君のネームは?(5)
私は、西矢に続いて会社を出た。彼は肩ごしに私を見て、
「ついてくんの?」
「話の続き、気になりますから」
まあいいけど。西矢はそう言った。ガタンゴトン……車両の揺れる音が、あたりに響いている。私と西矢は、電車に揺られていた。目の前に座っている高校生が、「少年ジャリオン」をめくっている。よほど面白いのか、身を乗り出すようにしながら読んでいた。西矢はそれを見て、目を細めた。
「ジャリオンの発行部数、どれくらいか知ってるか?」
私はかぶりを振った。
「200万部。うちの十倍。日本の漫画雑誌でトップだ」
「西矢さんは、そこの編集だったんですよね」
「ああ」
西矢は扇子を開き、パタパタと自身をあおぐ。
「ユイチと会ったのはさ、六年前だった」
あいつは学ランを着てジャリオンの編集部に持ち込みに来た。
「今以上にヒョロヒョロのガキで、ぬぼーっとして。まあ、今もそれは変わんないけど」
私は想像してみた。ユイチも西矢も、今より若い頃。
「最初に読んだ時、あいつペン入れしてなくてさ。ちゃんとしてこい、って言ったら、ボールペンで描いて来やがって。台詞までペン入れちゃってさ」
西矢はおかしそうに笑う。
「仕方ないから漫画の描き方系の本を貸してやった」
「それ、普通なら門前払いじゃないですか?」
「絵はそこそこうまかったし、何より話が面白かったからな。こいつはなんかあるんじゃないかって思った。ま、そういう勘ははずれることも多いけど」
「それで……」
「ユイチは半月後にまた来た。ペン入れは、上手かないけどサマにはなってた。トーンの削りとかはまだ甘かったけど」
電車が駅に近づくと、車内アナウンスが響く。「まもなく、○○、○○です……」
「半月でペン入れマスターなんてあり得ないから問いただしたら、学校サボって描いたとか言うんだ。ちゃんと行けって説教したな」
「どれくらいでデビューしたんですか?」
西矢は指を三本立てた。
「三ヵ月」
それが驚異的なことだというのは、私にもわかった。
「月例賞でデビュー。まだ学生だし、短編描かせつつ、作画指導もしていった。読者アンケートもよくて、最初に出した短編集も、新人の割には売れた。で、短編の中から一番人気が出たのを選んで連載をはじめたんだ」
彼はスマホを取り出し、操作して私に向けた。
「この漫画。知ってるか?」
電子書籍の配信サイトだ。表紙には同じ顔をした少年が二人描かれている。タイトルは「ダブルスコア」。私はあ、と声を漏らした。
「このキャラクターって……」
西矢のカップに印刷されているキャラクターだ。
「主人公は双子。バスケで全国制覇を目指す完璧な兄貴と、ダメな弟。ある日、兄貴が死んでしまう。兄は幽霊になって弟に乗り移り、バスケを始めるんだ」
西矢はスマホに目を落として呟く。
「俺はいい作品だと思ってた。でも、売れるかどうかはわからなかった」
ユイチは卒業後に連載をはじめたそうだ。西矢はアパートを借りてユイチを住まわせた。そんなこと、六年前だとしても異例だっただろう。
「これが馬鹿みたいに売れた。バスケ漫画として、一番に名前が出るくらい」
「……」
「アニメ化して、そのアニメの主題歌もヒットした。女性人気が出て、ミュージカルにもなって、実写化の話もきた」
雑誌にとっても、ドル箱だった。
「作品はいい最終回を迎えた。主人公より他のキャラの人気が出すぎて、終わらないでくれって大量のファンレターが届くくらいだった。連載終了後、すぐにスピンオフの連載へ移行した」
だらだら続いても、部数は落ちなかった。
「一つ大ヒットコンテンツが出たら、続編や派生漫画、アニメ、小説、ゲーム。色んなものとタイアップして何回でも稼げる。だから、連載を続けたがるんだ」
ただ、ユイチは違った。
「ユイチは、他の漫画も描きたいって言ったんだ。だけど俺は、許さなかった。この漫画を終わらせることがおまえの義務だ。漫画家っていうのは、自分のために描くんじゃない。読者のために描かないとダメなんだ。そう言った」
「読者の、ために……」
「それに、ユイチはマンションに移り住んでた。次の連載をして、成功できる保証はない。生活を維持するには、意に沿わないこともやるべきだ。俺はそう思ってた」
電車が止まると、前に座っていた高校生が慌てて立ち上がった。読みかけの雑誌片手に降りていく。そのまま、駅のホームのベンチに座って続きを読みはじめた。ドアが閉まります、というアナウンスが響く。
「ユイチは半ば強硬策で連載をやめた。『ダブルスコア』第2部は、未完のまま終了」
「それで、ユイチ先生は」
「青年誌に移った。ジャリオンと同じ高徳社の『月刊ユーリアン』」
私はスマホで「ユーリアン」を検索してみた。著名な作家を多数輩出している雑誌のようだ。
「発行部数は五十万部。青年誌としちゃ、なかなかのトコだ。そこの編集は──ユイチにパクリをやらせようとした」
「パクリ?」
「人気漫画の二番煎じ。できなきゃ載せないって言ったんだ。突っぱねたら、嫌がらせが始まった」
電車が再び動き始める。
「ネームを通さない。このままだと打ち切りだと攻め立てる。外での打ち合わせで、つまらないと声高に言う。期日を無闇に狭く設定する。なんてーんだっけ?」
「パワハラですか。あるいは、モラハラ」
「それ。毎回の打ち合わせがそんなで、ユイチは精神をやられた」
「そんな雑誌、移ればいいじゃないですか」
「その編集はこう言ったらしいぜ。『一度作品を投げ出してるような作家を、他紙が使うと思うのか』って」
そんなのは脅しだ。私はぎゅっと鞄を掴んだ。
「ある日、ユイチからネームを読んでくれって電話が来た。内容はめちゃくちゃだったよ。ガリガリに痩せて、もう連載なんかできる状態じゃなかった。俺はユーリアンの編集部に怒鳴り込んだ」
「え」
「やべーやつだと噂が立って退職。で、今の職場に来たわけ」
「よく白英社に入れましたね」
「まあな。白英社の社長が、ジャリオンの元編集長だったんだよ」
T競馬場近くの駅に近づくと、アナウンスが鳴り響いた。
「○○ー。○○ー」
西矢は立ち上がり、んーっ、と伸びをした。乗降口へと向かう。
「じゃーな」
「編集長」
呼び止めると、西矢が振り向いた。
「あの、このことを知ってるんでしょうか、ユイチ先生の親御さんは」
「さあな。ユイチのやつ、親と会いたがらねえから」
俺も合わす顔ねえな。彼はそうつぶやく。
「元はと言えば、俺があいつの手を離しちまったから」
西矢は言った。編集者は、漫画家の家族でも友達でもない。それでも彼は、ユイチを救いたかったのだ。
「んじゃな、オツカレ」
ひらひらと手を振る西矢の姿は、プシュー、と閉まったドアの向こうに消えた。
その夜、仕事を終えた私は、漫画喫茶へ向かった。「週刊少年ジャリオン」の棚に並んだ背表紙を眺める。
「ええと……『ダブルスコア』だから、タ行か」
背表紙を端から追っていくと、該当タイトルを見つけた。私は棚から「ダブルスコア」を抜き出し、自分の席に運んだ。全17巻なので相当な数だ。
「よいしょ、っと」
席について、漫画をめくる。まず目に入ったのは、ゴールポスト。少年がそちらへ向かってボールを投げると、枠に当たり、かんっ、と音を立てて外れた。少年はため息を漏らす。それが1ページの最後のコマだ。この少年がヒーロー? 随分とネガティヴな始まり方ではないか。
ユイチの連載は、巻頭カラーでスタートしたのだろう。ページをめくると、双子らしき少年が、背中合わせで立っている見開きの絵。バスケットボールを持っているほうが主人公だろうか。
ああ、ユイチ先生の絵だ。
今より未熟だし、なによりアナログなので塗りは荒い。だが確かにユイチの絵だった。
主人公の裕は何をやってもうまくいかない無気力な少年。昔から完璧な双子の兄、一と比較されてきたためひねくれている。
しかし兄弟仲はよく、全国制覇を目指す兄とパスの練習をする日々。そんなある日、一が交通事故で死んでしまう。
1話目は、一が化けて出て来るシーンで終わる。裕は幽霊となった一を呆然と見るのだ。
いきなり幽霊として現れた兄を、裕は受け入れられない。
「こんなの夢だ夢! ユーレイなんかいるわけねー!」
「全国制覇したいんだ! 頼むよ!」
一に身体を乗っ取られた裕。急に完璧になった裕に対して、バスケ部のマネージャーでヒロインのハルだけがおかしいと気付く。
「まさか、ハジメ?」
彼女が気付くことにより、裕は自分の身体を取り戻す。しかし、一は取り憑いたまま。裕は兄の夢を叶えるため、バスケ部に入部する。一は裕が寝ている間に自我を乗っ取り、ハルと会話する。
「なあ、ハル。なんで俺が裕に取り憑いてるってわかったんだ?」
「わかるよ。幼馴染だもん」
「本当にそれだけ?」
「な、何言ってんの? 当たり前だよ」
ハルは裕に、一はハルに片思いしているのだ。
この三人の三角関係も、作品の見どころだった。
気がついたら、夢中でページをめくっていた。
バスケのことはよくわからない。漫画にも興味がない。だが裕の葛藤や、一のやるせなさ、ハルの可愛さは、私の心を揺さぶった。一は、裕が秘めていたバスケの才能に気づき、成仏の時が近づいていることを感づく。そして、全国大会の決勝戦。裕は自分の身体が消えていくことに気づいてこう言うのだ。
「裕、もうおまえに俺は必要ないんだ」
試合中、突然一が消えてしまい、裕は失意の底に沈む。そこから試合状況が一変し、裕はメンバーから外される。ハルは裕を叱咤するのだ。
「一が、一が、って、あんたは裕でしょう! 今の西校のキャプテンはあんたでしょう!」
「俺が死んだほうがよかった。ハルだってそう思ってたんだろ!」
ハルは裕の頰を叩く。
「あんたは一じゃない。ましてや、私の好きな裕でもない! 偽ものだ!」
スピンオフ作品では、裕はアメリカへ渡る。そこで実質の主役になったのは、ライバルの久坂だった。冷静沈着で天才。裕のバスケの才能をいち早く見抜く。他にも、霊感を持つ沼気、外国人選手のパトリックなど、魅力あるキャラクターが物語を彩る。
しかし、裕が怪我をするところで物語は唐突に終わっていた。
発行日は三年前の十二月。続きが読みたい。そう思った。
三十分後、漫画喫茶を出た私はユイチの自宅に来ていた。エントランスを抜け、8階へとあがる。インターホンを押すと、しばらくしてユイチが顔を出した。私を見て、不思議そうな顔をする。
「灯台、さん?」
「こんばんは」
「どうしたの?」
「あの、近くまで来たので」
「どうぞ」
ユイチは私を室内へ招き入れた。
「コーヒー、のむ?」
「おかまいなく」
せっかくだから飲んで行って。彼はのそのそとキッチンへ向かった。私は、猫背気味のユイチの背中を見る。
漫画のことはよくわからない。でもユーリアンにいた時、ユイチがどんな思いでいたかは想像できた。西矢を頼るまで、誰にも言えずに苦しんだだろう。苦しいのならやめてしまえばよかったのだ。だけど、彼はどんなに辛くても漫画を描きたかった。たとえ命を失っても──。彼の背中が、涙でぼやけ始める。
ふ、とこちらを見た彼が、ギョッとした顔をした。おろおろと手を彷徨わせたのち、手をこちらに伸ばそうとし、また降ろす。そうして、おずおずと尋ねてきた。
「……どうしたの」
私はごしごしと目元をこすり、息を吐いた。
「編集長に、聞きました。昔のこと」
「昔?」
「ユーリアンの編集者に、ツブされたって」
「……ツブされたわけじゃない。俺が弱かったせい」
ユイチは俯いた。
「もっともっと面白いネームを描いて、あの人を納得させなきゃならなかった。俺は負けたんだ」
「ダブルスコア。面白かったです。続き、書かないんですか」
「今更だよ」
彼は前髪をくしゃりと丸めた。今のユイチは、裕と同じなのかもしれない。怪我をしたまま、うずくまっている。
「私、先生のために何かできますか」
「べつに、いいよ」
私はじいっとユイチを見た。彼はうう、と呻いて、
「……じゃあ、ポーズとって」
「はいっ!」
私は張り切って、ユイチの指示したポーズをとった。
ポーズをとるうちに、すっかり外が暗くなっていた。時計を見ると、すでに二十時だ。ユイチの腹がぐう、と鳴る。
「ユイチ先生、外でごはんを食べませんか? 奢りますから」
「でも、原稿が」
「長くは付き合わせませんから」
私の言葉に、ユイチはこくりと頷いた。彼と連れ立ってエントランスへ向かうと、着物姿の女性がこちらに駆けてきた。
「佳乃さん?」
佳乃は血相を変えて、ユイチにすがりついた。
「裕一、早く来て。お父さんが……!」
ユイチはハッとする。私は素早くユイチを促した。
「先生、行きましょう」
彼はぎこちなく頷いて、佳乃とともに駆け出した。