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episode1「あなたに出会う日」





――その時の僕はまだ、恋を知らない。








 ほんの半世紀ほど前まではここに存在しなかったとは思えないほど、この国に、この町に染み渡る西洋の文化。


 瓦屋根と木造建築と洋風のコンクリート建築が競演する町並み。


 洒落た車が行きかう往来で、人々は時代の波に乗り、和服と洋服を器用に使いこなす。右手に扇子を、左手に洋傘を。身体に着物を、足元にブーツを。


 この町には様々な文化があらゆる可能性として存在し、そこに独自の空気をかもし出していた。




 そんな時代を生きる、ある一人の青年がいた。


 彼はここしらばく、足しげく劇場に通っている。


 勤勉を良しとし、一人前の男の身体をした見てくれとは裏腹な、まだ年若い純朴さを内包した彼の目当ては、華やかな舞台でも見目麗しい役者たちでもない。


 彼は自身の「先生」である有名な人気小説家に、ある件についての聞き込みを任されていた。


 作家を志望する彼が師事するその先生は、推理小説などの分野で名作を連発する人気作家でありながら、時に警察の依頼を内密に受け、本業のかたわらで探偵業まがいのこともこなしている。


 過去に何度か、難事件を解決する大きな手助けとなったとして、今では警察上層部にも一目置かれ、強い発言権を持つ。


 しかしながら、先生はとにかく出不精。家にこもりがちな先生に代わり現場を駆け回ることになるのが、弟子であるこの男だった。


 見てくれなどにあまり気を遣わないことがうかがえる、彼の着古された着物と袴、足元の草履。襟元に白いスタンドカラーを覗かせ、かぶった帽子の下からは丸い眼鏡の銀縁が光る。




 片仮名表記の看板が賑やかに踊り、ハイカラな配色の店たちが軒を連ねる通りを抜け、冬を裸で耐え抜いた木々たちが立ち並ぶ並木道を進む。


 彼が通う劇場は、西洋と東洋の文化が入り乱れ、流行の最先端を行くこの町の中でも老舗の有名劇場。ここから何人もの有名な役者たちが生まれ、活躍し、名を残していった。


 行き着いたその先。


 西洋を丸ごとそこに持ってこようとしたかのような、洒落た意匠のコンクリート建築。外壁を赤茶色のレンガに埋めさせている。建物内の柱は木造建築ではなしえない重厚な作りで、壁には精巧な模様が彫られている。天井は見上げるほど高く、床には分厚い赤じゅうたんが敷き詰められていた。


 公演を見にきた観客らで、劇場周りやエントランス、ロビーなどはとてもにぎやかだ。皆が皆よそいきの格好をして、これからの観劇に期待をしている空気感が満ち溢れていた。


 人ごみを縫い、関係者通路へ。


 誰でもいいので話を聞かせてもらおうとウロウロしていたが、彼の劇場関係者への聞き込みは難航していた。


 生来の口数の少なさに加え、端的にしかものを言わない上、表情の変化にも乏しい。要するに、人との交流が極めて下手だった。


 話しかけても、いきなり核心の質問をぶつけてくる無愛想な男になど、会話の時間を割いてくれる人などいるはずもなく。おまけに忙しさもあって、軽くあしらわれてしまうことがほとんどだった。


 彼はどうしたらよいものかと、忙しなく劇場関係者たちがが行きかう廊下を、あてもなくさまよっていた。


 そこに、彼の頭上から降ってくる声があった。


「キミ、人にモノを尋ねるのが下手ねぇ」


 鈴の音のような声。


 見上げた視線の先は、通路脇の階段の上。


 一人の女性が彼を見下ろしていた。


 彼は彼女を一目見て、派手な格好と存在感、そしてその美貌から、彼女がこの劇場の女優であろうことがすぐに分かった。


 特徴的に短く切りそろえられた栗色の髪。太陽の輝きと精巧な人形のような可憐さを併せ持ち、目は長く黒々しいまつげに覆われ黒目がち。まぶたにはきらめく粉がしっかり塗られ、頬にも唇にも濃く紅が引かれていた。身体の線がくっきり出る深紅のドレスにその身を包みんでいる。


 彼女の第一印象は、毒々しいまでに鮮やかな花を想像させた。


「面白い人がいるなぁと思って、上からずっと見てたの」


 階段を降ってきた彼女は目の前に立ち、彼の頭一、二個分下から妖艶にほほえむ。


「もしかして、探偵ごっこでもしてるの? そういうの面白そう。私にもやらせて」


 軽い口調でそう言ってくる彼女に、男は不快感をあらわにする。


「大声でそういうことを言わないでください。あと、探偵ごっこなんかじゃありませんから」


 彼女は不満そうに、色っぽい赤い唇をとがらせる。


「じゃあ、私に聞き込みしてよ。何について調べているの?」


 男は躊躇したが、誰も話を聞いてくれない今、何も情報を得られる可能性がないよりはマシだと思い、口を開いた。


「……この劇場敷地内にある旧劇場の中に、ある古い部屋があります。そこに出入りしている人間を探しています」


 そう聞くと彼女は口角を上げてうなずいた。


「分かったわ。それを人に尋ねたらいいのね」


 はめられた。彼がそう思った時にはもう彼女は歩みを進めており、その背を慌てて追いかけた。


 彼が止める間もなく、彼女は近くにいた人間に声をかける。


「ねえちょっと、訊きたいことがあるんだけど」


 愛想よくほほえみをたたえてそう尋ねる彼女に対し、人々は男に対する反応とは違う様子を見せた。


 せっかく聞き込み相手が口を開いてくれたのに、それを止められるはずもなく。彼はまるで彼女の助手であるかのように、後ろで黙って待つことになる。


 彼女は口が上手く、巧みに話を聞きだし、逆に触れてはならない情報に関してはすっと足を引く達者さを兼ね備えていた。


 彼女と何人もの人に話を聞いていく中で、男は分かったことがある。失礼ながら初対面の彼女にはあまり聡いという印象は持てなかったのだが、実際の彼女は決して頭が悪いわけではないということだ。


「うーん。目撃情報、全然出てこないわね。どういう人なら知ってそうだと思ってるの?」


 手当たりしだいに結構な人数に尋ねたあと、彼女は振り返り、そう問いかける。


 彼は自分の手帳を見ながら、


「……今、旧劇場は倉庫として使われているようなので、裏方の仕事をしている人が詳しいのではないかと思っているのですが」


 と、先生からもらった意見をそのまま口にする。


「裏方さんね。分かった」


 うなずいてきびすを返した彼女の背についていきながら、彼は後ろからぽそっと尋ねた。


「……貴女はおいくつなんですか」


 彼が直球でそう尋ねたのは、別に彼女に興味がわいたからではない。


 自分の体格を差し引いても、彼女は自分の胸ほどまでしか頭が届いていないし、女性という点を考慮してもかなり細身だ。でも、派手な化粧の施された大人びた美しい顔と、曲線美をかもし出す衣装、そして圧倒的に上から来る態度で、彼女の年齢が全然分からなかった。一応何となく年上だとは思い、敬語で接しているのだが。


 彼女は振り返り、片方の口角と片眉を吊り上げる。


「女性に年齢を訊くつもり?」


 生まれてこの方長いこと本の世界だけに没頭していた彼は、女性の扱いのことなどよく分からない。素直に口を閉ざすしかなかった。


 彼女はそのあと裏方と思われる人たちに何度も声をかけた。


 そのさまは、彼の聞き込みに彼女が同行しているというよりも、彼女の聞き込みに彼が同行していると形容した方がしっくりくる。


 色々な人々から話を聞いていく中で男は知った。彼女はやはり役者で、この劇場で活躍するそこそこ有名な若手女優らしい。流行にうとく、舞台にも興味がない彼は彼女のことなど全く知らなかったが、周りの反応を見れば、この劇場で彼女の名が知れ渡っていることはよく分かった。


 しかも彼女は、物語に刺激を加える“悪女”の役として、舞台に欠かせない存在だそうだ。彼女の濃い化粧とけばけばしい格好にようやく納得がいった。




 結局、様々なところで訊いてまわったのだが、目撃談は何も得られなかった。


 そもそも、倉庫代わりになっている旧劇場にはほとんどの人間が立ち入らないそうだ。倉庫でなくただの廃墟として放置されていると思っている人も多かったくらいだ。


 しかし、今日は他の細々した情報を色々と得ることはでき、彼にとって初めて聞き込みがうまくいった日となった。


 それも彼女のおかげなわけだが、彼はそういうところに気の回るような男ではない。


 今日知った情報を一言半句漏らすことなく手帳に記すと、もう今日はやるべきことが済んだと、黙って先生の元に戻ろうとする。


 彼女に何も言わず階段をくだっていく。すると、階段の段差を利用して、彼女が背後から彼の肩に乗っかってきた。


「作家先生のお弟子さんはお礼の一つもしてくれないのかしら。私、とっても役に立ったでしょう?」


 彼女の突然の大胆な行動に内心では大分驚きながらも、彼はじっと考える。


 劇場の人々に聞き込む中で色々な話をしたし、自分の素性もあらかた明かしてしまった。自分がどこの誰か、何の調査をしているのか、彼女にはすっかり把握されている。


 にんまりほほえむ彼女の言葉を断る余地はない。彼女に構うのはこれがどうせ最後だ、と彼は自分に言い聞かせた。


「どうしてほしいんですか」


「劇場内に食堂があるんだけど、そこのケーキが食べたいわ」


 すぐに要求が出てくるあたり、この希望はあらかじめ考えられていたものなのだろう。男はそう察した。






 劇場内にある、劇場関係者のために設けられた食堂。


 分厚い赤いじゅうたんの敷き詰められた床に、装飾の施された革張りの一人掛けソファ。食堂といっても内装や雰囲気は街中にある洒落た喫茶店に近く、こういう場所に行き慣れていない彼は、居心地の悪い思いを終始いだいていた。


 彼女はそんな彼の様子を気にすることもなく、おいしそうにケーキを味わう。その隣には砂糖とミルクがたっぷり入れられた珈琲。


 ちなみに、人に合わせるということを知らない彼の前には、珈琲の一つも置かれていない。


 形の良い唇についた生クリームを細い指先ですくい取りながら、彼女は自身の仕事についてこう語る。


「“演じる”って別に特別なことだとは思ってないの。だって、世の中で何も演じていない人間なんていないもの。誰もが何かのふりをしているのよ」


 彼は相づちの一つもまともに打たず、彼女のケーキが早くすべて胃袋に収まってくれないか、そればかり考えていた。


 彼が興味を持っていないことは誰が見ても丸分かりなのだが、それでも彼女は自分の調子で会話を進める。


「……私ね、前からこういう探偵っぽい調査とかちょっとしてみたかったの。地道だけど、ドキドキするわね。あなたはいつもこういうことをしてるの?」


 彼女が楽しそうにそう尋ねるも、男はその質問を黙殺した。先生の手伝いでたまにこういうことをしているということは、先程の聞き込みの際にちらっと話したはずだからだ。


「……それにあなた、誰にも話を聞いてもらえなくて廊下で右往左往してたでしょ? なんだか放っておけなくって」


 そう言って彼女はニコッと笑う。


 それでも彼は、「そうですか」と冷めた言葉だけを返す。


「あ、そうだわ。聞き込みをしていて思ったんだけど、私は劇場関係者以外が怪しいと思うんだけどな~」


 調査に関する彼女の意見に、彼が珍しく視線を合わせる。


「その、旧劇場の古い一室に出入りしている人だっけ。皆は全然知らないって言ってたけど、私見たような気がするのよね。その例の部屋に入っていく人影」


 ケーキ用のフォークを顔の脇でリズミカルに動かしながら、彼女は記憶をたどる。


「見たら思い出せると思うのよ。劇場関係の人とはずいぶん雰囲気が違ってたし……」


 思い出すようにしながら視線を右上にやり、そうつぶやいたかと思うと、


「どうどう? 未来の作家先生様? 何か役に立ちそう?」


 と子供のようにワクワク、楽しそうに訊く。


 まじめに考えているのか、ふざけているのか。恐らく半々だろうと男は思った。


 何より、そういうことを考えるのは先生の仕事だ。自分は言われたことをやり、先生の思考の手がかりになるよう情報を集めるだけ。


 彼女が珈琲の最後の一滴を飲み終えるのを確認するなり、彼はすぐに席を立った。






 なんとか彼女から解放されて先生のもとに戻った時には、既に日が暮れていた。


 先生の屋敷は広い。これまでいかに先生の本が流行ってきたのかを体現するかのように。


 彼は通いの弟子ではあるが、一日の大半をこの家で過ごしている。玄関を抜け、慣れた廊下を通り、先生の書斎に向かう。


 先生に家族はおらず、この家には先生以外住んでいない。外からの声も聞こえなくなる夜ともなると、落ち着いた静寂が建物全体を支配する。


 薄暗い書斎では、手元の明かりを頼りに、先生がいつものように書斎机で原稿に向き合っていた。背中を向けたままで彼の報告を聞く。


 彼の優れた記憶力とそれを補完する手帳のメモ書きで、人々から聞きだした言葉や交わしたやり取りを、一言半句たがわず伝えることができた。


 すべてを聞き終えてから、先生は言った。


「今日はやけに聞き込みがうまくいったようだね」


 そう先生が漏らしてしまうくらい、普段の彼の聞き込みの成果はひどいものだったわけだが。彼は素直に事実を語る。


「本日は一日ずっと、“なんとか”とかいう女優がやたら絡んできました。そのためだと思います」


 そう言って彼女との一連のやり取りを詳細に語った。


「なんとか? ……名前は?」


 先生は、男のした表現を訝しげに繰り返す。


 男はスッパリとこう答えた。


「興味がないので知りません」


 先生は呆れた様子で手を止め、彼の方に向き直る。


「人の名前を把握するのは基本中の基本だ。明日もう一度劇場に行って、本人に訊くでも調べるでもいいから、彼女の名前をちゃんと知ってきなさい。君自身で」


 例えるのならもう“おじいさん”に近い先生の穏やかな顔に浮かぶ、子供を諭す時のような表情。


 なぜ先生が、“彼”が彼女の名前を知ることにこだわらせるのか。それは彼自身にも心当たりがあった。彼はどうも、他者に関心が無さ過ぎる。先生もそれを懸念しているようだった。


 先生のような作家になりたいのであれば、まず身の回りの人に積極的に興味を持たなければならないと、彼は何度か指摘されたことがある。


 それから先生は、


「それに彼女は唯一の目撃者かもしれないしね」


 と、言葉を足す。


 言われてみるとその通りで、よく考えると彼女はあいまいながらも目撃談を語った唯一の人間だ。


 彼は先生の意見を「はい」と承諾し、素直に頭を下げた。












 彼は翌日も劇場に行き、彼女に出会った。


「あら、また聞き込み?」


 舞台が終わってすぐなのか、彼女は今日もまた、身体の線を引き立たせるきらびやかな衣装に身を包んでいた。大ぶりの耳飾りのきらめきが、顔周りを明るく照らしている。


 彼の姿を見つけ驚きながらも、彼女はすぐに近寄って、真紅の口紅が引かれた唇で色っぽくほほえんだ。


 彼が彼女に尋ねようとした時、ある人物が突然声をかけてきた。


「おや?」


 二人のそばに現れたのは、ジャケットで正装している大柄な男性。年は二人の父親と同年代くらいか少し若いくらいだろうか。髪型はライオンのたてがみを彷彿とさせる。


 その人物こそ、彼も何度かちらりと目撃したことがある、この劇場の総支配人である館長だった。


 館長は二人が一緒に居るのを見て、目を丸くする。


「あなたは彼女の……?」


 その反応に、彼女はべったりと彼の腕にひっついてみせた。


「ふふっ。この子かわいいでしょ? ご主人様のお使いを一生懸命こなしてるワンコなのよ」


 彼女なりに変な誤解を生まないようごまかしたのかもしれないが、あまりの言い草に彼は何の言葉も出てこなかった。


「ああ。あの作家先生の助手の方が劇場に出入りしていると聞きましたが、あなたでしたか」


 どうして今の彼女の説明で伝わったのか心底疑問に思いつつ、彼はとりあえずうなずいておく。


「ねえ、館長に色々聞かなくていいの?」


 相変わらず腕にくっついたままの彼女が、彼を見上げてそう尋ねる。


「……何点かうかがいたいのですが、よろしいですか」


 彼女の言葉を受けて彼が訊くも、館長はそばの柱時計を見て表情に渋さをにじませる。


「うーん……協力したいのは山々なんだけれども、このあとすぐに用事があってね……」


「館長。ほんのちょっとだけでいいから時間を頂戴よ。ね、いいでしょう?」


 彼女がねだるようにそう言葉を重ねると、「まあ、少しだけなら……」と渋々承諾してくれた。彼女は「やったわ」とでも言いたげな笑顔で彼を見上げるけれど、彼はそれには視線もくれず、淡々と館長に質問を始めた。


 その多忙さからこれまでなかなか捕まらなかった館長に時間を割いてもらえたことは、思わぬ収穫だった。


 劇場のことであれば一番詳しいであろう館長を、先生の読みもあり、彼は内心かなり怪しく思っていたのだ。


 だが。終始ずっと脇に彼女がぴったりくっついていたため、無防備に身体を寄せる彼女にやたら気が散って仕方なかった。そのことで彼が、自責の念と罪悪感にひどくさいなまれるのは、また少し後のことだ。




 色々と話を聞け、忙しなく去っていく館長を見送った後。


 いつまでもむっすりと黙ったままの彼に、彼女は尋ねた。


「怒ってるの?」


 彼は視線を彼女に向けないまま、


「いえ……。館長に話を聞けたことに関しては、感謝しています」


 と答えた。


 いきなり人前で犬呼ばわりされたり、他の色んなことに心乱されたことは別として。彼は心の中だけでそう言葉を足した。


「じゃあ、もっと満足そうな顔をしたらいいわ。ニコッて。ほら、やってみて」


 彼女はぐいと彼の服の袖を引っ張って自分の方に顔を向けさせると、自分の両の口角に人差し指をあてがい、きゅっと上にあげて見せる。


 彼がそれに乗るわけがなく。無視に近い形で彼女を冷めた目で見つめていると。


「もう、せっかくの女優じきじきの演技指導なのよ。ちゃんとやって」


 そう不満げに小さな唇をとがらせたあと、彼女は彼の顔に手を伸ばした。無理矢理その頬を引っ張る。そして。


「……ぷっ、あははは! やっぱりどうやってもダメだわ、余計に変な顔!」


 自分でやったにもかかわらず、女優らしからぬ勢いで大笑いしだす。


 はっきりイラッとした表情を浮かべている彼のことなど、今は眼中に入っていないだろう。物理的にも、精神的にも。


「はぁ~、おかしい。笑っちゃった、ごめんね」


 胸に掌をあてがい、なんとか呼吸の落ち着いてきた彼女は、目尻の涙を指先でぬぐう。


 彼からすると、彼が一生に笑う分を、彼女はこの一時で全て笑い切ったようにさえ思えた。


 そして彼女は満面の笑みで言う。


「あなたって楽しくて面白い。よく言われない?」


「言われません。それに、僕は全然、楽しくも、面白くも、ないです」


 彼はげっそりとそう返すしかなかった。


 ちょうど人々の流れが絶え、二人しかいない廊下。半円型の天井に二人の声が反響する。


 彼女は少し黙り、じっと彼のことを見つめた。


「……あなたって不思議な人」


 目を細め、彼女は穏やかにそう言う。


 彼からすると、彼女の方がよほど不思議な存在だと思うのだが。


 自分がいくらこれといった反応を返さなくとも、何度も何度も話しかけてきて、自分に構うのだから。


 彼女は言葉を続ける。


「どうしてかしらね……。こんなに私が“ワタシ”でいるのって久しぶりだわ」


 最後まで聞いても、やはり彼には、彼女が何を言っているのか良く分からなかった。






 夜の公演があるという彼女とようやく別れられ、夕闇の支配する帰路についたところで、彼はハッと大事なことを思い出した。


 彼女の名を聞いていない。


 先生に課された今日一番の目的はそれだったはずだったのに、すっかり彼女の流れにのまれてしまった。


 目的を果たすまでは先生のもとに帰るわけにはいかない。


 幸い、他の人たちに比べて忍耐力はかなり強い方だと自覚している。彼はそのまま、劇場の外で舞台の終演を待つことにした。


 そして、日はすっかり暮れる。


 長い時間が流れ、本日最後の舞台の幕が下りたようだ。正面口から沢山の観客らが吐き出されてくる。


 しばらくし、裏口方面から大物役者が取り巻きをもって出、人気の有名俳優や女優たちが出待ちに迎えられながら続々出て行く。


 その波が収まると今度は、裏方や劇場食堂の給仕、清掃員、警備員と思われる劇場関係者らがわらわらと出て行った。


 その頃にはもうすっかり建物内の灯りも落とされ、外壁を煌々と照らしていた電灯も消される。


 真っ暗になった劇場に、もう最後と思われる劇場関係者が扉に鍵をかける。


 男はその人に尋ねた。


「あの。この中にもう人はいないんですか?」


 そう尋ねられ、当たり前だとばかりに不思議そうに首をひねり、言う。


「はあ、そりゃそうですよ。どなたのファンだか知りませんが、出待ちをしてももう誰も出てきませんよ」


 自分はずっと出口を見ていたし、塀で囲われた劇場敷地内から出られるところは正面口か裏口しかない。


 あんな派手な女性を見落とすわけがないと思うのだが、と今度は男が首をかしげる番だった。






 次の日。ようやく彼は彼女から名前を聞き出すことができた。


 劇場で姿を見つけるなり、挨拶も挟まず開口一番「貴女の名前を教えてください」と言ってきた彼に、彼女は「えっ、今更?」と驚き、また吹き出すように笑った。


 名前を教える条件という名目で、彼女の昼の空き時間に、二人は劇場裏手の小川沿いを歩いた。にぎやかな表通りに面した正面側とは建物を挟んで反対側にあるため、人もほとんどおらずとても静かな場所だった。


 空気は少し涼しいけれど、それも気にならないくらいの日差しが穏やかに降り注いでいる。


 二人だけの空間で、彼女がふいに尋ねる。


「あなたの調査している事件は解決しそうなの?」


「……さあ。僕は情報を聞き出して、先生に伝えるだけですから。詳しいことはよく知りません」


 彼は淡々と言葉を返す。


 彼女は不思議そうに小首をかしげた。


「どうしてそのことを調べているのかも、あなたは知らないの?」


 彼は少し考えてから、うなずく。


 これまで何回か先生に代わって情報収集をしてきたが、あまり核心に触れるようなことは説明されてこなかったし、自分も説明を求めなかった。先生に言われたことを忠実にやる。ただそれだけ。今までそれを疑問に思ったことなどなかった。


 彼女はしばらく黙った。


 最初の問いかけは、会話のクッション代わりだったようだ。


 そして、改めて口を開く。


「……あのね。明日、初めて私のやりたいようにやらせてもらえる舞台があるの。脚本も、演出も。たった一日、明日限りの公演よ」


 並んでゆっくり歩きながらそう話す。いつも自然体に見える彼女の声が、珍しく少し強ばりを帯びていた。


「私が今までどんな気乗りしない役でも全力でやってきたのは、この時のためなの。……緊張するけど、頑張りたい」


 いくら彼でも、そう言われたら返すべき言葉は分かっている。


「……頑張ってください」


 彼の言葉に気持ちがこもっているかどうかは別として、それでも彼女は「ありがとう」と嬉しそうにほほえんだ。


 それから、改まってこう言う。


「あの、それでね。“ワタシ”のことを応援してくれている人がいると思えたら、きっと私、頑張れるから……」


 彼女は彼の瞳をのぞきこむ。


「ね。だから、あなたに見に来てほしいな」


 一度も舞台を見たことないんでしょう、と彼女は決断を後押しするような言葉を重ねる。


 だが。


「どうして僕が?」


 彼としてはこの言葉は、なぜ自分が誘われるのだろうと本気で不思議に思う素朴な気持ちから発せられたものなのだろう。


 しかし、普通の人間がこの返答を聞いたなら、とても冷たい拒絶の言葉に聞こえるに違いない。


 彼女はそっと目を伏せた。


「うーん……。そうよね……」


 彼はてっきり、この後彼女がいつものように強引にお願いしてくるかと思っていた。そうしたら誘いに乗ってもいいか、くらいには思っていた。


 けれど彼女は「分かったわ。いきなりごめんなさい」とあっさり引き下がった。


 なので、逆に彼が言葉を重ねる。


「見に行かないと貴女の名前を教えてもらえないというのなら、見に行きますが」


 彼女は首を横に振る。


「ううん。そんなイジワルなこと言わないわよ。私の名前は『椿月つばき』。良かったら覚えておいてね」


 鮮やかな花の名と静かなる月の名をいだいた自分の名前をサラリと告げると、


「さて。これから夜までずっと、明日のための稽古なの。そろそろ行かなきゃ」


 と、彼女が望んだはずの散歩を自ら早々に切り上げた。


 これには彼も、肩透かしを食らったような感覚が否めなかった。


 それと、いつもニコニコ笑っている彼女の表情に寂しげな影がかかったことを、いくら鈍い彼でもはっきり感じ取ることができた。


 それから、「頑張って」の言葉も、「さよなら」の挨拶さえもすることができないまま、あっという間に彼は彼女と別れた。






 その夜、彼はまた先生の元へ行き、彼女の名前も含め今日の一部始終を全て報告した。


 いつもならそれで終わるのだが、彼は先生にこう尋ねた。


「先生。あの……今回の調査というのは、どういうものなのでしょうか」


 彼の言葉に、背を向けていた先生は身体をひねらせる。


「どういうことだい?」


「……旧劇場のある古い一室に出入りしている人間を探していると、そういうことで情報を集めてくるように言われていましたが、なぜその人間を探しているのでしょうか。その古い一室とは一体何なのでしょうか」


 今までまったく訊かれることのなかった、男からの事件の対する質問。


 先生は少し面食らった様子で、少し黙って考えてから、からかうようにほほえみ、こう言った。


「君が興味を持って訊いてくるとは珍しい。その、椿月という女優の影響かな」


 彼はどう返答したらよいのか分からなかったので、黙っていた。


 彼女の名前を聞くとどうしても思い出されてしまう、最後のやり取り。


 いつもと違う彼女の態度が、どうしても気になった。


 自分は舞台や役者には詳しくないが、もしかしたらああいう誘いをされたら絶対に断ってはならないとか、決まった断り方があるだとか、暗黙の了解のような一般常識があったりしたのだろうか。


 自分が礼節を欠いた振る舞いをしたから、彼女は呆れて冷たい態度を取ったのではないだろうか。


 冷たい態度。自分が相手にそう振舞っても何も気にしていなかったはずなのに、人にされるとこんなにも気持ちが騒ぐものなのか。


 彼女とはもう、いつ二度と話せなくなってもおかしくない間柄なのに。なぜあんな別れ方をしてしまったのだろう。


 彼が心の中でもやもやと考えていた時、先生が話し始めた。


「今回警察から依頼された調査はね……端的に言うと、その旧劇場の一室に、違法な闇取引の商品が保管されていたそうなんだよ。建物が使われなくなって人が居ないのをいいことに、誰か悪い人が勝手に使っていたんだろうね」


「その部屋は、今はどうなっているんですか?」


「そのままにしておくよう、私が警察に指示した。その部屋の存在が発覚したことを知らなければ、犯人はまたそこに戻ってくるかもしれないだろう?」


 なるほど、と彼はうなずく。


 いつもなら夜は先生のお手伝いをして帰るのだが、今日は早く帰っても構わないと言われた。


 色々と気に病んでいることがあり心が騒がしかったので丁度良かったと思いつつ、もしかしたら先生にそれを見抜かれて気を遣われたのかもしれない、とも思った。




 自分の家に帰っても、彼は落ち着かない夜を過ごした。


 こんなに心に引っかかるくらいなら、あの時素直に、彼女に舞台を見に行くと言えば良かったのだ。


 布団の中で何度も寝返りを打ちながら、彼は明日は朝一で劇場に行こうと心に決めた。











 翌朝。


 浅い眠りから目覚めた男は、草履の足を劇場に向かわせていた。


 今日限りの公演だと言っていたし、きっと昼公演と夜公演をやるだろう。


 大分朝早いが、このくらい早ければ出番前の彼女に会い、とにかく昨日の自分の態度を謝り、改めて舞台が見たい旨を伝えられるだろう。昨夜、眠れない間に考えた算段だった。


 しかし、たどり着いた劇場は思っていた様子とは違っていた。


 朝の静けさに似つかわしくなく、騒がしい。人々も忙しなく走り回り、ただ事ではない空気が漂っている。


 あちこちでザワザワと交わされる、人々の会話が耳に飛び込んでくる。


――主演女優がどこにもいない。


 男は我が耳を疑った。


――近くで事故があったような報せはない。逃げでもしたのか?


 そんなわけがない。彼は無責任な想像にとっさに反論したくなった。


 昨日の言葉を信じるのなら、彼女は今日の舞台に並々ならぬ思いをかけてきたはずだ。


 いても立ってもいられず、彼はとにかく館長を探した。


 主演女優が不在というまさかの事態に、まだ早朝にもかかわらず館内は騒然としている。


 劇場関係者たちは、主演女優が現れることを信じて準備をする者たち、心あたりの場所を探す者たち、万一のための公演中止を視野に入れて動く者たちなど様々だったが、皆一様に慌てていた。


 彼がなんとか館長を見つけられた時、館長もかなり狼狽し、疲弊していた。


 彼はすぐに話を聞いた。


「うちの椿月はこの公演にこれまでの女優人生の全てをかけていた。勝手にいなくなるなんてことはありえないはずなんだ……。警察にそう言って何度も捜索を依頼したんだが、事件性はないと言って全く取り合ってくれないんだよ」


 公演を中止しなければならなくなるという事態への焦りもあるが、女優としてだけでなく一人の人間としての彼女の身を案じていることが、館長の言葉から伝わってきた。


 そして不思議そうにこうこぼす。


「でも……最初にここの管轄の駐在さんに相談したときは、真剣に話を聞いてくれたんだよ。だが、事件として話が上に行った途端、まるで何かの圧力がかかったかのようにもみ消されてしまったんだ……」


 彼はその話を聞いて、自分の知らないところで何か大きな事件が起こっているような、椿月が大変なことに巻き込まれているような気がしてならなかった。


 彼はハッと思いついて、警察上層部にも口を出せるような存在、自分の先生に相談しに行くことにした。


 しかし。劇場からそう遠くない先生の家に駆けていくも、いつも家にいるはずの先生の姿はどこにもなかった。


 こんな時に外出されているなんて、と自分の悪運を歯がゆく思ったが、そうしていても仕方がない。


 彼は劇場内外で自分の思いつく限りの場所を、それからここは絶対にないだろうという場所まで、彼女を探して回った。


 だが、どれだけあちこち一生懸命探しても、彼女はどこにも見つからない。


 そうこうしているうちに無情にも時間は過ぎ、正式に公演中止の発表が出された。


 せっかく集まった観客たちは口々に不満をこぼし、従業員たちは返金作業と謝罪に追われた。


 一部の関係者たちは心無い言葉を投げていたが、彼は昨日の彼女の言葉を疑うことはできなかった。


――あのね。明日、初めて私のやりたいようにやらせてもらえる舞台があるの。脚本も、演出も。たった一日、明日限りの公演よ。


――私が今までどんな気乗りしない役でも全力でやってきたのは、この時のためなの。……緊張するけど、頑張りたい。


――あの、それでね。“ワタシ”のことを応援してくれている人がいると思えたら、きっと私、頑張れるから……。


――ね。だから、あなたに見に来てほしいな。


 彼女は本当にこの舞台をやり遂げたかったはず。それでも来られなかったのだから、何か大変なことが起こっているに違いない。


 彼は一度探したところも含め、また彼女を探した。近隣の店の人間にも何度も尋ねた。もう既に足は棒のようになっている。


 なぜこんなに必死に彼女のことを探してしまうのだろう。


 どうしてもちらつくのは、最後に話したときの彼女の寂しそうな顔。


――どうして僕が?


――うーん……、そうよね……。いきなりごめんなさい。


 もし万が一何かあって、あれで彼女と別れることになってしまったら、自分は絶対に後悔する。ざわつく胸の中、そんな気持ちがあった。


 しかし。そうしてあらゆる場所を探し尽くした彼には、もう行くような場所も思いつかなかった。


 その時ふと、彼女と話した記憶が呼び覚まされる。


 彼女は旧劇場の古い部屋に出入りする人影を目撃したことがあると言っていた。


 もうずいぶん前から使われなくなった旧劇場は、現在は一応は倉庫として使われるも普段は滅多に人が立ち寄らない場所だ。


 そんなところに行ったことがあるという彼女は、もしかしたらまたそこに行ったのかもしれない。そこで何か事件や事故に見舞われたのかもしれない。


 彼はまた駆け出した。


 旧劇場は、現在使われているこの建物のちょうど真裏にある。建物の脇から回り込むと、古びながらもかつての荘厳さを想像させる、重厚な造りの建物があった。かつてはここが劇場として使われ、様々な役者が演じ、いくつもの劇が上演され、多くの観客たちが笑ったり涙したりしていたのだろう。


 旧劇場入り口前には、一人の警官が立っていた。


 昨晩聞いた話と照らし合わせて考えると、ここに侵入しようとする不審な人間を捕まえるために、先生の指示で見張りに立たされているのだろう。


 彼は先生の手伝いである自分の身分を名乗り、その警官に尋ねた。


「ここに誰か来ませんでしたか?!」


 彼の勢いに押されながらも、警官ははっきりと首を横に振る。


 それでも彼は、もしかしたら他に入る口があるとか、見張りが立っていないような時間帯に入り込んだとか、何かあるかもしれないという気持ちを払拭しきれなかった。


 半ば強引に許可を得て、中に入り込む。


「椿月さん!! 居たら返事をしてください!」


 旧劇場で彼女の名前を大声で叫んで回る。昨日彼女の名を聞けていて良かったとこれほど思ったことはない。


 傾いた夕日が差し込み、建物の中が茜色に染められている。


 特に施錠されていない部屋がほとんどだったため、彼は一部屋ずつ全ての扉を開け、棚の中から長椅子の下まで隅々を探し回った。


 声が枯れるほど彼女の名を呼んだ。でも、彼女は見つからない。


 そして。


 無意識のうちに避けていたのか、最後に一部屋だけ残った場所があった。


 先生の指示で出入りの目撃者を探し回っていた、例の古い部屋。ここは闇の取引に行われる、表には出せない商品の保管がされていた現場だという。


 流石にその部屋の扉には大層な施錠があった。彼は外部からドアを壊せないことが分かると、中庭にまわってガラスを叩き割った。


 暗幕が引かれていて外からではよく見えなかったが、飛び込んだその中には、大きなものから小さなものまで、乱雑に物が置かれていた。


 彼はカーテンを端に引き、部屋の中に光を招き入れる。


 すると、物たちの隙間に落とされるようにして、誰か気絶した人間が後ろ手に縛られて倒れているのが分かった。


 差し込む西日の強い光に浮かび上がらされる袴姿。頭の部分でリボンが結われた長い下ろし髪。


 椿月を探していたはずが、思わぬ形で見知らぬ女性を見つけてしまった。


 放っておけるわけがない。彼はすぐ、気を失っているその正体不明の若い女性の傍に膝をついて、抱き起こした。


「君! 一体どうした、何があったんだ! しっかりするんだ!」


 肩をつかみ彼女の体を揺すると、気が付いたのか一度苦しそうに強く目をつぶった後、薄くまぶたを開いた。


「う……。こ、ここは……?」


 事態を把握しようと、女性がゆっくり首を回して周囲を見、数回まばたきをする。


 その仕草と、聞き覚えのある声。そして記憶に結びつく、つい最近そばで嗅いだことのある匂い。


 信じられないけれど、もしかして。


「……貴女は……椿月さん、ですか?」


 その言葉に彼女は驚き、自分を抱く者の顔を直視した。そして相手が彼だと分かると、ハッと息を飲む。


 互いに次々あふれる、沢山の訊きたいこと、話したいこと。


 しかし、一番は。


「ぶ、舞台は……! 今日の私の舞台は?!」


 一気に血の気が引いたような顔色になり、彼女は必死にしがみついて彼に尋ねる。


「……中止に、なりました。主演女優が不在ということで……」


 彼の言葉に、彼女の体は一気に脱力する。何を嘆くよりも一番深く悲しい嘆息が、彼女の口から漏らされた。


 そんな彼女に、彼が遠慮がちに問いかける。


「椿月さん……その姿は……?」


「……いつもの変わった色と形の髪は舞台用のカツラ。あとは舞台衣装と、お化粧。どっちかっていうとこっちの方がいつもの私に近いわ。……あんな派手な格好、劇場じゃなきゃ出来ないし……」


 抜け殻のようになりながらそうポツポツと語る彼女は、身体の力が抜けているにもかかわらず、両手にだけは強く力が入り、彼の服をしっかりと握っていた。まるで何かの恐怖から逃れようとするかのように。


 今の彼女は普段の彼女のままのようでいて、その見た目は彼には非常に幼く感じられた。いつもの派手な化粧、目を引く髪型と衣装、それらが引かれただけで、今度は下の方向で年齢不詳に見えた。いつもはなんとなく年上だろうと思っていた彼女だが、今は五つ六つ下と言われても全くおかしくはない。


 それにその態度も、見た目や気力に起因するものなのか、劇場での彼女が豪奢な花瓶に生けられた大輪の花だとしたら、今の彼女は雨に打たれる道端の小さなスミレの花のようだった。


「一体、何があったんですか?」


 そう尋ねる彼を、彼女はチラと遠慮がちに見上げ、理由を口にする。


「……私、昨日の夜の稽古が終わってから、あなたに会いに行ったの」


 どうして、と訊こうとした彼の目に入る、彼女の傍に落ちていた白い封筒。彼女のものと思われるそれからは、劇場のチケットがのぞいていた。


 昼間は引いたもののやはり諦められなかった彼女は、彼にもう一度、今度は直接チケットを渡して招待するつもりだったのだろう。


「あなたの先生のことは聞き込みの時に聞いていたから、そちらにお邪魔したらあなたに会えると思って。でも……そこで私、思い出しちゃったのよ」


「思い出した?」


 椿月はうなずく。


「お宅で先生の姿を見たとき、私がこの旧劇場で見たあの人影と重なった……。旧劇場のこの古い部屋に出入りしていたのは、先生だったのよ」


 そんなまさか、と彼から発せられるはずだった言葉は、背後の物音によって奪われる。


 外から鍵を開け、中に入ってきたのは紛れもない「先生」だった。


 先生は目を見開いてから、眉間に深くシワをきざむ。


「なぜこんなところに、君が」


 恐ろしいくらいに研ぎ澄まされた、冷たい声。


 彼女は彼の服に強くしがみつく。


「私をここに閉じ込めたのはあの人よ!」


「先生……なぜこんなことを……」


 彼女の言葉に、先生を凝視する男。


 その様子からもう彼を丸め込むことはできないと理解したのか、先生は諦めたかようにスラスラと説明しはじめた。


「……“優秀な”君の聞き込み調査で分かったからだよ。ここに出入りする私の姿を唯一目撃した女優の名は『椿月』だと。目撃者を消すのは推理小説では当たり前の行動だろう?」


 いつもの穏やかな先生とは違う。姿形は先生そのものなのに、まるで中に別の悪い生き物が入っているかのよう。でも、本の中の話ならともかく、現実ではそんなことはありえない。これは紛いもなくあの先生なのだ。彼の師なのだ。


「まあ、彼女の場合使い道が多そうだったから、この部屋の『闇取引商品』の一つにしてやろうと思っていたのだが、大分予定が狂ったな」


 警察に彼女の捜索をしないよう圧力をかけたのも先生だろう。そんなことが出来るのも、そんなことをする必要があるのも、先生しかいない。


 旧劇場の入り口に立っていた警官も、「不審な人物は居なかった」と言っていたがそれはそうだろう。警察が捜査協力を依頼している先生が、不審人物とみなされるわけがないのだから。もしくは先生の財力を使い、金を握らせたか、だ。


 彼は、目に写る全てのものが信じられなくなった。


 自分がここにいることも、彼女が腕の中で震えていることも、先生と対峙していることも、全部夢のように思えた。


 そして、先生がおもむろにそばの荷物箱から取り出した銃を自分に向けたこの光景も、覚めれば消える悪い夢であってほしいと心から思った。


「残念だ。二人とも。――さようなら」


 張り裂けそうな鼓動。つばも飲み込めないほど乾く口。


 でももう、どうしようもない。


 叫んでも、暴れても、走っても、銃の速さになんて敵いっこない。


 銃声を覚悟して、彼女を強く胸に抱きしめる。




 ああ。彼女に、最後に一言謝れたらよかった。


 それから、こんな自分にいつも笑いかけてくれてありがとうと、言えたらよかった。











 いつ痛みが来るのか。一秒後には声も出せない激痛に見舞われるのか。もしやもう自分は気を失っているのか。


 時間の感覚も、聴覚も視覚も嗅覚も何もかもが消え、色々なことが頭の中をぐるぐると回って、しばらく。


 自分の腕の中で何かがもぞもぞと動いている感覚で、五感が現実に引き戻された。


「撃たれて、ない……?」


 彼女の体越しに確認する、きちんと動く自分の掌。


 震える吐息を漏らしながら、彼は自分の体の感覚を取り戻していく。


「君たち大丈夫か?!」


 その声の主は、この劇場の館長だった。


「椿月……! 心配したよ……!」


 涙ぐむ館長の後ろには劇場関係者らが彼女の身を案じ集まっていた。その中の数人は、先生をがっちり床に押し付け、取り押さえている。


 その光景を見て、彼はようやく、自分はもう気を抜いてもいいのだと分かった。それでもまだ体を硬直させながら、長い長い息をついた。


 そこに、館長から遠慮がちに声をかけられる。


「あのー……君、もう大丈夫だから、そろそろ椿月を放してあげてくれないか? 多分、息が出来ていないと思うんだ……」


 そう言われてハッと自分の胸に視線を落とすと、彼女は必死に指先を動かし体をくねらせて彼の腕から脱出しようともがいていた。


「ぷはぁっ……!! し、死ぬかと思った……」


 ようやく開放された彼女は、大きく肩で息をして体中に酸素をめぐらせた。


 ずっと彼の胸板に押し付けられていた顔は、あまりの力の強さに赤みを帯びている。しかし、特に彼女に怪我はなかったし、声の具合からも元気そうだった。


 それを確認すると、館長は涙を流して彼女の無事を喜んだ。きっと、年齢差的にも彼女を我が子のように思っていたのだろう。


 自分の誤った憶測でそう思い込んでしまったのか、先生にそう思うよう仕向けられていたのかは分からないが、今回の事件の犯人は正直館長ではないかと密かに疑っていた彼は、心の中でそのことを非常に申し訳なく思った。


 館長はこう説明する。


「椿月が逃げ出すはずがないと最後まで信じてくれていた皆で、ずっと劇場内外や周辺を探していたんだ。その時、旧劇場の方から彼女の名前を呼んでまわる君の大声が聞こえてきてね。まさかと思って思考にも浮かんで来なかったんだが、もしかしたら旧劇場に居るんじゃないかと思いついて、皆で駆けつけたんだ」


 自分が彼女を呼ぶ大声が、こんな形で二人の身を救ってくれたとは。彼はまるで物語のようだと思った。同時に、自分はそんなに響き渡る声で必死に彼女の名前を呼んでいたのかと、少しだけ気恥ずかしくなった。


 皆が彼女の無事を喜び、駆けつけた警察に先生を引き渡した後。


 館長は改まり、彼女にこう伝えた。


「今からなら、夜公演はなんとか間に合うかもしれない。他の皆も劇場で椿月を待ってくれている。どうたい、できるかい?」


 その提案に彼女はハッと息を飲み、「もちろんです!」と即答した上で「やらせてください、お願いします」と深く頭を下げた。


 彼女のおじぎをきっかけに、皆が慌しく支度に取り掛かる中。


 最後に彼女は彼に向き直って、その湿った瞳で顔を見上げた。


「私、この舞台は、あなたのためにやるから……。必ず見に来て。お願い」


 彼女の言葉に、彼は今度こそ「はい」とうなずいて返事をした。口数は少ないし、言葉も上手でないけれど、その瞳の誠実さだけは揺るがない。


 彼女は彼と見つめあい、「ありがとう。頑張るわ」と伝えた。




 そして。定刻より大分遅れたが、幕が上がる。


 いつもの派手で色っぽい衣装と特徴的なカツラで着飾った悪女として出てくるのでなく、彼女は袴姿に黒髪を下ろした姿で舞台に現れた。


 会場の反応は芳しくはなかった。それもそうだろう。女優・椿月はあの姿でこそ多くの人に認識されているが、この姿では全くの無名役者と同じなのだ。


 それでも、悪女役で有名な女優「椿月」としてでなく、どこの誰とも知れない無名の役者として出ると決めたのは彼女自身だった。




 この劇の話はこうだった。


 女優を目指す純朴な少女が、舞台で売れるために本来の自分とはかけ離れたキャラクターを演じることになる。


 役者になんて何のツテもない、舞台や演技のことなどほとんど知らない小娘が、小さな町の劇場の出入り口で、門から出てくる関係者たちに「話を聞いてもらえませんか。女優になりたいんです」と直球で頼み込んではあしらわれ、朝から晩まで毎日そこをうろうろとする。


 男はその場面で、椿月が見かねて声をかけてきた、自分のヘタクソな聞き込みを思い出した。


 彼女はなんとかやらせてもらえた掃除や小間使いなどの手伝いの傍ら、袖から舞台を覗いて勉強し、端役をもらえるようになる。


 真剣に役に取り組む彼女は、元々の自分と舞台の自分、乖離していく二つの自分に悩む。次第に今はどの自分なのか、境目が分からなくなってしまった。


 見た目や舞台上での演技だけでなく、演じるキャラクターの格好をしていると、どんどん気が強くなったり普段の自分では出来ないような行動までできるようになってしまう。


 ついには舞台の自分がもともとの自分を侵食しはじめる。


 久々に会った、彼女が昔から慕っていた故郷の男性に、失望の眼差しでこう言われてしまう。


「きみはそんな風に媚びて笑う女だったか?」


 女優になる夢を後押ししてくれたの人からの、これまでの努力と今の自分を否定されたにも近いその言葉。


 それがひどくショックだった彼女は、女優になる夢も何もかも捨て、彼のためだけに生きようと決意する。


 舞台での全てを捨てて役者をやめ、昔の、元の自分の格好をし、彼に会いに行く。


 しかし。その時にはもう何が“素の自分”だったのか分からなくなってしまっていた。


 慕う彼に「これからはずっとあなたと一緒にいます」と伝えたかったのに、うまくふるまえなくて。思わず、舞台の上の自分であるかのように気持ちを饒舌に述べて見せる。


「好いた男の前でも、きみはそうして一生演技をしつづけるのか?」


 もうどうやっても受け入れてもらえないことが分かりながらも、彼女は涙ながらに訴える。


「私は今、分かったのです。本当の自分なんていうものは存在しない……何も演じないで生きられる人はいない。私はどの私でも私です。あなたと一緒にいた頃の幼馴染の私も、舞台に立つ私も、今あなたの目の前に立つ私も、まぎれもない一つの私なのです」


 彼女の必死の言葉は、届くことはなかった。突き放す言葉だけを残され、彼女はその場に崩れ落ちる。


「どうしたら、あなたが一番好きな私を演じ続けていられたの……?」


 女優になる夢も、慕っていた男性に思われることも、もう何もかもなくしてしまった。


 失意の彼女は、故郷の町も、役者として活躍できるはずだった土地も、去った。ひとりいなくなった彼女の行方を知るものは、いない。




 物語は悲劇で終わっていた。


 今日の彼女は、舞台での彼女の真骨頂としての「毒々しい花」としてではなく、等身大の少女として舞台に立った。


 彼は思った。この姿であればそれは見つけられないだろう、と。


 名前を聞き忘れ、劇場出入り口で彼女を閉館まで待ったあの夜。名悪女役の女優『椿月』としてでなく、ただの普通の少女として目の前を通ったのなら。


 彼はこの日、初めて舞台というものをきちんと見た。舞台に立つ人間の人生が体全体に染みこんできたような気がした。


 そして。こんなに離れているにもかかわらず、彼女の心と彼女の存在を、とても近くに感じられた。


 どうして彼女は、この舞台をどうしても見に来てほしいと言ったのか。今はなんとなく分かる。


 きっと彼女も、この舞台で演じた少女と同じで、舞台の上でないと上手に話せないことがあるのだ。


 この舞台上を逃したら、もう二度と伝えられなくなってしまいそうなこと。


 うまく言葉にできないものだが、それでも、彼はそれをしっかり受け取れたと、そう思えた。






 後日。


 二人は劇場ではなく、街中で待ち合わせた。


 調査のためでも、舞台のためでもなく。ただ、お互いに会うために。


 二人は市街の外れの並木道を歩いた。自分より背が低く小股で歩く彼女に合わせて、彼は歩調をゆるめる。歩く速度が落ちて辺りに目をやれば、厳しく長い冬で裸になっていた木々にも、気づけば緑が茂り始めている。


「昨日の舞台ね、正直なところあんまり評判が良くなかったらしいの。館長が言ってたわ。結局のところやっぱり、ある程度知名度のある人が、その人らしいことをしないと評価されにくいみたいね」


 そうあっけらかんと言ってみせる彼女は、自分のやりたかった舞台が評価されなかったことを全く気にしていない様子だった。


 彼女にとってはこの舞台で評価されるということよりも、この舞台をやるということ自体の意味の方が大きかったのだろう。


「そうそう。私が旧劇場に出入りしてた理由なんだけどね。誰も居ないからいつもあそこでこっそり着替えをしてたの。劇場関係者でも、あの悪女役の女優『椿月』が“この私”だってこと、知らない人がほとんどだと思う。ちゃんと分かってるのって、館長くらいじゃないかな……」


 “この私”と称する今の彼女は、年相応の娘らしい淡く明るい桜色の着物に、落ち着いた濃紺の袴を合わせていた。下ろした長い髪は、頭のところでかわいらしいリボンが結われている。


 彼女がこの姿なのは、劇場の外だからなのか、彼にあの舞台を見てもらったあとだからなのか。


 彼は、恐らく両方だろうな、と推測する。劇場の外では恥ずかしくて舞台の格好はできないと言っていた。でも、もしあの舞台を見ていなかったら、そもそもこうして外で会おうということにはならなかっただろう。


 彼女は両の手に小さな拳を作ってみせ、明るく言う。


「まあ、明日からは、また“悪女”を演じまくってやるんだから」


 そう元気に笑う彼女に、“あの舞台の話はあなたの過去の実話なのか”、と訊く勇気は彼にはなかった。


 だからその代わり、こう、彼女を肯定する。


「……良かったと思いますよ、僕は。昨日の舞台」


 彼女は彼を見上げて瞳をパチパチとまばたきさせ、小動物のように小首をかしげる。


「演技するというのがどういうことなのか、これまで演劇とは無縁だった僕にはまだよくは分かりませんが、あなたと居て理解できたことがあります。“人は誰しも、いつも何かしらの演技をし続けている”ということ」


 彼のつむいだ言葉に、彼女は足を止め、尋ねた。


「じゃあ……あなたも何かを演じているの?」


 彼も、更に一歩進んだ先で足を止め、意を決した。


「……ええ。気になる女性を前にしても、何も動じていないふりをするのは、僕の一番の得意演技です」


 彼女は目を見開いて、小さな両肩をびくっとはねさせた。


 思わず見上げた先の、彼の耳のふちが赤く染まっている。


 彼女の両の頬も、桜色に染まる。


「え……えっと……」


 彼には聞こえないくらいの蚊の鳴くような声で戸惑いの言葉をつぶやいたあと、一度深く呼吸をして、自分を舞台の上の女優『椿月』に切り替える。


 そして。


「ふふっ。……全然、“得意”なんかじゃないじゃない」


 彼女は一歩踏み出し彼の横に並ぶと、彼の左手に自分の右手を重ね、二人の指先を絡めた。


 初めて触れあった彼女のほっそりした手に、彼は初めての気持ちを感じ始めていた。


 道端の花のつぼみは、まもなく訪れる春に今にも開かんとしている。






――そして僕は、恋を知った。








「あなたに出会う日」 <終>

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