英雄ホエール その4
「何を……」
狼狽混じりに、そう答えた。「何を言っているんだ」正確には、どうして判るんだ、と答えたかったが、この後に及んで、格好を付けた。
「なぜ、死ぬ」
「俺は別に」
「隠さなくていい。俺には、判る。見えるんだよ、お前の死期が」
ボールが、キャッチャーミットに収まる音が聞こえる。「ストライク!」と甲高い審判の声が飛んでくる。男はこちらから眼を反らして、バッターボックスで行われる、ピッチャーとバッターの攻防に注目する。
「お前は、試合が終わったら、バッターがベンチに戻る心地で、首を吊るつもりだ。そうだろ」
「どうして判る」
諦めて、そう聞いた。警戒するというよりも、不可思議な手品を見せられている気分だった。タネはどこだ、と探す心地だ。
「昔、生死に関わる仕事に就いていた。嫌気が刺して止めたが、困ったことにカンだけは鈍らない」
「生死。医者とか?」
ここで、男が「殺し屋」と答えても、不思議ではない。そんな鋭敏な気配が、男からは漂っている。
「羊は打てると思うか?」
「いきなり話を逸らさないでくれよ」
言いながらも、バッターボックスを見た。三球目が放られる直前だった。「無理だ」時久は断定する。「腰が引けてる。当たらない」
ツーストライク。試合終了は近いな、と息を吐く。
「どうすれば打てる? アドバイスはないか」
「だからさ、無理だって。野球を舐めるな、と経験者としては言っておく。アドバイスがあったとして、それを実践するには練習量が絶対的に足りない。いつかは打てるようにはなるだろうが、今は無理だ。ありえるとしたら」
「としたら?」
「まぐれ当たり。これしかない。意外とこれは馬鹿に出来ないけど、望みは薄いな。奇跡待ちってやつか」
「たとえば、奇跡が起こって、羊が打ったとしたら」一拍、開いた。「奇跡を目の当たりにしたら、お前は死ぬのを止めるか?」
不意を突かれた気分で、少し固まってしまったが、直ぐに持ち直す。「いや」と答えた。自嘲気味な笑みが顔に張り付いているのが、自分にも判った「それはないな」
「どっちがだ」
「打つってのは、ありえると思うんだ。奇跡なんて言ってしまったが、どんな素人でも、よっぽど運が良ければ、たった一打席だけなら、プロからだってホームランを奪える。野球に限らず、どんなスポーツでもそうだけど。ありえちまうんだよな、これが。ボクサーだって、路上で素人に不覚を取ることもあるだろ」
決して、実力ではないが……運も実力の内、と言ってしまえばそれまでだが、がむしゃらに振ったバットが、がむしゃらにボールを捉えて、がむしゃらにボールが場外まで飛んで行く。十分に、起こり得る。がむしゃらに買ったクジが、なぜか当たってしまう。そんなことですら、起こり得る。
「俺の打順は、終わったんだ。――アンタ、俺を説得しようとか思ってるのか。生きろ、と言いたい訳か」
「どうだろうな。実は、自分でもどうすべきなのか、判らない。最終的には、お前が決めることだ。ただ、よければ聞かせてくれ」
なぜ、死ぬ。
「気付いたからだ」
言いながら、俺は何に気付いた。と時久は考える。つまり、喋りながら考えていた。一体、俺は何に気付いた。
「世界は終わった」今更気付いたのか、と自分を嘲る声がする。ボール、とどこからか声が聞こえてくる。「俺は馬鹿だから、気付いていなかった。甘く見ていたんだ。まだ、どうにかなると思っていた」
男は何も言わない。バッターボックスを見ている。話を聞いていないのか、と不安を覚えるが、続けた。
「もう無理だ。この試合と同じだよ。人工、まだ少しずつ減ってるだろ。減る早さも増している。子供も産まれなくなってきたって聞いたな。これからどんどん酷くなる。誰にも止められない」
「神様にも無理だそうだ」
「幕引きだ。退場の時だよ。俺はそれに気付いた。それに」もう一つ、気付いた「俺には、もう愛すべき人が誰も残っていない。その事にも気付いた」
そうか、姉ちゃんが最期の一人だったんだな。なんとなしに、空を見上げた。青い。
「どうしても無理か」
「無理だ。もうどうにもならない」
「いや、世界は置いておいて、この試合は、無理か」
「アンタ、話を飛ばし過ぎじゃないか。ちょっとびっくりしたぞ」
「世界は終わった。それはいい。しょうがないこともある。これから十年も経てば、ここは荒野で、誰の呼吸もないだろう。白骨が積み重なり、更に時が経てば、全ては砂っつらだ。誰にも抵抗は出来ない。だけど、この試合は、まだ終わってない」
「負けず嫌いだな」
それから、突然、名案を閃いた、と言わんばかりに、男が手を叩いた。「もし」
「もし?」
「もし、この試合で俺達が勝ったら――そんな奇跡が起きたら、お前は生きるか」
「なんだそれ」
呆れながらも、それはいいかもな、と思う自分が居る。「案外、面白いかもな」そう答えている。「ありえねぇけど。それは、いいな」
ありえないから、快諾した。点差は、驚くべきことに十八点にして、最終打席。「イチローでも無理だな。王でも無理だ。まして、あいつじゃな」おかしくて、笑ってしまった。
バッターボックスを見る。
「あいつに期待しているのか?」そう聞いた。「奇跡は起こるか?」
「いや」
男は首を振った。不承不承といった感じだ。「自分で言っておいてなんだが、無理だろうな。奇跡は管轄外だ」
今度はピッチャーに眼を向けた。白髪混じりの中年の眼は、鋭い。お互い若い時に戦いたかったな、という悔根の念がない訳でもないが。もう、終わる。
「奇跡を見たことがあるか」
「うん?」
「生まれて、生きて、一度でも、奇跡を見たことがあるか」
何を言っている。時久は首を傾げる。
「俺はある」
男の視線の先に、黒い犬が居た。「たった一度だけ」
「この点差を引っくり返すような奇跡か?」
「ときおり起きるから、奇跡ってのは馬鹿にできない。運命は、変わる。俺は見た」
ピッチャーが投球モーションに入る。
運命は、白球に託された。「俺に相応しいじゃないか」そう口に出た。
投球モーションを見るだけで、ピッチャーの中年が、どれほどの思いで、どれほどの研鑽を成してきたかが、判る。肌で感じる。自分が成してきた練習を、思いだした。
血を吐くような思いで、泥に齧りつくような思いで、何度も何度もバットを振る。ボールを投げる。キャッチする。打ち返す。走る。暗くなるまで、時には暗くなっても、練習を続けた。
「打てるものか」
そう思った。打てるはずがない。
そう思っている内に、心臓を鷲掴みにされたような衝撃が走った。様々な考えが頭の中に一辺に広がり、白一色に染まっていく。自分が、どっちに居るのかが、判らなくなる。つまり、ピッチャーなのか、バッターなのか、それが判らなくなる。どっちだ、と思った。ピッチャーの手に握られたボールに収束するかのように、辺りの音が消えていく。
何も、聞こえない。
視界の隅に、小さな人の影が映った。はじめは、何が起こったのか判らなかった。試合が中断していた。なぜ? と立ち上がる。辺りを見れば、相手側のベンチも、味方側のベンチも、全員が立っている。
音が戻った。どうした。
「誰だ?」
と、誰かが言った。
小さな人影は、転がるような速度でマウントに入った。外野を守っていた、やはり見知らぬ誰かに声を掛けている。かと思ったら、突然、外野を守っていた男が、こちらに背を向けて走り出した。「え?」と誰かの声。自分かもしれない。
外野の男が、グラウンドの脇に止めてあった自転車に跨った。そして猛スピードで消えていく。「え?」と誰かの声。「え? え? え?」「え?」「なに?」困惑の声が、次々に上がった。
突如乱入してきた、その人影は、今度は別の外野手に声を掛けた。「なんだなんだ」と誰かが騒いでいる。人影は、また別の誰に声を掛けた。そして、相手側の選手達がしびれを切らしたかのように、その人影の元に殺到した。
「なんの騒ぎだ……?」
そう言わずにはいられなかった。「俺、凄い緊張してたのに」まだ、心臓が高鳴っている。
「なんだろ、行ってみる?」
これは羽羽の声だ。
そうこう言っている内に、相手側のピッチャー、確か、中路という男がこちらのベンチに駆け寄ってきた。羊も戻ってくる。犬も。磁石のように、ベンチに集まってくる。
「どうした?」
羊が疑問の声を上げた。手にはバットが握られていて、所在なさげだ。「折角の、チャンスが潰れたじゃないか」
「それどころじゃない」
中路という中年の男の声は上擦っている。「田淵君の子供が産まれたんだ」
「え……」
子供? 田淵、というのは、あの自転車に跨って、猛スピードで駆けて行った、あの外野手のことか?
「予定より、ずっと早かったらしい。でも大丈夫だ。母子ともに健康。田淵さんが、みんなに謝っておいてくれってさ」
喝采が、起こった。「おー」「田淵やるじゃん」「いつかやる男だと思ったよ」と、好き好きに声を上げている。実際には、頑張ったのは、田淵さんとやらではなく、田淵さんの奥さんだろうが。
「子供……」
まだ、現実感が湧かずに、ぼーっとしていた。手に汗を掻いている。この世に、この終わりゆく世界に、子供が産まれたのか。それはなにを意味する。心臓が、また高鳴ってきた。
「みんなで、押しかけるか?」
知らない誰かの声。「止めておけよ。邪魔するなって」と、また知らない誰かの声。その内に、羊が「でも」といった。
「なんにせよ。後三十分以内に九人揃えないと、俺達の勝ちだから」
英雄ホエール編終了です。
実はソフトボールしかやったことないですけど。