第十一話 成れの果て
アランが力任せに、斧を横に振る。砂が舞い、イリスの頬に当たる。
イリスはスライディングの要領で、斧の下に入り込むようにして避けた。マリルは飛び上がって、斧の上を通るようにして避けた。
二人の間で、斧が空を切る。
「……はぁっ!」
振りかぶったままのアランの隙をつくようにして、イリスが下から顔に向かって剣で突く。瞬間、アランは斧を手放した。そのまま上体をそらしてイリスの剣を避けた。
マリルは上体をそらしたままのアランの肩に向かって、剣を振り下ろそうとしていた。しかし、右足を掴まれてしまう。
「……え?」
急に掴まれて引き寄せられたことで、彼女はバランスを崩した。そのまま振り回されて、投げ飛ばされる。
イリスはマリルの体を避けようとしゃがんでいた。一歩動きが遅れることで、隙を与えてしまった。先に体勢を立て直したアランがイリスの腹部に蹴りを入れる。
「く……っ!」
体が宙に浮きあがる。鎧を着ているとはいえ、衝撃を全部殺せなかった。腹を抑えて蹲る彼女の顎をアランが蹴り飛ばした。
地面を転がるようにして十数メートル飛ばされる。
「なんて……やつだ」
手に力を込めてなんとか立ち上がった。アランは手放した斧を拾っているところである。
武器をあえて捨てるという選択肢。体の柔らかさ。一手で二人を対処するという臨機応変さ。過去とはいえ戦士は戦士。戦闘経験など目に見えて違う。
単純なバカと侮っていて、痛い目を見るのはこちらのようだ。
立ち上がり、近くに落ちていた剣を拾った。
「おいおい、どうしたよぉ、お嬢さんたち。俺を倒すんじゃなかったのかぁ?」
調子に乗っている。そう誰もが感じるような、嫌な笑みを貼り付けていた。
イリスは答えない。彼の肩越しに見えたマリルが、両の手をかざしているのに目をやった。
マリルはもうすでに魔力が枯渇しかけている。それでも次の一手を打とうと炎を灯していた。
無言で放たれた炎はしかし、意図も容易くアランに避けられた。
「俺が気づかないとでも思ったかぁ!」
大声で笑い、アランはイリスに背を向ける。そのままマリルに向かって走り出す。
彼女は限界を超えていた。額に汗をにじませて、肩で息をしている。アランはそんな彼女に容赦なく斧を振りかぶる。
「≪ピアーナ≫」
イリスが小さく唱えたのは、小さな氷を飛ばすだけの魔法。しかし、“速度だけは異常に調整されたもの”。
指の先から細かな礫が飛ぶ。弾丸のように回転しながら飛び、迫ってくるマリルの放った炎を突き進む。炎は氷の礫と風の煽りを受けて、方向を変えた。
炎を纏った礫が、アランの肩を貫いた。振り下ろそうとしていた斧の動きが止まる。
「ぐ、あ……ッ!」
肩を燃やし、苦痛で顔をゆがめているアランが、肩越しに振り返る。
「ただ、いくらなんでも油断したらダメだよ」
イリスが、苦笑気味に口の端をゆがめた。
「お、おまえ……っ」
よろけるアランはこちらを振り返る。斧を引き釣り、イリスに向かって今にも走り出しそうだ。
「だから、油断したらダメだって……」
アランの背後では、マリルが彼に手を伸ばしていた。よろけながらも一歩ずつ、彼に近づいている。
体に触れた。あっけなく、ただ軽く。
「は……あぁぁぁぁぁぁぁぁあああ!?」
アランの絶叫が響く。肩に燃え移った炎が、体全身を纏う。炎が彼の皮膚を焦がしていく。
イリスは走り出していた。燃えるアランを無視して、マリルの元へ。倒れ込みそうな彼女を何とか支えた。
「……魔力量もないのに、無茶して」
「あ、あはは。い、イリスちゃん、私役に立った?」
「役に立ち過ぎだ」
「そ、そっか。よかった……」
彼女の意識はここで途切れてしまった。地面に寝かせて、さてと立ち上がる。
剣を構える。当然、あの男が炎に焼かれただけで終わるとは思ってない。
「あ、あついいいいいぃいぃぃぃぃ……小娘がぁぁぁぁぁあああ……クソがクソがクソがクソが!」
炎を纏ったまま、彼はやみくもに斧を振り回していた。このまま無計画に突っ込めば、巻き添えを食らうだろう。
深呼吸して、タイミングを計る。隙を見つけて、掻い潜る。炎の熱さなど、今のイリスには関係ない。
心臓目がけてそのまま剣をつく。
「ぐ……はぁ!」
引き抜くと、血が飛び散った。返り血を浴びる。アランの体が後方に倒れていく。何も支えるものがない彼の頭は、地面に強く打ち付けた。
炎はいつの間にか消えていた。服が燃え散り、皮膚は焼けただれている。顔は醜く歪んでおり、直視することができない。
イリスが剣についた血を払うように振ってから、鞘に収めた。
もう、彼のことに興味はなかった。早くマリルを地面ではないところに寝かしてあげることだけを、考えていた。
そう、振り返ったのが間違いだった。
「……お、おのののれぇぇぇえええ!」
彼はいつの間にか立ち上がっていた。イリスの襟首を掴み、引き寄せる。足が宙に浮いたことによって事態を飲み込んだ。
「……な!」
見上げて見えた彼の身体が、異形と化していた。筋肉は膨れ上がり、顔ももう原形をとどめていない。腕は筋肉で鉄筋よりも頑なっていそうだ。
何よりも目を引くのは、獰猛に輝く紅い瞳だった。
「つ、つぶしししっししっししってててててててててててやっるるるっるるっりゅるるりゅりゅりゅっりゅ!」
もう何を言っているのか分からないが、彼のやろうとしていることは分かった。左手で顔を掴まれた時、ゾッとするような気配が背筋を上る。このまま顔をつぶされてたまるかと、アランの左手を両手でつかんだ。
「≪ピアニード≫!」
精一杯魔力を込めて、手のひらから氷の刃を出現させる。刃は彼の皮膚を裂き、筋肉を裂き、血管を裂く。
まだ痛覚があるのか、そのことに驚いてアランは手を放してくれた。
地面に足がつくと同時に、イリスは彼から距離を取る。マリルの近くに行き、彼女を庇うようにしながらアランと対峙した。
その異形さに、息をのんだ。
三メートルは越える巨体。体のどこもかしこも筋肉で膨れ上がり、人間としての体をなしていなかった。顔は口も鼻も耳も埋もれて見えない。目だけは紅く輝いていた。
かつて人間だったそれは、手に刺さった氷の刃を抜いて叫んでいる。
「いたあああああああいいいいいいいいいいいいい。いたいいぞおおおおおおおおおおおお。なんで、なんでなんでなんでなんで? あれ、いたくないぞおおおおおおお? なんだかきもちいいいいぞおおおおおおおおおお……――」
そこからの叫びは聞こえなかった。一目でわかる。彼はもうすでに人間ではないことに。
紅い瞳、異形、理性が飛んでいる。そのすべてが現すのは――
「……【攻撃的屍人】」
それも、かなり高密度の魔力が込められた。
「はは、どうしろっていうんだよ……」
乾いた笑いが、喉から漏れる。諦めたように、体から力が抜けてしまった。
マリルは寝てしまっている。たとえ起きたとしてもたった一人の力でどうにかなるものではない。
人間の成れの果てを前に、ただ絶望するしかできなかった。




