このクラスにはいじめなんてありません
「このクラスにはいじめなんてありません」
担任の先生からの言葉に絶句した。
勇気を振り絞った告発は、その一言でなかったことにされるのだ。
絶望で目の前が真っ暗になっていく。世界が、暗転していく。
このままでは彼女を救えない。
彼女は何も悪くない。彼女は加害者たちの過ちを正そうとしただけだ。
それなのに、それなのに!
やり場のない怒りが込み上げてくる。手が自然と握り込まれ、手のひらに爪が突き刺さる。口の中に血の味が広がる。下唇を噛み締めたせいだ。
でも、痛みは感じなかった。それ以上に、怒りで体が燃え盛っていたから。
先生という存在は生徒を守る存在じゃないのか!
先生という存在は保身だけを考える存在なのか!
僕の勇気を振り絞った告発は、なかったことにされるのか!
「これで話はおしまいです。教室に戻ってください」
このまま引き下がったら、本当にいじめはなかったことにされる。
食い下がれ。食い下がれ。食い下がれ!
……でも、どうやって?
僕は証拠もそろえ、その上で担任の先生に訴え出た。それなのに、担任の先生はそれを証拠とは認めなかった。
あらゆる難癖をつけてきた。それはいじめではなくじゃれ合いだの、双方の合意があった貸し借りだの。そんな夢物語を口にしてきた。
どうしたら、この現実を逆転できる?
どうしたら、この先生の言葉を覆せる?
……いや、考え方を改めよう。僕の積み重ねた証拠は、このクラスにいじめがあったことを確実に証明している。
それをこの人は否定する。恐らく、絶対にこれを証拠とは認めないのだろう。
いじめられた人間を見捨てて、自分の身を守ろうとしているとしか思えない。
だとしたら、この人は先生でも何でもない。こいつは正しい行いをした人間を見捨てる、ただのくそ野郎だ。
「……先生にそんな目を向けるものではありませんよ」
書類を机の上でとんとんとそろえ、小脇に抱える。もう、相談室から出ていく気満々だ。
「さあ、行きましょうか」
くそ野郎が立ち上がる。僕も退席するように迫られる。
口の中にさらに血の味が広がった。
悔しい。
このくそ野郎にいじめがなかったことにされ、彼女を救えないことが。
このくそ野郎に僕の勇気を踏みにじられたことが。
このくそ野郎の行動を咎める術がないことが。
涙が込み上げてくる。
僕は間違えた。こんなくそ野郎に相談するべきじゃなかった。相談する相手を完全に間違えた。
そしてそんな自分の愚かさに、一番、腹が立った。
……そうか。僕は愚か者だったのか。
僕はやおら立ち上がった。
同時に先生の顔色がさっと青色に変わった。
この現実を覆すには、言葉でじゃれあっていてもダメだ。
正面から、暴力的に殴り倒そう。
僕は手のひらを握り込んだ。固い固い怒りに満ちた拳を二つ作り上げる。
「な、何を考えているのですか!」
くそ野郎の声が震えていた。恐怖で怯えているのがよくわかる。
「こんなことをして、いいと思っているのですか!」
自分の全身に青筋が立つのがわかった。
そっくりそのまま、くそ野郎、てめえにその言葉を返す!
「おいくそ野郎。僕は今からあんたをぶん殴る」
「やめなさい! その拳を下ろしなさい! 先生に暴力をふるって、ただで済むと思っているのですが! 進路に、人生に影響しますよ!」
僕はくそ野郎ににじり寄る。その程度の脅しで僕を挫けると思っているのか?
たしかに僕は自他ともに認める優等生だ。学校のテストは常に十番以内に入っているし、無遅刻無欠席。予習復習だった欠かさない。
だけど、それがどうした。戦うべきときに戦わなければならないのは、優等生だろうが劣等生だろうが関係ない!
先生の手から書類が滑り落ちた。僕が渡した証拠たちが、床に散らばった。僕は意味のなくなったそれらを踏みつけた。
先生が僕の勢いに気圧されるように、一歩、また一歩と後退していく。そして、最後には腰を抜かし、尻餅を着いた。
「こんなことをして、何になるっていうの!」
そんなこともわからないのか、この人は。
僕は愚か者だが、何も怒りに任せてくそ野郎を殴ろうとしているわけではない。きちんと意図はある。
優等生である僕が異常な行動を起こせば、その原因が探られる。その原因は彼女に対するいじめがあり、そのいじめをもみ消そうとしていることだ。
それが世間に出ればどうなるか。
火を見るよりも明らかだろう。
僕が単純に学校がいじめをもみ消そうとしている、と声高に叫んだだけでも多少効果は見込めるかもしれない。
でも、それじゃあ、足りない。それじゃあ、世の中の目に触れることなく終わってしまう。
だから、僕は拳を振り上げ、それを鉄槌として振り下ろす。そうすることで、僕が暴力をふるうぐらい、とんでもないことが行われたと世間に喧伝することができる。
「や、やめなさい! わたしはあなたのことを思って言っているのよ!」
僕のことなんてこれっぽっちも考えてないのに、保身だけを考えいるのに、よくもそんな台詞が吐けたものだ。ここまでくると感心してしまう。
そもそも、僕は保身のことなんて考えてやしない。
保身のことを考えているのなら、いじめがあったなんて告発したりしない。そんなことをしたら、いじめの矛先が自分に向く可能性が高いのだから。
だから、くそ野郎の言葉が僕に届くことはない。
僕は無言のまま、くそ野郎に向かって拳を振り下ろした。
――ふと、たばこのにおいがした。
「はいはいそこまで。お前さんがそこまでする必要はねえよ」
僕の拳は僕の頭の上で止められていた。そこにいたのは、問題児ならぬ問題先生だった。火のついたたばこを口に咥えている。
「放してください」
「いや、放さねえよ。放したら、お前さん、この人のこと殴るだろ」
「こうでもしないと、現実を覆せないので」
「お前さんの考えていることは、察しがついてる。お前さんがそこまでする必要はねえよ」
「じゃあ、どうしろって言うんですかッ!」
「俺がやればいいだろ」
思わず拳に込めていた力が緩んでしまった。
何を言い出したんだ、この人?
「聞こえなかったか? お前さんがやる必要はない。俺がこの人をぶん殴ればいいんだろ? 要するに殴った原因が探られればいいんだから。お前さんが殴ろうが、俺が殴ろうが、結果は同じ事だ」
先生はにやりと笑った。
「だから、とりあえず拳を下ろせ」
僕は拳を下ろした。それにしても、先生の力は強かった。いくら非力である僕とはいえ、本気で殴りにいった僕の拳をいとも簡単に止めたのだから。
「さてと、まず初めに」
言いながら、先生はくそ野郎に近づき、腰を下ろした。
「先生、わたしはあなたの、このクラスにいじめはない、という言葉に賛同します」
言葉の意味を理解するまでに、少し時間がかかった。
え、何? 何を言い出したんだ、この人!
僕は慌てて先生に近づこうとする。しかし、まだ話は終わっていないと、先生が伸ばした一本の手によって止められた。
「先生は、このクラスにいじめはない。そうおっしゃいましたよね」
「え、ええ。クラスにいじめなんてありません」
「そうですよね。僕もそう思います。だって、クラスで行われていたのは
犯罪行為
ですからね」
唖然とした。僕もくそ野郎も。
「先生はそうおっしゃりたかったんですよね。クラスにいじめはない。いじめという言葉では表せない程、ひどいことが行われていた。そう認識されているから、そのような発言になったんですよね」
くそ野郎はぽかんと口を開けたまま、何も言わない。
「いじめって言葉は便利ですよね。いじめって言ってしまえば、起きた出来事の詳細に関わらず、ひとまとめにすることができますから」
言いながら、先生はくそ野郎の目を覗き込んだ。
「殴る蹴るなどの暴力、傷害。暴力などをちらつかせた上でお金を奪う恐喝あるいは強盗。同じように暴力などをちらつかせた上で無理なことを強いる強要。あとは名誉棄損や侮辱などなど。こういったものもいじめと表現できてしまいますからね。全く持って便利な言葉ですよ。ですが、先生は素晴らしい方だ! それをいじめでひとまとめにしないとおっしゃった。これはなかなか言えることではありません」
先生は一呼吸、わざと置いた。
「そうですよね、せーんせ?」
くそ野郎が先生の視線から逃げようと目をそらす。だが、先生はそれを許さなかった。顎をつかみ、先生と強制的に目を合わせさせる。恋愛漫画だったら、ときめくシーンかもしれないが、今は恐怖以外の何物でもない。
「あ、い、う、え、お」
くそ野郎の口からあ行が飛び出したが、偶然だろう。多分、本人は気が付いていない。そんな余裕もない。
くそ野郎の目に涙が浮かび始める。しかし、先生は一切、目をそらさない。そらすことも許さない。瞬き一つしない。
「……そ、そうです」
くそ野郎はそれを肯定する以外に逃げ道がなかった。
「ということだそうだ」
先生は僕に向かって、そう報告する。力技にも程がある。だが、これで問題が闇に葬られることはなくなった。
「いやあ、先生が校長や教頭と話をされていた時は、問題を有耶無耶にするんじゃないかと少し思ってしまいましたよ、人の心がある人で良かった!」
僕は思わず苦笑いを浮かべていた。そして、少しくそ野郎に同情してしまった。
今の先生の話からすれば、この問題は有耶無耶にされて、それで幕を閉じていたのだろう。だが、先生の介入によって、閉じかけた幕が強制的に開かれた。結果、くそ野郎は有耶無耶を目論む側とそれを許さない側で板挟みになることとなった。自業自得と言えば、それまでではあるが。
「よし、それじゃあ、早速行動を起こしていこう!」
「行動とは?」
僕は小首を傾げる。
「犯罪行為が行われたんだろ? だとすれば、相談する先は一つしかあるまい」
「……まさか!」
そう発言したのは僕ではなく、くそ野郎だった。顔面蒼白になっている。
まあ、そうもなるだろう。問題を闇に葬ろうとしたら、警察に相談に行くという話になったのだから。学校内で収まる可能性のあった話が、大きくなってしまったのだから。
「お前さんが集めてくれた証拠は先生が無造作に机に放っておいてくれたおかげで全部、目を通してある。よく集めたな。十分な証拠になる」
先生が僕の頭を優しくなでてくれる。少しこそばゆい気持ちになった。
「け、警察に行く必要まであるのでしょうか?」
この期に及んで、くそ野郎がそんなことを言い始めた。でも、くそ野郎は保身のことを考える人なので、そう言うのも頷けた。
「先生、わたしは常に疑問に思っていることがあるのです」
「な、なんでしょう?」
「学校っていう場所は社会とは隔絶された場所なのでしょうか?」
「そんなことはないと思いますけど」
「学校って、学校の中だけであらゆることに対処しようとし過ぎていると思いませんか? いじめだって、犯罪と呼べないものもありますが、犯罪であるのなら、警察に捜査させるべきなのです。だって、社会では暴力、恐喝などがあれば警察が捜査しますよね。それなのに学校はどうして学校の先生で解決しようとするのでしょうか」
「それは……」
そこでくそ野郎は口を噤んでしまった。
「今までそうしてきたから、っていうのはあると思います。けれど、先生は学校という箱を守ろうとし過ぎている。わたしはそう思います。学校のルールが社会の非常識なんてことも、さして珍しくありません。そのルールもやはり学校という箱を守るために存在している。生徒たちを守るふりをしていますが、実際はそうではないのですよ」
先生は立ち上がり、僕の方へと近づいた。
「被害にあった生徒と連絡は取れるか?」
「あ、はい。連絡先は知っているので」
「じゃあ、連絡を取ってくれるか。すぐに話し合いの場を設けたい」
「わかりました」
僕はスマホを操作して、彼女に連絡を取る。
「先生、わたしは学校を変えようなんて、大仰なことは考えていません。それをするには教育委員会を、究極的には国を相手にしなければなりませんから。僕では役者が不足しています。けれど、目の前にいる、僕の手の届く範囲にいる生徒は守ってやりたい。まして、それが自分の身を切るような勇猛果敢な行動であればなおさらね」
先生はくそ野郎に手を差し出した。
「先生は僕の手を取りますか? それとも、深淵からの手招きに応じますか? 僕はどちらでも構いません。ただ、深淵からの手招きに応じれば、深淵がまばゆい光にさらされた時、先生の全てを失うことになります。それだけは言っておきます」
くそ野郎は少し逡巡した後、意を決したように一つ頷いた。そして、先生を見上げた。
「わたしは自分が間違っている道を進んでいることを自覚しながら、でも、この道を進むしかないと思っていました。そうしなければ、職を失うかもしれませんから。そうなれば、生活もままなりませんし」
先生は静かに首肯した。
「しかし、それではいけませんよね。未来をつくる生徒たちの想いを踏みにじるようなことをしてはいけませんよね。わたしはお金のため以上に、生徒たちの未来を支えたいと思って先生になったのですから。お金のためだけなら、他の職業の方を考えた方がいいですしね。それを今、ようやく思い出しました」
くそ野郎は、先生の手を取り立ち上がった。その目は、先ほどまでと違って、光に満ち溢れていた。
「先生、連絡取れました。今から大丈夫だそうです」
「そうか。ありがとう」
先生は僕が用意した証拠を集め、それをカバンの中に押し込んだ。
「それじゃ、まあ、行きますか」
先生が相談室の扉を開け放った。僕とくそ野郎……いや、担任の先生は被害者である彼女の元へと歩み始めた。
~FIN~