこんだ。アスファルトを舐めるかのような、低空の、風だ。
誰かの嘆きにも聞こえる、ひゅおお、という風の音が、しだいに遠くなっていく。それが過ぎると、今度は、冗談のような静けさが羊の耳に残った。恐る恐る眼を開ける。
霧はすっかり晴れていて、同時に、人々の姿が消えている。
世界が、終わっている。
アスファルトはひび割れていて、その上には、蝉の抜け殻のように微動だにしない自動車が幾台も転がっている。横転しているのも、さかさまになっているのも、ある。ビルはことごとくが薙ぎ倒されていて、無事に天を刺しているビルは、見渡す限りでは二つしかない。
足元には、いくつもの白骨が転がっていた。すっかり風化してしまっていて、乾いた匂いしかしない。景色の一部として、馴染んでいる。
辺りには、名前も判らない様な植物が咲き乱れていて、街を覆っている。見方を変えれば、この街自体が、一つの大きな植物にも見える。
廃墟と化した街を、羊は茫然と見つめる。
ゴーストタウン、という単語が頭を過ぎったが。実際には、「ゴースト」と呼ぶに相応しくない清涼さが漂っている。雲間から、太陽の光が漏れ出す様な清涼さだ。実際に、空を見上げれば、のんきな青空が広がっていて、滅びた世界を慰めるかのような陽光が降り注いでいる。
状況を整理する為に、いくつかのことを考えた。
まず、なにが起こったか、ということだ。この、見憶えのない、すっかりと風化した世界は、なんだ。
次に、今がいつか、ということだ。頭上から降り注ぐ陽光から、ちょうど正午頃だということは判るが、それが判っただけでは、何も判らないに等しい。
さらに、自分が何者か、ということだ。ジッと、手のひらを見つめる。亡霊のように白い手が、そこにあった。「俺は誰だ」声に出すが、何も判らない。
記憶が、ない。
「まいったな」
と、思わず独り言が漏れる。自分の名前も判らなければ、年も、生い立ちも、性格も判らない。ものの見事に、何も覚えていなかった。
さきほどから頭を過ぎる、「羊」という単語は、俺の名前なのか? 羊はそう自問する。自問を続けていく内に、面倒臭くなって、やがて「まぁいいか」と決めた。「思い出すまでは、羊ということにしておこう」
風化した街中で、羊は一人、欠伸をする。
いや、正確には一人ではない。足元には、「わん」と吠えながら、ひたすら尻尾を振る一匹の黒い犬がいる。
「お前、俺の恋人か何かか?」
足元の犬に、声をかけてみる。「名前は? 性別は?」
「わん」
「わん、ってか。どれどれ」
犬を持ち上げて、確認する。「メスか。本当に、俺の恋人だったりしないだろうな」
「わん」
「どっちだよ」
苦笑する。それから、
「お前、いつから俺と居る? 俺は誰だ?」
「わん」
「判った、お前には何も聞かない。俺が悪かった」
そこで羊は、ようやく腰を上げた。大きく伸びをする。寝起きのせいか、身体の節々が痛むが、それほど不快ではない。
それから、前を見据える。道は、真っ直ぐ伸びている。両脇にある朽ちたビルが、まるで威嚇でもしてくるかの様に無言で見詰めてくる。厳粛な兵隊が、道を空けているかの様な光景にも見える。
その光景を見ながら、これは現実だろうか。と羊は考える。何故、廃墟の街の真ん中で、俺は犬と戯れているのだ。街の真ん中だというのに、辺りには人っ子一人居ない。神聖とも言える様な静けさの中に、犬と、俺だけが居る。これは、なんの冗談だ。
ふと、「俺は死んだのかもしれない」と羊は考えた。この、風化した世界は、まさに、彼岸に相応しい光景ではないか。つまらない妄想だ、と笑い飛ばすことも出来ない。どちらかと言えば、それこそが正解のようにも感じる。
夜に成れば街灯が灯り、ネオンの光がけばけばしく輝き、始終車が入り乱れ、人々が疲れ顔で右往左往していた、あの、喧騒と騒音の世界は、何処へ行った。醜悪で、常に苛立っていて、しかし恐ろしい程に強い魔王の様な、あの世界は何処へ行った。
目の前には、魔王の様だった世界の骸が転がっていて、それ等全てを包容し、慰めるかの様な陽光と、蔦状の植物がある。
頬を撫でる風が、どこか優しい。
「まぁ、とりあえず」
「わん」
「行くかぁ」
のんきな声を上げ、羊と犬は、風化した世界の中で最初の一歩を踏み出した。
キリの良い所まで修正して、第一話として投稿しました。オープニングに比べ、セリフの少なさにびっくりです。
誰か読んでくれるのでしょうか。ドキドキですね。