マウストゥマウス
背広を着た大人達が、交差点が青になるのを待っている。皆一様に、浮かない顔つきをしている様に見える。今は朝の八時、出勤時間だ。夏だというのに、朝の風は少し冷たく感じる。街全体から、疲れと眠気が発散されている。浮かれろ、と言われても無理な話なのかもしれない。
信号は中々青にならない。
もちろん、世界が終わってしまった今となっては、交差点も、背広を着たサラリーマンの進軍も、すっかり消えうせた景色の為、やはりこれは夢なのだろうな、とは判った。それも、起きているにも関わらずに見えてしまう類の夢だ。
しかし、あっさりと振り払ってしまうには、この夢は鮮明過ぎる。暫くは、眺めていよう。老人は、そう決めた。そう思った次の瞬間、信号が青になって、背広を着た大人達が一斉に歩み始める。
ざん。と、大地が揺れるような音が聞こえた。靴底が、一斉にアスファルトを叩く音だ。
老人も足を踏み出した。
一歩足を踏み出した瞬間、全ての幻覚が消えた。信号は赤でも青でもない。当然点滅もしていない。何色も発さない信号は、「唄は終わりです」と嘆く詩人の様にも見える。
周りには誰も居なかった。
老人は、独り、歩く。
――この交差点を渡って、少し先のコンビニで、コーヒーを買って、右に曲がる。
それは、十年前まで、老人の毎朝の日課だった。コンビニを曲がって直ぐ、汚れたテナントビルがある。今にも崩れ落ちそうな風体では有るが、それは、十年前から変わらない様に思えた。むしろ、その周りを囲い、威圧する王の様な貫禄すら持っていた立派なビルの方が、今や見る影も失っている。
崩れ落ち、剥き出しの鉄骨は、グロテスクな死者のそれに似ている。
老人はテナントビルの玄関口の前に立った。中を覗き込む。雨風に長く晒されていた所為で、少し黒ずんでいるが、それ以外は殆ど変わらない様に見えた。
「懐かしいな」
思わず、独り言を言う。最近はすっかり、独り言が癖になった。「独り言が癖になってしまったよ」と話す相手すら、居ない。
「十年か」
ここに訪れるのは、実に十年ぶりだった。どうして今更訪れようという気になったのか自分でも判らないが、オンボロテナントビルが世界の終わりにもめげずに、周りの倒壊したビルを尻目に、飄々と生き残っている姿に、少なからず感動を覚えた。
玄関口を超えて、中に入る。静かなものだ。しかしそれも、十年前から何も変わらない。十年前もこの玄関口には、誰も居なかった。それから、エレベーターを探している自分に失笑する。エレベーター? 馬鹿な。
階段を一段一段蹴る。二階の踊り場に、背広らしきボロを着ている白骨死体があった。胸に有るネームプレートに目をやる。「田崎」と書いてあった。
「君か」
予想もしない再会に、驚く。同僚だ。同じ頃に入社し、同じだけ働き、同じ愚痴を言い合い、同じく会社の古株となった。友人、いや、恥ずかしながら、親友と呼んでも差し支えない様な関係だった。これも恥ずかしながら、若い頃は同じ女性を好きになった事もあった。更に言うならば、きっと同じ時期に会社を去るのだろうな。と思っていた。
だが、実際には、定年退職までは行かなかった。後一歩だった。と老人は思う。定年退職を一ヶ月に迎えた時期に、世界の終わりは、唐突に始まった。
クジラが落ちてきたのだ。
マウストゥマウス編、スタートです。