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一般向けのエッセイ

スマホとテレビしか見ない人

  

 先日、会ったある人は、タイトルのような人でした。スマホとテレビしか見ない。他に知識源がないので、まとめサイトなんかの偏った情報を本気で信じていました。

 

 少し前にはまとめサイト的なものは「ネタ」として面白がっていたと思いますが、いつの間にか、それが「本当」になったという感じがあります。

 

 それを促進させたのはスマホの普及だろうと思います。スマホの小さな画面で、細かい情報を隅々まで見るというより、適度に心地よい、大雑把でわかりやすい情報だけを摂取するというのがより一般的になったと思います。

 

 当然、それらの流れに「なろう小説」とか「スマホゲー」がある。

 

 先日、オリエンタルラジオの中田のやっているユーチューブチャンネルが、間違った情報を流しているというので炎上したそうですが、結構擁護の意見もありました。

 

 擁護の意見の中には「偉そうに後出しジャンケンで批判する奴よりも、大勢の人間がチャンネル登録するようなそういう魅力的なコンテンツを作っている人間のが偉い」という意見がありました。

 

 こういう人にとっては何が正しいかよりも多数者が賛同しているかどうかが価値ある事なわけです。私はこの勢いはますます強くなっていくと予想しているし、その内、批判する人間の方が炎上するようになると思っています。

 

 「自分達が良いと言っているからいいんだ」という多数者のジャイアン的な意見がやがて主流になっていくでしょう。そしてこの多数者の専制から独裁者が生まれると個人的には予想しています。

 

 ※

 

 大衆というのは、付き合って見てわかりましたが、権威しか信じていません。それが彼らの精神的衛生に大きく役立っています。

 

 だから文学をやると言えば即「芥川賞は~」という話になる。彼らからすれば、「文学」=「芥川賞」です。というのも、その外にはみ出る文学という概念は念頭にはないからです。権威の発する声を無条件に信じるというのが昔からの大衆の一義的な精神なのだと思います。権威それ自体の形は変わりますが、それに対する服従の形式は一定と言えます。

 

 ところで、この権威の方でも混乱が起きています。権力を持つ人間が、メディアやタレントにすり寄る図が今では見られていますが、権威の声が以前のように強固なものではなくなってきつつあって、しかし同時に大衆は権威を必要としている。そこで、その中間というか、メディアと大衆の馴れ合い的な所に、権威の方も自分の場所を見出そうとしているのだと思います。

 

 大衆は自分達が盲従できる決定的な声を必要としていますが、同時に、服従するという事によって支配しようとしているとも言えます。ただの権威というのが今では成り立たなくなってきつつある。例えば、「その領域では認められているけどとっつきにくい偉い学者」と「専門家からは馬鹿にされているけれど素人受けはいいタレント的な学者」だと、以前は前者の存在が認められていたと思いますが、今は後者の方がより価値があるとされるようになっている。そういう価値観の移行があると思います。

 

 そこで、大衆の漠然とした欲求や憤懣と、メディア・権威が一致して、今のディスピア(ユートピア)のような世界ができているのだと思います。ユーチューバーと総理大臣が結びつくなんてのも、後は時間の問題でしょう。

 

 ※

 

 話を最初に戻すと、テレビとスマホしか見ない、あるいはスマホしか見ないような人はますます増えるでしょう。

 

 最近、デマがよく回っている印象がありますが、それもますます加速していくでしょう。

 

 年末、仕方無しにテレビを少し見ましたが、タレントに対して大衆は「キャラクター的な面白さ」でしか見ていないのだと感じました。高嶋ちさ子とか、そういう意味で面白いキャラクターだから良くテレビに出ているのでしょう。でも、高嶋ちさ子の音楽家としての力量とかは大衆は興味がない。私は北野武なんかは映画の方にしか興味がないんですが、ネットのコメントを見ると大半が芸人としての北野武に関するものでした。

 

 大衆は「気分」と「慣習」の二つで生きているのではないかと思っています。服従すべき規範・倫理があってそれに従うと、後に残るのは「気分」なので、それをその時々に発散して生活している。生活そのものを問い直すという理性の働きはないのだと痛感しました。知識のある人はいても、それは自己や世界を理性的に見直す為にあるのではなく、所与の世界でいかにうまくやるか以外の使用方法は想像されません。

 

 こういう状況の中、次第に権威とか、それまで立派と思われていたものもその土台がぐらつき、一方では様々な試験などで計れる形式的な制度として固定化され、もう一方では大衆におもねるタレント的なものになっていく。水が低い方に流れるように世界は運動していっている。この水平化の運動はどこまで行くのかよくわかりませんが、この状況はまだもっと続くと思います。

 

 こういう世界では、おじさんも女子高生も大して違わないと感じています。テレビを見ている人達がスマホを見るようになっただけです。ユーチューバーはテレビのバラエティの延長でしかない。

 

 ただ違いは、水平化に抗する人間と従う人間の二種類であると思います。私個人は水平化に抗する人間にいくらかの期待をしていますが、そうした人達の戦いは敗北を定めとした戦いにならざるを得ないでしょうね。




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― 新着の感想 ―
[一言]  間違った情報を流すのがメディアなら、その間違いを正していくのもまたメディアだと思うんですけどね。  スマホとテレビが誤情報を流していた時、それが間違いだと気づかせてくれたのもまた、スマホと…
[気になる点] 在英日本人ヘッジファンド経営者曰く、 人類の半分は平均以下の知能しか無い。だそうです。 [一言] >大衆というのは、付き合って見てわかりましたが、権威しか信じていません。 なろうの異…
[良い点] ちょっと絶望しますね。
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