第六話 臆病な少女の決意
マリル・シュゲルは「ベヒシュタイン」より南に馬車で1時間ほどかかる村で育った。気が弱く、すぐ人の後ろに隠れているような娘である。性格故か、同い年の子たちにはいじめられて育った。それでも彼女が村で過ごすことができたのは、両親と二人の親友のおかげであった。
スレン・ホドフはお調子者だが、いつもマリルに笑顔を提供してくれた。彼は口癖のように、強くなってこの村を守る騎士になりたいんだと語っていた。
ドミーア・シュバは二つ年上だが、いつも優しく彼女に接してくれた。いじめからも守ってくれて、頼れるお姉さんという感じだった。彼女は魔術師の家系で、いつか帝都の高度魔術を習いたいと言っていた。
三人でいつも遊んでいるうちに、彼女もだんだんと積極性をもつようになった。帝都へのあこがれも強くなり、剣の練習にも励むようになった。最初のうちは才能がないと言われるほどだったが、努力は実を結ぶものである。彼女は村の中では、剣術が強い部類に入るようになっていた。
それでもやはり実戦になると、その才を発揮することができない。手が震えてうまく剣を振ることができないのだ。
彼女が変わるきっかけになったのは、今からちょうど一年前のこと。
町の近くに中型の魔物の群れが現れた。町に救援要請を送ったが、到着までに時間がかかる。それまでに村は壊滅してしまう。だったら仕方ないと、討伐隊を編成して退治に向かうことになった。スレンは志願したが、まだ若いということで村に残されることになった。
悔しそうに歯噛みしていた彼のことを、今でも覚えている。マリルはそんな彼を尊敬していた。いつも率先して危険に立ち向かおうとする彼は、憧れだった。
討伐は一時間ほどかかった。奇しくも村の平穏は守られた。しかし、そのせいで多数の村人たちが傷ついた。その中に父親もあった。
彼女の父親は右脚をなくしてしまった。その姿に泣いた彼女に、父親は頭をなでて落ち着かせた。
私がもっと強くなっていれば。
この出来事は、彼女にそう決意させるのに充分だった。
町から送られた兵士と冒険者の混合部隊は、それから十数分後に到着した。すでに討伐したことに労いもなく、あろうことか彼らは手数料を要求してきた。当然村は逆らうことができず、煮え湯を飲まされる羽目になる。
そんなこともあり、村の人たちは完全に心が折れてしまった。今はまたいつ来るかもわからない魔物の襲撃におびえながら暮らしている。
村の現状を変えようと、二人とともにマリルが冒険者になったのは、必然だったのかもしれない。
◆
頭が舟を漕ぐ。どうやらマリルは寝かけてしまっていたらしい。やみくもに飛び出して数分後、少しだけ開けた池の畔で座り込んでいた。
もう、彼女は動く気力さえなかった。
池を覗き込む。水面に映りこむ自分の顔は、ひどく醜悪になっていた。輝く紅い右目。浮き出る血管。伸びた牙。自分の意思とは関係なしに垂れる涎。
――わ、私はもう、に、人間じゃない。
歯を噛みしめて、池に剣を突き立てる。水はしばらく波を立てて、収まった。再び彼女の顔を映し出す。
「な、ななななんで……!」
再び剣を刺す。
「な、ななななななんで……!?」
かき消そうと。
「わ、わわ私がこんな目に!」
大きな声を上げて。
しかし、水の中に映る自分の姿は、消えることはなかった。
「あ、ああああああああああぁぁぁぁぁぁぁ……!」
彼女は天を仰ぐように叫ぶ。
声に連れられてやってきたのは、ウルフェンだった。先ほどの群れの生き残りらしい。数にして十体ほど。マリル一人で相手にするのは、自殺行為に等しい。それでも、彼女は憎しみを込めて魔物を睨む。
「こ、こここ殺してやる」
獣のように四つん這いになり、足に力を込めて一跳躍する。腕を振り上げて、ウルフェンたちに襲い掛かった。
◆
マリルが大声を上げてくれたことで、ようやくイリスは彼女の場所を特定することができた。
森の中にある池の周りは、血だらけだった。ウルフェンの死体が転がっている。
血だまりの真ん中に、膝をついた少女がいた。マリルだ。
彼女は体を真っ赤に染め上げて、泣き叫んでいた。手にはウルフェンの切り落とした首を持っている。
――手遅れか。
イリスは剣を構えた。
マリルは瞳を動かす。紅く輝いた両瞳が、イリスのことを捉える。
「だ、だだだだれ……?」
しゃべった。どうやらまだ自我は残っているらしい。とりあえず安堵するが、油断はできないと剣を構えなおす。
「だ、だだだだ誰でもいい。こ、こここ殺す。こ、ここここ殺してやる!」
本能の赴くまま、彼女は飛びかかってきた。腕を躊躇なく、イリスの顔に振り下ろす。彼女は攻撃を剣芯で受け止める。
火花が散る。金属を爪で引っ掛かれて嫌な音が鳴る。
マリルはまだ正気に戻せる可能性がある。完全体になってしまえば手遅れだが、半端なら人間に戻せる。昔受けたクエストでは、【攻撃的屍人】になりかけている人の治療もあった。
だからこそ、彼女を剣で斬りつけるわけにはいかなかった。
――だったら、気絶させるしかない!
マリルの身体を受け流す。足腰を使って、イリスの後方に彼女の体を滑らした。
勢いを殺せなかったマリルは、そのまま地面に顔を突っ込む。すぐに起き上がり、再び向かってきた。
筋力の弱いイリスは、今の彼女の攻撃を何度も受け止めるわけにはいかない。素早い爪の斬撃を見極めて、確実に隙をつく。
数回いなすと、彼女は我慢できなくなったかのように、イリスへ向かって飛び上がった。振り下ろされた両手を上へ弾く。万歳するような形になった彼女の腹部に、右ひざをめり込ませる。
うめき声とともにつばが飛ぶ。骨がきしむ様な音がする。
彼女の体がくの字に折れ曲がった。
イリスは一度地面に足をつけて、そのまま左足を軸にするように彼女の顔に回し蹴りをする。
頬にクリーンヒット。マリルの体はそのまま数メートル転がった。しかし、まだ起き上がろうと仰向けになったマリルは手に力を込めていた。
――鉄靴の全力の回し蹴りだぞ。どれだけ頑丈なんだよ。
彼女に走り寄ってそのまま跳躍。再び腹部に向かって踵落としをする。
「カハッ!?」
肺の中の空気がすべて出されたのだろう。マリルはせき込んでいた。今度こそ体は自由を奪われて、立ち上がることさえ困難になっていた。
意識はまだあるようだ。このままにしていたら、再び立ち上がって暴れ始めるだろう。
「ごめんっ!」
一言謝って、イリスはマリルの頭に向かって剣の柄を勢いよく下した。
マリルは気絶した。一応生きてることを確認してから、彼女を楽な姿勢に寝転がせる。そばで膝立ちになり、体を見下ろした。
少女にしては豊満な胸に目を向ける。
「べ、別にやましいことをするつもりはない」
深呼吸をして自分を落ち着かせる。今は同性なんだから問題ないはずだと、何回も自分に言い聞かせる。
胸にゆっくりと手を当てる。できるだけ柔らかい感触に意識がいかないように注意しつつ、目を瞑った。
殺戮人形にするこの魔法は、強力な魔法だ。並大抵の魔術師だと、治療はできない。少なくとも魔力適性がS判定を持っていないとダメである。
現実時代でゲームをしていたときは、脳筋の騎士であった。町からわざわざ大魔術師と呼ばれるNPCを連れてきて、治療したことを覚えている。
しかし今の彼女は適正はSである。やろうと思えばできる。
大魔術師が唱えていた呪文を思い出しながら、イリスは口を開いた。
「“彼のものに光の――”」
◆
マリルは気がつけば真っ暗な世界に漂っていた。
体のだるさから目覚め、足をつける。ここはどこだろうとしばらく見渡してみたが、思い当たる節はない。
しばらく呆然としていると、遠くで光が満たされた。そこにはスレンとドミーアの姿があった。
いつもと変わらない二人の姿に安堵し、足早に駆け寄る。
「ふ、二人とも、だ、大丈夫だったんですか……」
安どのため息を吐いた。二人はマリルに対して優しい笑みを浮かべている。
「い、一緒に町へ帰りましょう。そ、そうだ依頼達成の祝杯として、きょ、今日は無礼講で――」
「――悪いが」
彼女の言葉を遮ったのは、スレンであった。
「どうやら、オレたちはマリルと一緒に行くことはできないようだ」
「悪いねぇ。あたしもマリルを一人にするのは忍びないんだけど……」
心底申し訳なさそうな表情を、二人を浮かべている。
「な、なに言ってんですか? じょ、冗談はやめてくださいよ……」
「冗談じゃなんかじゃねぇ。オレたちとお前はもう別の世界の住人ってことだよ」
「これからはあたしたちがいなくなっても強く生きるんだよ?」
「そ、そんないやだ……! だ、だったら私もそっちに行く! ふ、二人が行くなら――」
スレンがマリルの頬を平手打ちする。乾いた音が周囲に響く。
頬を抑えるマリルの表情は、何をされたかわからず目を白黒させていた。
スレンは、彼女の頬を叩いた右手をさすっていた。目を伏せ、踵を返す。
肩を竦めたドミーアが、彼女と視点を合わせた。
「マリルは生きて。それがあたしたちの願い。生きて抗ってこの理不尽を終わらせるんだ」
まだ呆然としている彼女を放ったからしにして、ドミーアも踵を返す。
徐々に遠くなっていく背中。我に返ったマリルは急いで二人を追いかけた。しかし、差は縮まるどころか広がっていく。
やがて足をもつれさせてその場に転んだ。顔を地面にうずめる彼女は拳を強く握った。
ゆっくり顔を上げると、もう二人の姿はなかった。
「あぁ……」
彼女の頭の中で、今までの二人との思い出が反芻される。
「あぁぁぁぁ……」
いつも助けてくれた二人はもういない。
「うぁぁぁぁぁぁぁぁあああああん!」
彼女の絶叫が、泣き声が、どこまでもこだましていた。