人生は謎だらけ、人生は矛盾だらけ、人生は不条理だらけ、人生は不条理と矛盾と不正と不公平に満ち満ちている。2021年の総括に代えて
さて、、、、、、この1年間どうでしたか?
いろいろあったと思いますが
それにつけても
人生は不条理と矛盾と不正と不公平に満ち満ちている。、、、、、、、、、、、、、、、
、、、、、、、、、、、、って、、改めて思い知らされたのではないでしょうか?
私自身も、これまで生きてきた中で、天の下に不条理と不正と不公平が満ち満ちていることを
どれほど
見聞きし、そして知らされてきたことだろうか。
たとえば、、、、、。
心清く、誠実なクリスチャンであった方が晩年、悪病に侵され
激痛にさいなまれて、狂い死にしたことも知っている。
何の罪もない幼女が実母に橋から深夜突き落とされて殺されたことも知っている。
熱愛の末結ばれた夫婦に、重度の障害児が生まれて、
泥沼の争いのはて離婚したことも知っている。
たまたま通りかかったばかりに、通り魔にめったざしに刺されて惨殺された
無辜の人も知っている。
濡れ衣を着せられて、無実の罪で20年も服役させられて、
再審で無罪放免になった方も知っている。
善人の鏡みたいな人が、なぜかいつも、病気や、貧困や、差別に苛まれているのも知っている。
悪人の癖に羽振りが良くて、外車を乗り回し、セレブマンションに暮らしているのも知っている。
善人だから
徳があるから
神を信じているから、、、
病気にならないか?
貧困にならずに済むか?
通り魔に殺されずにすむか?
といえば、、そうではないということは子供でもお分かりでしょう。
善人だって
聖人だって
自身が何の罪もなくても
業病で狂い死にすることだってあるでしょう。
では?
人間において
善なるものとは
聖なるものとは
何の意味があるというのでしょうか?
いっそ悪の塊と化して
悪行の限りを尽くして
死刑になったって
それでいいじゃないか?
という連続通り魔殺人の犯人のような主張にもなりかねませんよね?
確かに人生とは
一面において「空」であり、
本来、人生というものに良いも悪いもないのですよ。
狂った父親に日本刀で両腕を切断された少女もいます、
あるいは「大草原の小さな家」のあの両親のように、素晴らしい両親もいます。
この小説はまんざらフィクションではなくて、実話に近い?モノだそうですよね?
この差はなんでしょうか?
シングルマザーでホステスをして幼児二人を育てていたのに、
ある日その二人をアパートに置いたまま2か月も帰ってこずに
餓死させた若い母親もいましたね。
こんな母親のもとに生まれた悪い星を恨めとでもいうのでしょうか?
この幼児になんの罪もないでしょう。
また人間社会というものは
欲得の修羅場であり
そこには深い闇があり
嫉妬と、陰口と、恨みと、憎悪と、誹謗が渦巻いているものなのです。
きれいごとで済まないのが
この人間社会なのですね。
したがって
そこにはいつだって
不正が
賄賂が
いじめが
不公平が
隠然と存在しているのです。
それが人間社会の本質なのです。
では?
いったい私たちは
どう生きたらいいとでもいうのでしょうか?
まあ、早い話、、、
うまく立ち回りそつなく抜け目なく、臨機応変に生きるのが大正解ではあるでしょうが。
でも
そうした、うまく、ずるがしこく、生きた人生もしょせんは「空」です。
善に生きようとも
悪賢く生きようとも
その両者とも
「空」であることにおいてイコールです。
そうです。
人生とは
夢であり
幻想でしかないからです。
その夢は(悪夢は?)
やがて覚めるときがくるでしょう。
人生とは魂が見ている夢にすぎません。
魂はこの薄汚れた?人間界で
魂を磨くためにしばしの夢修行?をしているということです。
そこでは原則として何をしようと自由です。
猟奇殺人犯になって、70人の女性を殺しても自由?ですし、
(実際そういう事件がロシアであったそうですね)
マザーテレサのようにインドの貧困児童を数千人救済?するのも自由ですし、
魂は己の本心に従って
あるいは悪をなし
ある日は善を成すということでしかありませんね?
その結果。
現世では死刑になるか
ノーベル平和賞を受賞するか、
その差ですね。
でも、、、、
極論すると
その両者とも「空」です。
ただそういうことが人生夢の中で
夢見られた、、、?
ということでしかないからです。
じゃあ。いったいどう生きたらいいのさ?
それはですね。
究極の答えを提示しましょうか?
すべては必然であり
あなたはその必然コースを
知らずたどっているに過ぎない。ということです。
人生とは終わってみればそういうことだったのです。
あなたにもやがて人生の終わりが来るでしょう。
その時、、
あなたは悟るでしょう。
「ああ、こんな人生送るのは不本意だとずっと思ってきたけど、
今死に臨んでみて、やっとこれこそがおれの人生でしかなかったのだと分かったよ」とね。
人生とはそんな物なんです。
あなたは神の操り人形に過ぎなかったのですから。自分で操っていると信じ切っていたこの人生も
終わってみれば神の操り糸に
ただ舞わされていただけだったと、
なぜ?
なぜって
人は神によって生かされているだけの存在だからです。
「俺は自分で自力で活きているぞ」と
いくら力んでみても
あっけなくある日死んでしまうのはそういうわけだからです。
自分の力なんかで生きられるもんですか。
それは幻想です。
人はただ、、生きるべき間は生かされてるだけです。
人は運命によってあるいは鬼の所業でいかされ?
あるいは仏の菩提行で行かされる、、
とでもいうしかないでしょうね。
そうなるにはそうなる因果があったからそうなった。
しょせん人は
運命の操り人形でしかない存在だからです。
さあ、
ですから
ここは
人生を達観してですね。
生きるという即身仏行を
していると観じて
摩迦止観を
凝らして
あなたの人生を操る
神の操り糸を、、、、
あるいは?
悪魔の操り糸をしっかりと見極めることでしょうよ。
それしか
それだけが
人生の正しい?生き方でしょうからね。
青い鳥にこんな場面がある。
チルチルとミチルが
まだ生まれてこない子供の国にいるとき、
一人の少年が近づいてくる、
「僕は弟だよ、来年生まれるんだ」
という
それを聞いたチルチルミチルは
その少年を抱きしめる。
少年はこういう
「僕に優しくしてくれる?」
もちろんだよと答えると、
少年は急に悲しい顔になってこういった、
「でも僕は三つの病気を持っていかなくちゃならないんだ。
そして、、その病気のために生まれてすぐに死んじゃうのさ」
「じゃあ生まれないほうがいいのに」とチルチルが言うと
少年は
「拒めないんだ」といった。
人生とはこういうことであるのでしょう。
誰もその運命を拒めない、、。
それが人生の真相なのでしょうね。
ある日、
少女が、学校帰りに道を歩いてたら、若い男に声をかけられて、車に拉致、男の自宅に2年も監禁される。
あるいはバス停で待ってたらいきなり形相振り乱した男がガソリン缶もってバスに放火炎上、
巻き添えで全身やけどでそれ以後寝たきりの障碍者に、、。
これをやるといいですよ?と、言われて、、とあるワクチンを打ったら、副作用で失明に、、。
あるいは、自宅で寝てたら、突然大津波で、押し流されて、、家族全員溺死で死亡、じぶんのみ
偶然流れてきた漂流物に乗っかって一命をとりとめる。
ある日学校帰りに海岸近くを通ってたらいきなり数人の男が近づき、袋をかぶせて詰め込み拉致、
気が付いたら北朝鮮に来ていた。
そんな
なんとも不条理な?事件?が最近?多くないですか?
最近多くなった?、、のではなくて、
じつは、、というか本当は、、
不条理な?事件?は実はいくらでもこの世には昔から、
どこにも転がってるんですよ。
言ってみれば、こうした、わけのわからない自分に全く全く身に覚えのない不条理事件?は
この世ではあって当然。
というか当たり前なんです、
たとえあなたに何の咎がなくても
たとえあなたがいくら注意していても
たとえあなたがどんなに良い人であっても
あなたがいつ通り魔にめった刺しで殺されるかも知れない、、そう言う可能性が
ゼロではない、
それがこの世という世界なんです。
先ほどの拉致監禁された少女に、、何の咎があったでしょうか?
なあんにも、ありませんよね。
でも、ある日、ロリコンの妄想男に監禁された。
これをどう考えたらいいのか?
おいおい、ちょっと待てよ。
違うだろ?
悪いのは監禁した犯人であり、過失した製薬会社だろう?
あるいは北のスパイだろ?
津波を感知しなかったし逃げ遅れたからだろ?
不条理でも何でもない、
責任追及して罪を問うべきだろ、
何言ってんだよ、
というお叱りの言葉が聞こえてきそうですよね?
確かにそうです、
悪いのは犯人です。
ですが、、そういう犯罪を防ぐことはできなかったのか?
というかこういう犯人をどう防止できるのか?
となると、、結構難しい?ですよね。
人の心のおくまで見通すことができない以上。
こういう犯人はまたいくらでも出てくるでしょう。
それが悲しい現実です。
毎日、、毎日、、新聞の三面記事欄には
無辜の善人がなんの咎もないのに
ひどい目に合ってる記事ばかりです。
これを不条理といわずになんというのでしょうか?
だがどこまでが「不条理事件」で
どこまでが、「条理ある事件」かの見極めは実は難しいですよね。
それまでなんの病気もせず健康そのもので、あった人、
ある日偶然受けた検診で末期の悪性リンパ腫と告げられて
余命半年、
あるいは
自宅でいたら、突然飛行機が落ちてきて住宅全焼、して焼死。
あるいは朝、会社に出勤で、電車に乗り、突然胸痛、そのまま心筋梗塞で即死。
こういう場合はもう不条理?としか言いようがないでしょうか。
確かに、原因はあります。そうなるべき原因はあるでしょうが、
でも?
それがなぜ?
いま?
よりによってこの私に
起こらなければならなかったのか?
「なんでよりによってこのおれなんだよう?」
そう、問うたとき、
これといった納得できるような答えがないからです。
たとえば、、、
ごく普通の裕福な商家の少女だった女性が18歳のある日、ある日、突然のライ病宣告、
そして強制隔離される。
「地面の底が抜けたんです」(藤本とし、著)という本を読んでみてください。
まさに突然の宣告です、その時の心境はまさに地面の底が突然抜け落ちたかのようだったろう。
本人にも全く身に覚えのない感染、いったい?
なぜ私が?よりによってなんで?この私が?
その苦悩を突き抜けて彼女はそれでもたくましく生きてゆく。
その後失明した彼女は舌で字を書き、この自伝を書きあげました。
なぜ?
よりによってこの私が?
もし納得できる答えがあるなら
不条理ではないし解決法もあるでしょうが、
その多くは
なぜ?
いま?
よりによってこの私が?
という不条理感がいっぱいでしょうね。
そういう
不条理は日常茶飯事です。
そうして死も、日常茶飯事です。
ある日突然の死が来る。
あなたも私も、
今現在、
お気楽暮らしで
順風満帆の
幸せ全開の
そこのあなたにも
それがいつ、起こっても不思議はないのです。
そういう不条理な毎日?
不条理な仕打ち?
不条理な事件?
そういうことがもしもあなたにおこったら。
どうしたらいいのか?
まず冷静になることです。
激高したり
わめいたり
泣いたりしても何の解決にもなりません。
冷静に分析するのです。
そしてこの事件(事態)は解決できるのか?
を、、模索するべきです。
いったい今自分はどんな状況に置かれているのか、、を
考えなさい、
そしてできることがあればすべてしなさい。
監禁された少女が恐怖 (暴力支配)と洗脳 (すりこみ)に耐えて機会を生かして逃げ出したのはまさにそれです、
この少女の勇気をたたえなければなりません。
わずか13歳ですよ、恐怖と洗脳は、極限だったでしょう。
でもそうしていくら考えても
何をしても
解決できないのなら、
それを
その不条理を
受け入れるしかないでしょう。
例えば、、
末期のがんで余命は半年と宣告されたら、
もう争わないで、
毎日笑って暮らしたらいいのです。
その日が来るまで。
ただ、
その見極めをどうつけるか。
それはあなた次第です。
様々に問いかけたらいいでしょう。答えを出すためには。
自分自身に
友人に
知恵者に
専門家に
最後は神に問うてもいいでしょう。
「神様。これは(今回のこのことは)あなたのご配意なのですか?」
「もしそうであるなら、、そのようになれ」
と。
そうしていくら問うて見ても、理路整然とした答えがないような不条理なら
受け入れて
自己受容して受忍して、
そのうえで、
笑って暮らすしかないでしょう。
ただし何度も言うように、、、
そのことが
本当に不条理なのか?
それとも条理ある事態なのか?
それを判断して。考えて
調べて
見極めて、
そしてその結果、どうするのか?
は、あなた自身が下すしかない、、、。
そういう意味で人生というのは
いささか逆説めきますが?
やっぱりあなたの自己責任
自己選択の
範囲内に巻き起こるのだという、
つまり条理あるもの、、
の選択肢内であるといえるのではないでしょうか。
たしかに、、、
人生は
世界は不条理に満ち満ちている。
人生は不条理そのものだし
世界はまさに不条理の展覧会場だ。
しかし
そういう不条理極まる世界に
そういう人生に
私が
そして
あなたが
生きてゆくという行為は
条理で割り切ってゆくしかない、、という
パラドックス?
それが人生のそして世界の真相だということなのでしょうね。
ところで、、、、
不条理に対して、、
こちらからも
不条理をぶつける?
という
対応法?もあることはありますが、、
これは結局は
カーオスが極まって
より混迷の度を深めるだけ、、
という結果になるだけのようですよ。
まあ
開き直って達観するならば、
「カーオスにはカーオスだ」
と叫んで不条理世界のど真ん中で
バーンアウトして果てるのもまた
人生は謎だらけ。人生は矛盾だらけ、、。
生き方としては「一興」でしょうけどね???
ですが、、、この人生では、、それにしても、、不条理が多すぎますよね?
先ほども書きましたが、、、、、
いくら『なぜ?』と問いかけてみても、
一向に答えが帰ってこないって多すぎますね
でも、じつはそんなこと、、実は、、ありふれたこと?ですよね。
たとえば、、
それは
不慮の事故死であったり
急病死であったり
通り魔に、ころされたり、、であったり、、
或いは突然の大津波が襲って来たり、、
突然の火山噴火であったり、、
そんな時、
なぜ?と問いかけても、、
その事態が、よっておこる、確率とか
蓋然性とかは説明できても、
「じゃあ、なんで、それがその時私に(だけ)振りかかったのか?」
という因果率?については
誰も説明できませんよね。
たとえば、、、
別に通り魔に殺されるのが、、「私」ではなくてもよかったはず?
別の誰かでもよかったのに、、
なぜ?よりによって?
「わたし」なのか?という惨死者の「私」の問いに、、誰も答えられません。
たまたま通りかかったばかりに、、
偶然そこにいたので、、
通り魔に殺されてしまった、、。
その「たまたま」とか
「偶然」というのは、
ほんとに?
「偶然?」だったのか?
それともなんらかの
因果率というか 運命だったのか?
前世からのカルマ?の為さしめる必然?だったのか?
いくら問い、、煩悶し、思考しても、
答えは出ませんね?
でも?
こういう生死にかかわるような大事件でなくても、
人生って
こんな、、「分からない」ことだらけでしょ?
なぜあの時ああしたのか?
なぜあの時あれを選んだのか?
偶然?
何となく?
結局そういうことだったでしょう?
沈思黙考
ひたすら考え抜いて?
選んだ?って、、自分を振り返ってみても、、ほとんどないです。
こうして今まで死にもせず生きてきて
「人生の選択」もそれこそ何千回?ってしてきましたよ。
そのほとんどが
今、つらつら振り返ってみれば、、いわば「直観」?でしたね。
どっちにしようか?なんとなく、、こっちだろ?
みたいな、、そんな選択?
というのは、、、考えたってムダというか、
未経験の
未知の
それこそ、、それが人生行路であり
その未知の行き先を一凡人の私に
そして、、あなたに、、
土台、いくら考えてみても、正直、
分かるはずなんかないんですよ。
熟考して考え抜いて、、こっちだろ、と
選んだ選択が、、あとで、、大間違い、、ってこともよくある話ですよね。
又逆に、、
「えーと、どっちかな?、、ま、こっちだろ?」
と、勘?で、選んだ進路が、、あとになって振り返ってみれば大正解、、ってこともありますよね?
そうして晩年になってから
「あの時あの偶然の出会いが私の人生をこうして大成功に導いたのです」とかなんとか、、
いわゆる一代の成功者たちが異口同音に回顧していますよね?
偶然の出会い?
偶然の転機?
いわゆる大成功者たちの自叙伝とか伝記とか読むと、
そういう「天の配剤」が
おおく語られていることも事実ですね。
まあこういう人たちには
いわゆる「神が降りた」のでしょう。
そうしてその反対に?
最前の例のように無残に不慮の死を迎えたような人には、
「死の神が降りた」?のでしょうか?
いずれにしてもなぜ?その人なのか?
私なのか?
あるいは、、あの人なのか?
という根本疑問には、、回答は無いです。
善人だから、、悪人だからには一切無関係だからです。
大善人が横死したり
大悪人が大繁盛したり
そんなのいくらでもこの世ではあるからです。すべては不可知であり不条理です。
いくら問うても答えはないのです。
それを人は古来より
「運命」とか
「宿命」と呼んでいたのです。
だからこそ
人はその不条理なる人生という闇に対して
神に祈り
神とコンタクトを取り
自分の未来を知ろうとし
啓示を求め
霊言を求め続けたのでしょう。
もし?
人生が全く合理的?だったら
そもそもそんなの必要ないですからね。
1たす1が2の世界であったら、、ね。
でも我々の人生って?
1たす1が、、時には、、、、マイナス5000であったり
又ある時に
1たす1が、、、、プラス10億円であったりするのが日常茶飯事なわけですよ、
まあ。それが人生さ、、と言ってしまえばそれまでですが、、ね。
そうです
人生は不条理に満ちみちています。人生は、、謎そのものです。
というか
人生は不条理の塊といっていいでしょう。
善意の塊のような義人が、業病に取りつかれてもだえ苦しみ自殺したり
悪意のデパートみたいな人がもてはやされ、勲章までもらったり、
とかく人生は矛盾だらけ。
矛盾のデパートです。
まあそれがあくまでも人間界であり
ここが天国じゃない証拠だよって、、言いますけどね。
確かにここは「人間界」であり、決して「天国」ではないという事実からすれば
先のような不条理とか矛盾も、
あって当然?というサトリ?でしょうか?
喜怒哀楽、、憎怨争奪 矛盾撞着違和不条理
それがあって当然なこの人間界でしょう。
それらが無かったら、、ここは天国ですよ。
あるから?人間界なんですよ。
というサトリ?でしょうけど、、、、
でもじゃあなんで、、
それが私なのか?
別の人でも良かったのに、、なんでよりによってこの私なのか?
という疑問は、、おそらくいくら誰に、、問いかけてみても、、
答えは無いでしょうね。
それが、、人間界
それがこの世なのですから。
その矛盾道
不条理道を
今日も生きる
自分の勘だけをおそらく唯一の指針にして、、、
まあ、、喩えはあってるかどうかですが
人生とは地雷原を行くようなモノでしょうね。
その一歩が地雷を踏んだら、、ハイさようなら、、
それが我らの人生図そのものですよ。
或いは、、、
人生とは賭けであるというのも先人の譬えですよね。
振ったコマが吉と出るか?
凶とでるか?
それは神のみぞ知る。
それが人生、
それこそが
私の
そして
あなたの人生。
人は今日を生きる。
明日はどうなるか知れないけど
今日を生きる。
それが人生
あなたの
そして私の
それが、、、人生。
神が
ある日
「もう終わりだよ」
っていう日まで
私は生きる、
あなたも生きる、
それが
人生、、、、、。