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マウストゥマウス その2

 空にクジラを見た時、ビル全体から溜息にも似た声が漏れた。緊張感の欠片もない、「あ」という声だ。「クジラ?」「クジラだ」「すげ」「奇麗」

 ビルから半ば身を乗り出し、老人はその光景を眺めていた。

 遥か遠くの、空。今にも降り出しそうな雲を割り、クジラが顔を出した。海中からジャンプするかのような格好を、逆にした形だ。

 ゆったりとした動作に見えた。雄大で、力強い、ジャンプだ。

「まずいんじゃないですか」

 そう呟いたのは、昨年入社した、田淵君だった。「あれ、落ちますよ」のんびりとした声だった。

 まさに、その通りだった。

 クジラは、まっさかさまに落ちた。ゆっくりと、しかし確実に真下に、落ちる。なぜ、ああもゆったりとした動作に見えるのか、理由は判らないが、スローモーションの画像を見ている気分だった。

 大地が割れる音が、耳を貫いて、同時に大地が割れる衝撃が足元から伝わった。呼吸を合わせたかのように、窓が一斉に割れて飛んできた。凄まじい力で後ろから引っ張られたかのように、身体が宙に浮かんでいた。

 身体中に衝撃が走る。どこかにぶつかった。前後不覚に陥っていて、どこにどこをぶつけたのか、それが判らなかった。ゆっくりと身体を起こそうとするが、それも旨くいかない。

 衝撃は、断続的に走った。巨人が地団太を踏んでいるかのようだった。

 逃げなくては。遅れてそう思った。這いつくばりながらも、なんとか前に進む。どこへ逃げていいのかは判らなかったが、とにかく外へ出ないことには助かる道はない。それだけは確かに思えた。



 感じることは出来なかったが、風が吹いたのか、からりと、田崎の白骨が崩れた。その音で眼を覚ます。それから、漫然と白骨を眺めた。

 黒く、深い眼窩が何か言いたげにこちらを覗き込んでいる。「羨ましいか」そう声を掛けた。返事はない。

 それから、「そうか、思いだしたよ」また独り言だ。「あの時、階段に居たのは、君か」

 十年前。オフィスから抜け出た老人は、真っ先に階段に向かった。その時の光景を思い出す。 醜悪さと凶暴さをあらわにした人間の姿が、そこにあった。絶叫と悲鳴が飛び交う中、恥も外聞もなく他人を押しのけて大勢の人々が階段に殺到するその光景は、不気味というより他はなかったが、そこに混じる他なかった。

「どけ!」と誰かを罵る声「助けて」という弱々しい声。そういったものが、階段で渦を巻いている。老人も何かを叫んだ筈だが、それは思い出せない。

 誰かを踏んだ感触が、確かにあった。肉が潰れ、骨が砕ける感触が足元から脳に伝わり、脊筋が凍った。誰かが足元に居る。それは判ったが、確かめるつもりもなければ、歩みを止めるつもりもなかった。

「あれは君だったのか? 俺は、君を踏んで先に進んだのか?」

 田崎の、暗く深い二つの双眸は何も言わない。

「恨んでいるか。のうのうと生きている俺を」

 と、そこまで言ったと同時、こつ、こつ、と何者かが階段を下ってくる音が聞こえた。人が居るのか、と顔を上げる。

「誰だ」そう声を上げる。ほどなく、奇妙な男が階段を下ってきた。

 真っ赤な髪の、若い男だった。警戒するべきなのか、それとも、人と会うのは久しぶりだ、と歓迎するべきなのか、判断が付かない。胸ポケットに、ナイフを忍ばせているが、それを突き付けるべきだろうか。

「独りか?」男は、真っ先にそう言った「声が聞こえたが、他に人が居るのか?」

 独り言を聞かれたか、とバツが悪い思いをする。「独りだ」とぶっきらぼうに返事をする。「何者だ。こんな所で何をしている」

「説明したいのは山々なんだが、ちょっとな、時間がない。お爺さん、ここはまずい。表に車を止めてあるから、俺と一緒に逃げるんだ」

「なに?」

「クジラが落ちてくるぞ」

 男は、表情一つ変えずにそう言うと、横を通り過ぎ、そのまま階段を下る。言葉の割に、焦っている様子はなかった。

「おい、待て……。どういうことだ」慌てて、男を呼びとめた。「クジラが落ちてくる? どうして判る」

「挙動に落ち付きがなくなった。絶対、とは言い切れないが、可能性はある。距離もあるけど、衝撃はここまで届く。少しでも遠くに離れないと」男は、振り向きもしなかった。「話ながら歩こう。俺はこんな所で死ぬ気はない」

 そう言って、男はツカツカと階段を下る。何者だ、と思いながらも、その男の背を追うことにした。

 最後に振り返り、田崎の骸に眼を向ける。「俺は生きるが、許してくれるか」返事はないが、返事を待つ間はなかった。


「クジラの観察が趣味なんだ」男は、そう説明した。「この辺の高台、空に一番近い所と言えば、このビルしかない。屋上からクジラを眺めてたんだが、挙動が怪しくてな。で、慌てて逃げることにしたんだが、その途中でアンタを見つけた」

 変わった趣味もあるものだ、と感心する。

「俺に言わせれば、アンタこそあんな所で何やってたんだって感じだが、聞かないほうがいいのか」

「別に、大した理由じゃない。たまたま足が向かった先があそこだったんだ」

 そうか。と男は感心もなさそうに返事をする。そのままの足取りで玄関口を抜けて、外に出た。いつの間にか風が強くなっていて、アスファルトを砂埃が舐めていた。

 そのくせ、空は、間が抜けているとしか思えないほど青い。

 遥か遠くの空に、クジラが見えた。一キロか、それとも二キロ先か、はっきりとした距離は判らないが、それでも目視出来るほど大きい。

「本当に落ちてくるのか」疑問だった。

「さぁ。ハッキリとは言えないが」

「どうして一々落ちてくるんだろうな、アイツら」そう言うと、男は振り向きもせずに、

「ずっと空に居る訳にもいかないだろう。鳥だって羽を休めるし、飛行機だって給油に降りる。トンボも麦畑に降りてくる。同じだ。アイツらはたまたま、でかすぎるだけだ。悪気はないんだろうな」

「車はどこに?」

 そう尋ねると、男は顎を先に向けた。「向こう。クジラの反対側、一キロ辺り」

 早歩きで、並んで進んだ。その内に、男が口を開く。

「自己紹介がまだだったな」立ち止まることはない。「俺は、ア――」

 と、ここで、初めて男の動きが止まった。立ち止まり、突然振り返る。視線の先ではクジラが泳いでいる。つられて、老人もクジラを捉える。

 クジラが、反転していた。背を、下に向けている。見たことのあるポーズだった。

「……ジャンプ」

「くそ、駄目か」男の声色が、初めて焦りを見せた。「来るぞ」

 クジラがゆっくりと下降を始めた。









 実は少し前から手探りです。原稿を失いました。

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