それもまた人生
タクヤは武道館ライブのチケットを取り損ねた。だから現場にはいなかった。
彼によれば、不思議な事故だった。ステージが最高潮に達する中、頭上の照明ユニットが落下しリーンを襲った。現場は大混乱に陥った。悲鳴と怒号、現場が騒然とする中、スタッフが落下した照明ユニットを撤去する。
そこにリーンは居なかったのだと言う。血の跡もなく、彼女の存在など初めからなかったように煙の如く消え失せていた。
当然、無理はある。
情況から見ればリーンはもう。
だが、そこに彼女が居なかったことで。
例えどんなに、無理があったとしても。
だからこそ、余計に。
「向こうで、あなたは今でも失踪扱いなんですよ。熱心なファンはあなたの生存を心から――信じてる」
話は終わった。
タクヤは「ライブやるのなら教えて下さいね」と言い置いて、店を出て行った。
テーブルから既に料理は下げられ、お茶の入ったマグカップだけが残されている。夜になり店内の客は増えつつある。騒がしい。
リーンは何も言わず、ただ俯いた。肩を小刻みに震わせ、テーブルに涙の落ちるのも構わず。
ファンテもまた、何も言わなかった。正直、タクヤの話がどのくらい彼女に取って大切なことなのかファンテにはよく分からない。
一つだけ理解したこと。
それは、きっと、今の話がリーンを。心を。
――救った。
彼は軽く身を乗り出し、リーンの頭に手を乗せる。ゆっくり、じわじわとした動作で撫でた。彼女はされるがままにする。頭が揺れ、また涙が落ちた。
「なあリーン。ふぁんくらぶって、何だ?」
努めて平常に声をかけた。リーンはくすりとして顔を擦り、上げた笑顔はいつものリーンだった。
「ファンクラブ、って言うのはね、私の歌を気に入ってくれた人達が私のことを一生懸命応援するために入会する――組合みたいなものかな」
「何だかそれだと、組合と言うよりは宗教みたいだな」
「あはは。そうかも、確かにね」頬杖をついて、すっかり冷めたお茶を飲んだ。
「なら、教義を決めないとな」
「ないないそんなの。強いて言えば……皆で楽しく歌うってだけ」
「なら俺も入ろうかな、その――ファンクラブって奴に」
「お、会員第一号か。いいね」
雲が切れ、窓に差し込んだ月明かりは赤、青、緑の三色。リーンとファンテは空を見上げた。
「ああ、良い夜だね、ファンテ。とっても嬉しい夜だよ」
「全くだ、リーン」
それ切り言葉少なく、騒がしい店内の中で押し黙る。
二人の旅人は暫し、世界に思いを馳せた。
翌日。
街を出て、散策する事にした。
周辺は街の治安維持隊が定期的に見回っており危険は少ない。
「や、気持ちのいい朝だね」左手だけで伸びをするリーン。季節はもうすぐ夏だが朝は湿度が低く爽やか。
「ああ。いい天気になりそうだな」
街の西側に川があった。
川は、一帯に広がる草原を貫くように蛇行しつつ伸びていた。リーンは川べりを歩いていく。ファンテはその後をついて行く。彼女は軽やかな足取りだ。左手を水平に伸ばし、バランスを取りながら川べりぎりぎりを歩く。
「おいリーン」
危ないぞ、と言い掛けたファンテの耳に彼女の鼻歌が聞こえてきた。いつもの歌より語りかけるような調子だった。
『知らず知らず……歩いてきた……細く長いこの道……ああ……川の流れの……ように……ゆるやかに……幾つも……時代は過ぎて……』
リーンの唄は続く。言葉は理解できないものの、ファンテはいつものように聞き惚れた。
彼女が歌をやめ立ち止まった。
ファンテもその背中を見て足を止める。
「――ね、ファンテ」リーンは前を向いたまま振り返らず、硬い口調でこう続けた。
「いつか、この旅が終わったらさ、どこかに腰を落ち着けるのも悪くないよね? それもまた人生、ってことで」
「そうだな。それも悪くない」さらりと返す。
「ほんと?」リーンが踵を返した。「じゃ、じゃあさ、その時は、私と――」
「見つけましたよ! リーン!」
真っ直ぐ遠方。川下から猛然と馬車が走ってくる。草原を蹴散らし、巻き上げて。
「今日こそ一緒に来てもらいますからね!」
「げげ。何だよ、こんな時に」リーンにはすぐそれが誰か分かった。振り返り馬車を確認したファンテも「あいつら、こんなところまで」。
「もー。すっかり忘れてたよ、あいつらのこと」
この間にも馬車は猛スピードで近付いてくる。
リーンの歌声を気に入り彼女を幽閉しようとしたどこぞの小国の王様は、存外と執念深いようだった。
「逃げよう! ファンテ」
リーンがファンテの手を取り走り出す。馬車に敵うわけないとは思ったが、彼はついて行く。
「待ちなさい! 今日こそは!」
追い掛けてくる馬車。
追い付かれるのは分かり切っている癖に何故か走り出した自分。
「どうしようファンテ。何だか楽しいよ、私」
「奇遇だな、俺もそう思っていたところだ」
逃げる。顔は綻んでいた。やがて二人、声を上げて笑った。ああ、世界には歌がなくても、私には歌があって、隣にはファンテがいる。
――何て楽しくて、幸せな人生。
ちらと見て、彼の笑顔が目に入った。また少し、幸せが増える。
「さあ、観念なさい!」
みるみる距離を詰められる。
背後に迫ってくる王の手下達。彼らの顔もはっきりと見えて来た。
「あー、うるさいっ」
リーンは足を止め振り返り、馬車の進行方向から退避する。
「お、やるんだな、リーン」
こちらの安全を確保した上で馬も含めた彼らの耳に狙いを付けた。
音の攻撃を飛ばすため軽く息を吸い込む。初夏の爽やかな空気が肺に満ちた。
――ごめんね、今度、相手してあげるね。だって、まだファンテとの旅が残ってるからさ、今は、邪魔しないで。
微笑んで鋭く、リーンは音の攻撃を飛ばした。
これでお終いです。
完結させることが出来てほっとしています。
ありがとうございました。