マウストゥマウス その3
「クジラというのは、同じ場所でジャンプすることが多いらしい。いや、それは大海を泳ぐクジラの話だが……そうだ、クジラのジャンプ、何か呼び方があったな、思いだせないけど」
「アイツらも同じだ」十年前の光景を、老人は忘れない。「ちょうど、あの辺りだった。辺りの景色はすっかり変わってしまったが、あの空だ。覚えている」
男が何か言いたげにこちらをちらりと見たが、そんな事をしている間にも、クジラはみるみる下降を続けている。
足元を風が撫でた。砂を纏った風が、まるでクジラに呼ばれているかのように、落下点に集結していく。
地響きの音と、雷鳴のような音が聞こえる。叙々に大きくなり、最終的には、地響きの音と雷鳴のような音しか聞こえなくなる。耳が痛い。耳を抑えても、殆ど効果はない。
逆さのクジラに眼をやる。その姿は、抗うだけ馬鹿らしくなるほど大きい。山のようだ。
来るぞ。老人は自分に言い聞かす。覚悟は、いいか。クジラが落ちてくる光景を、諦観する。
怖れはなかった。たぶん、と老人は思う。危険というものには、許容量があって、それを超えてしまうと馬鹿馬鹿しくなる一方なのではないだろうか。あの大きさは、馬鹿馬鹿しいだけで、怖くは、ない。爽快ですらある。
横目で、隣に立つ赤い髪の男をみる。眉根を下げ、まいったな、と言わんばかりの表情で頭を掻いている。彼もまた、怯えているようには見えない。諦観の表情だ。
「来るぞ」男が、また言った「俺としたことが、近づきすぎた。猛省だ」
来るぞ。
来るぞ。来るぞ。来るぞ。来るぞ。来るぞ。来るぞ。来るぞ。来るぞ。来るぞ。来るぞ。来るぞ。来るぞ。来るぞ。来るぞ。来るぞ。来るぞ。来るぞ。来るぞ。来るぞ。来るぞ。来るぞ。来るぞ。来るぞ。来るぞ。
空気が炸裂した。明らかな質量と攻撃力をもった風がぶちあたってくる。海を、正面から受け止めたかのような衝撃だった。実際、眼の前に広がる青色は、海のように見えた。
空だ。正面に、空が広がっている。自分の身体がどうなっているのか、まるで判らないが、地に、足がついていないことだけは、判る。上を見ているのだろうな、と思い、しかし何もできない。
身体中に衝撃が走った。視界がぐるぐると転がっている。強風、というか、暴風が吹きあれていて、立てば転び、転べば転がる。その度にみしみしと身体中が締め上げられる。
死ぬのか、死ぬのだろうか、死ぬのだろうなとばかりが、老人の頭を駆け巡る。その頭に硬い礫が当たる。また後ろに転がり、そして直後には、直前まで自分がしゃがみ込んでいた場所に、大きな、鉄骨が剥き出しの瓦礫が落ちてきた。
轟音が、また、した。
白煙はすっかりと晴れ渡り、その奥の、惨憺たる光景をあらわにしている。
周囲はたいらになっていた。
空が広く見えるのは、多分気の所為ではない。透きとおる青空が広がっていて、カラスがのんきに頭上を飛んで超えた。
地響きは続いている。
「九死に一生だ。お互い、悪運が強いな」自分でも意外なほどに、老人はしっかりと、その二つの足で立ちあがっていた。身体中が痛いが、最近になっては、どこかしこには痛みが走っているので、気になるほどではない。
「次、こんな機会があったら九回は死ぬ」それから、男は「ああ」と呻いた「さっき思い出したんだが、ブリーチだ」
なんのことか判らない。頭でも打ったか、と心配する「頭でも打ったか」実際に、そう口にした。
「打ったには、打った。それで思い出した。ブリーチだ」
「だから、なにがだ」
「クジラのジャンプを、ブリーチと言う」
「あの状況で、そんなことを思い出そうとしていたのか」
「自分が何によって死ぬのか、それくらいは知っておきたい。アンタにも伝えたかったんだが、それどころじゃなくてな」
「あの状況でそんなことを伝えられても、迷惑だ」
それから、老人は歩きだした。もともと、とくに用向きがあってここに立ち寄った訳ではない。足が向いただけだ。
「朱花だ」
と、後ろから声が聞こえてきた。そのあとにも何か言っていたが、無視した。
「ブリーチか」そう、小さく呟き、歩き続ける。
遥か遠くにはクジラが見え、それは唐突に隆起した山にも見える。