スライムだって恋をします
森の中、少し開けた場所で、動くのが辛くなって地面に倒れこんだ。
三日三晩ずっと人間達に追われて、幾らほとんど飲み食いが必要ない種族だとは言っても、疲れは溜まる。
もういい加減に死んじゃうんじゃないかって、思ったら泣きたくなる。
生まれた時から私は人間達の欲望の為に浪費される道具で、感情を持つことを許されない。
だけど本能に染みついた感覚と感情が、その状況を辛いと嘆くから、耐えきれない。
結局逃げ出したところで追いかけられて捕まえられそうになって、最後には動けなくなって倒れて。
生きている、意味が欲しいと思った。
誰かに、私が私として生きることを認めてほしい。
私のことを必要だと思ってくれる人が、いればいいのに。
「《テイム》」
一番奥の方、底の方に沈んでいた意識を優しく引き上げるように、誰かの声が聴こえた。
目を瞑っている筈なのに、真っ暗な中に柔らかい光を放つ真っ白な糸が見えた。
理由は、よくわからないけど。
それをちゃんと掴んでおかないと駄目だと思って、咄嗟に意識の根底で手を伸ばしたの。
そうしてテイマーが伸ばした糸を必死で掴んだ瞬間に、私は天河 悠里のモノになった。
揺蕩う意識の中で与えられたのは、ご主人様の知識や記憶、それから、自分の名前。
この世界のものではない、どこかの景色。この世界じゃない、綺麗な建物。この世界じゃない、どこかの知識。
ご主人様が交通事故で死んだ、その記憶と、この世界に来てからの、少しの時間の記憶。
私が知っているこの世界の知識とご主人様になった人間の知識がリンクして、お互いの知っていることを共有する。
薄っすらと目を開いたら、見たこともない柔らかい笑顔を秀麗に整った顔立ちに浮かべた男の人と、目が合った。
「おはよう、俺の使い魔さん」
地球という世界では、根暗だといじめられていた、クラス旅行のバスでクラス全員が一緒に死んで、ご主人様はテイマーとしてこの世界の『勇者』を必要とする王国の広間に転移して。不遇職だと、金銭だけ持って城を追い出された。
はぐれ者という意味で、似た者同士なのかもしれない。どちらでもいいと思った。
ただ一目見た瞬間に、私はずっとこの人と一緒にいれるんだと考えて嬉しくなったから。
私がスライムの状態になっていて何を考えているかわかる人なんて今までいなかったし、眠ってるかもわからない。
すぐに気づいたご主人様は、きっとトクベツだ。
『おはよう、ご主人様』
多分できるだろうなと思ったから、スライムの状態のままでご主人様の脳内に語りかけた。
少し驚いた表情をするご主人様が面白くて、くすくすと笑う。半透明で緑色の、スライム体のままだ。
ご主人様が差し出してきた手の平にぴょいって飛び乗ったらそのまま持ち上げられて、肩の上に乗せられた。
「この状態で移動しても、大丈夫?」
『大丈夫だよ。スライムは垂直の壁にも貼りつけるから』
ご主人様が私を心配してくれるのがくすぐったい。気にする人なんていなかったから。
テイマーとの絆は、トクベツ。
ご主人様は唯一無二というヤツで……ご主人様を貶めたヤツは、許さない。
テイマー契約を結んで傷も疲れもなくなった身体でご主人様に懐きながら、小さな決意を固めた。
ご主人様は、本を読むのが好きだ。宿に帰ると、いつも本を読んでいる。
役に立ちたくて私が荷物を沢山他の空間にしまえることを主張したら、苦笑して次から荷物は私に任せてくれるようになった。ご主人様はテイマーなのに、私達みたいに知能が高い魔物を使役できる能力もあるのに私をあまり使わない。
冒険者をやってお金を稼いで、だけど私は戦えるのに魔物との戦闘はご主人様が自分の魔法でやってしまう。
その魔法が強いから私は必要ないし、ご主人様は私が使えない剣も使える。だから、私は役に立ててない。
荷物運びでも、ご主人様の役に立てるなら嬉しかった。それが私の存在意義、だから。
崩れるなんて、思ってなくて。
ご主人様が高価なマジックバッグを買ってきて「これからはこっちで荷物を運べるから」って言った時、驚いたし悲しかった。ご主人様は私を使いたくないのかなって、必要じゃないのかもしれないと思って。
誰かに利用されないと私に生きている意味はないのにご主人様は全部自分でやってしまおうとするから。
掃除が必要な程何かを散らかすことがないし、洗濯は宿でやるから私が必要なくて。
お料理とかお茶を淹れたりは任せてくれるけど、それくらいのことはスライムじゃなくてもできるから。
人間の姿でご主人様にご奉仕したら、喜んでくれるかなって。
私が今まで見てきた人間達とご主人様は違うのに、同じように単純に考えていた。
人間体の、緑色のツインテールと緑色の瞳の、あまり凹凸はない姿でも欲情してくれたから。
大丈夫だろうって安易に考えて、道具として使って、好きにしてくださいって、今までと同じように、口走った。
ご主人様が冷たい顔で私を見るのが、怖かった。他の人から何度も受けたことがある侮蔑をご主人様から受けて。
咄嗟に間違えたことを悟って謝っても無視するだけで、私を見てくれない。
ご主人様は、私がいらない?
「こんなことさせる為に、アリサをテイムしたんじゃない」
でも使い魔はテイマーの役に立たないといけないのに。
役立たずの私のままじゃ、捨てられちゃう。
捨てられたら、どうすればいいの?ご主人様を知らなくてただ生きていたかった頃には、戻れない。
縋りたかったけど、背を向けて、夜なのに明かりを灯して、本を読み始めるご主人様が拒否してるのは、わかった。
必要なくて余計なことしかできないなら、いない方がいいのかな。
ぽろぽろと涙が零れていくのを止められなくて、震える声で謝って部屋を出た。
ご主人様と初めて会った森の中に逃げ込んで、木が切り倒された後の切り株に乗っかった。
嫌われた、拒絶された、いらないって言われた。
人間に変身して言葉を喋ることができる、魔法を使えるスライムなんて私の他にもいる。
だからきっと、ご主人様は私以外の魔物をテイムすることもできる。
私はご主人様だけだから、無理だけど。ご主人様は、そうじゃない。私みたいな無能の役立たず、必要じゃない。
それでも捨てられることを考えたら心が騒ついて、意識を内側に潜り込ませた。泣かないように。
人間の元から逃げ出したかった頃とは違う。無理矢理身体を使われることもないし、ご主人様は優しい。
嫌なのは、使われるのが嫌で、使われないのも嫌で結局空回る、無能な自分。
いない方が良かったのだと、あの時死んでしまえば良かったのだと、馬鹿みたいに喜んだ自分に言ってやりたい。
ごめんなさいとひたすら懺悔を繰り返す心の内側で、世界の中に沈んでいこうとした。
段々とご主人様と繋がっていたのが希薄になって、アリサになった自分が遠い誰かになっていく。
ーーーもう、消えるから。邪魔しないから。
ただ、ご主人様が幸せだと言って笑える世界になってくれますようにと願いながら、私は消える筈だった。
世界に溶けきる直前に、酷く焦った声でご主人様が私の名前を呼んで、スライムの身体を抱き締めなければ。
テイムを結んだ時とは違う、苦しいくらいに無理矢理引っ張られて海面に顔を出したような、あと一歩の感覚。
どうして連れ戻したのかわからなかった。私を必要じゃないなら、消えたって気にしない筈なのに。
違う、と。
人間の身体になった私を抱き締めて耳元で囁くご主人様の声が、頼りなくて、消えてしまいそうで。
「アリサが、役に立たないと捨てられるって思ってるのが嫌だった。アリサが役に立たなくても、俺にとってアリサは世界で一番大事な存在であることに変わりないのに、がむしゃらに役に立とうとするから」
私が役に立たなくたって、側にいてくれるだけで幸せなんだって言ってくれた。
無理して喜ばせようとかしなくていいから、私がやりたいことをやってほしいと、言われた。
本当は、怖かった。
人間体になってご主人様にご奉仕したら、私を完全に道具として見做すんじゃないかって。
だけど前の生活に戻るのが嫌なんて私の我儘でしかなくて、使える全てでご主人様に貢献しないといけなくて。
「道具じゃなくて、いい?魔物と戦うのが怖くても、閨でご奉仕するの嫌がっても、捨てない?」
道具でいることが苦痛だった。
勝てるけど、魔物と戦って怪我をすること以上に、自分が相手の命をその場で奪う実感を持つのが怖かった。
いっぱい殴られても、首を絞められても、死ねないから苦しくて痛いのを我慢する時間が怖かった。
ご主人様の側にいたらそんな思いをすることはなくて、だけどご主人様ばかりに負担がかかるから。
「負担なんて思ってない。アリサが笑顔でいてくれたら癒されるし、ご飯も美味しいし、一緒に出かけたら俺が好きな本とか見繕ってくれるし、何かをあげる度にはにかんだり慌てるから可愛いし。アリサ以上なんて、いないんだよ?」
それは使い魔に対してと言うよりも、家族や恋人に対しての言葉や感情だったけど。
気づいてなくても、私は一人きりで世界に放り出されたご主人様を救っていたらしい。
何も信用できないまま冒険の途中で死んでたかもしれない。今そうならないのは助けてくれる人がいるから。
ご主人様が信用して、助けた人達が、ご主人様に色んなことを教えて、助けてくれる。
それに私が関わっているのかはわからないけど、私のおかげなのだとご主人様は言う。
誰かに感謝されたことなんてなかった。愛されたことなんて、一度もなかった。
私を救ってくれたのは、ご主人様の方だ。ご主人様がいなければあの日私は死んでいたのだから。
道具じゃなくていいんだと告げて、私を甘やかして、料理だけは全然できないご主人様。
スクランブルエッグを作ろうとするだけでも失敗して黒焦げになって……何もかも自分で一人でできるような完璧な人じゃなくてよかったって言うと、拗ねたような顔をする。どこまでもかっこいいのに、時々凄く可愛くて。
晴れた日の小高い丘の上。昨日雨が降っていたからか眩しいくらいの青空が広がる丘の上の、大きな木の陰。
最近では人型が街の中でも定着してる私が膝の上に頭を乗せても邪魔だって言わないで、本を退かして緑の髪を梳く。
人間の間にはない透明な緑色が気持ち悪いって言われた。
ご主人様が、陽に透けてきらきら光って綺麗だって言ってくれたから、好きになった。
閉じていた目を開いたら、優しく笑うご主人様と目が合った。
「ねえ、ご主人様。私ね、ご主人様がくれる食べ物が好き」
「うん」
「ご主人様が私の為に選んでくれる本を読むのが好き」
「…うん」
「ご主人様が、私を好きだって言ってくれるのが嬉しいの」
「そっか」
「あのね、ご主人様」
もう一回閉じたまま喋って、最後にまた瞳を開けた。
木が陰になって焦げ茶色の髪が真っ黒に染まって見えた。瞳の色は、夜空の星を全部詰め込んだみたいな輝く夜色。
起き上がって、初めて自発的に、求められたものではないキスをした。生命力の提供じゃない、純粋な愛情表現。
「好き」
小さく呟いた。
優しく私を見つめる夜色の瞳に後押しされるように、目を合わせたまま全部話す。
「優しくて、かっこよくて、可愛くて、時々弱くて、結局強いご主人様が好き。情けないところも見せてくれるのが、嬉しいの。料理だけできなくて、私に任せてくれるのが幸せで。冷たいって言われたって、気にしなくていいんだよ?ご主人様は優しい人だって、他の誰が認めなくたって私は知ってるもん。強いだけじゃないってことも、わかってる。私に可愛い服着せるのが好きで、自分が豪華な服を着るのは嫌い。だけど私が選んだやつは着てくれるの。困ったなぁって笑うのが、我儘を許してくれる時の顔だから好き。嬉しそうに笑うのも好き。私が作った料理、気に入った時にまた作ってって、ちょっと恥ずかしそうに言ってくれるのが好き。全部大好きなの、好きなんだよ、ご主人様の全部」
「……俺が本当は、勇者達のことを殺したいくらい憎んでて忘れきれない男でも?」
「いいよ。ご主人様が微妙にしつこいのも、やられたことは恩なら二倍で仇なら十倍返しなことも知ってるもん」
「関係ない人間が死んでいくのを簡単に見捨てられるような酷い人間でもいいの?」
「知らない人を助ける為に死んじゃう方がやだ。だけど、ご主人様は結局助けるんだってことも知ってる」
私も、今ご主人様と交流がある冒険者の人達も、死にかけのところでご主人様が助けてくれた。
強い魔物に襲われて死にそうだった人を、自分が腕が千切れるくらいの大怪我をして助けて、なのに恩着せがましく何かを言うこともなくて、ただ邪魔だったから、私が怖がってたから殺しただけって普通に言い切るの。
建前に使われてもいいの。だって本当のことだし、ご主人様が本当に私のことを考えてくれてるのも知ってるから。
「自分に余裕がないと誰かを気遣うことなんてできない、ちっぽけな人間だよ?」
「自分に余裕がないのに他人を気遣えるような人だったら好きじゃない。私は、何気に独占欲が強い上にヤキモチ焼きで負けず嫌いで、相手のせいにしないで絶対に自分を磨くことを怠らないご主人様だから好きになったんだよ?」
「……本当に、俺の悪いところも全部一緒に愛せるの?」
「疑り深くて愛情深いのに愛情に疎いのも、人参嫌いなのも、気に入らない相手のことその場で叩き潰すのも、偏頭痛持ちで雨の日は不機嫌になるのも、本を読んでる時に私以外が邪魔したら即ギレするのも、愛せるよ?」
「それだけじゃ収まらないと思うけど」
「朝寝起きが悪いのは可愛いし、一回集中し出したら寝食忘れて没頭しちゃうとこも好き。何かに集中してる時のご主人様の顔眺めてのんびりするのもそれはそれで楽しいし、どこにも出かけないからご主人様独り占め状態だし」
思い当たる限りで普通なら欠点になるであろう箇所を次々と挙げていくと、ついにはご主人様が苦笑した。
いつも通りの柔らかい笑顔。私だけに見せる、トクベツな笑顔。
「アリサにかかったら、欠点まで全部可愛いとか言って愛されちゃいそうな気がする」
「だって、普段完璧なご主人様が人間らしくだら〜ってしてるの私が特別だからでしょ?だから可愛いの」
私を気を抜いて接することができる相手って思ってくれてることが嬉しくて、そう考えたら欠点が可愛い。
いっつもご主人様を困らせてるから、たまに逆になってご主人様に困らせられるのが新鮮で楽しい。
今もそう。
私がご主人様を困らせて、ご主人様は仕方ないなぁって風に笑ってる。
「捕まえたら、離してあげられないよ?」
「離されたら、寂しくて死んじゃうよ?」
重たいご主人様に、きっとそれ以上に重たい言葉を返して笑う。
虚を突かれたように目を丸くしたご主人様にふふんと胸を張って、その次に不意打ちでキスをした。
「よし、追いかけっこしようご主人様!最初の鬼私で、捕まえたらご主人様はず〜っと一生私のモノ!」
「え、ちょっと待って何それ、鬼ごっこに賭けるものが重くない?」
「さ〜ん、に〜い、い〜ち」
ご主人様のツッコミをさらっと無視してカウントダウンを始めた。
態と少しだけで遅れて始めて、最後にはスライムになってご主人様に飛びかかった。
「わぁ!?アリサ、スライムの身体能力は反則!」
『反則じゃないも〜ん。私の本来の姿こっちだし!』
突進された勢いでつんのめって転けたご主人様の背中に乗っかってドヤッて踏ん反り返った。
ご主人様からは見えてないだろうけど、かなり愉快な状況になっていることは察したらしい。
人がいないからいいけど、ってくすくす笑ってるご主人様のその笑い方が無邪気で、少しどきどきする。
『捕まえたから、ご主人様は私のモノ!』
「思ったんだけど、これって終わりを宣言しないで俺が負けるまで続けるつもりだったんじゃ」
『私を疑うご主人様には丁度いい罰ゲームだよね』
「………今度同じことやってみるか」
ぽつりと呟いた言葉は小声すぎて聞き取れなくて、何を言ったか訊いたけど何でもないってはぐらかされた。
あんまり良い予感はしないけど、この感じのご主人様が答えてくれる気はしないから諦めることにした。
だけどやっぱり嫌な予感は的中して……
アリサのモノなのにご主人様呼びされてるのはおかしいよね?
って、素晴らしく良い笑顔で迫ってきたご主人様に押され負けて、ユーリって呼ぶことになった。
勇者達がこの国に召喚されて半年後。追い出されたユーリと逃げ出した私は、こうして結ばれた。