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君のネームは?(4)

 私は、原稿を触る際はいつも手袋をしている。大型ホームセンターで買った業者用のもので、紙をめくりやすい仕様だ。手袋でユイチのネームをめくりながら、ちらりと彼を見る。


 ユイチは椅子に膝を立てて座り、爪をいじっていた。不倫? まさかユイチ先生が? 全然女慣れしてないように見えるのに。というか、純粋だと思っていた、いろんな意味で。ぐるぐると、しょうもない妄想が頭の中をめぐる。


 編集者は漫画家の友達でも家族でもない。立ち入る義務も権利もない……。それでも気になって、私は口を開いた。


「あの、佳乃さんとはどういうご関係なんですか」


 彼は爪をいじるのをやめ、椅子から立ち上がった。台所へ向かったユイチは、何かを手に戻ってくる。よく見ると、小皿に米粒が入れられている。いったい何をする気なのかと思えば、窓際へ向かい、からりと引き戸を開けた。


 ベランダへやってきた雀に米をやっている。質問に対する答えはない。私は、焦れ気味に声をかけた。


「先生?」


 ユイチはこちらに背を向けたまま、ぽつりと答える。


「母親」

「へ?」

「あの人は、母親」

「……実のですか?」


 ユイチは頷いた。


「うち、そんなにドロドロしてない」


 つまり、ユイチの実家は「春海堂」なのだ。欠食児童みたいな食べ方をするから、てっきり複雑な家の育ちかと思っていた。なぜ目と鼻の先に実家があるのに一人暮らししているのかは、あまり突っ込まれたくないようだが。


「ネーム、すごくよくなってます。遊園地やめたんですね」


 話題を変えたら、ユイチが振り向いた。カラカラと引き戸を閉めた彼は、ぺたぺたと足音をたててこちらに来る。漫画のことに関しては、彼は無視ができないのだ。


「博物館は、デート場所にはしぶいですけど」

「……主人公が、歴史の先生だから。それに、俺は遊園地をあんまり楽しいと思わないし」


 確かに、遊園地ではしゃいでいるユイチは想像できない。私はふふ、と笑った。


「大のおとなが刀くらいではしゃいじゃって、ちょっと面白いですね」

「……」


 ユイチはじっと私を見た。


「どうかしました?」

「いや」


 彼は短くなった前髪をいじって、


「漫画、ちょっとは好きになった?」

「ええ。歴史のほうがおもしろいですけど」

「そっか」


 少しだけほほ笑んだ。初めて会った時は、人間不信の捨て猫みたいな顔をしていたけれど、ずいぶん表情が柔らかくなったものだ。私は鞄を手に立ち上がり、


「じゃあ、さっそく下書きに入ってください。完成したら、メールか電話で連絡お願いします」


 玄関へ向かおうとしたら、ユイチが声をかけてくる。


「灯台さん」

「はい?」

「カステラは、もう持ってこなくていいから」

「でも……すきなんでしょう?」

「食べなくても、死なないし」


 ユイチは、視線を下に向けながら言う。よく見たら、自身のシャツをぎゅっと握りしめている。その様子で、無理をしているのがよくわかった。きっと、ユイチにはユイチの考えがあるのだ。


 口を出したいのをぐっとこらえ、わかりました、と答える。そうして、ユイチ宅を後にした。


 エントランスを抜けると、着物姿の女性がすっ、と目の前に立ちふさがった。私は、はっとして足を止める。


「佳乃さん……」


 佳乃はかすかにほおを緩め、丁寧に頭を下げた。


 私と佳乃は、喫茶店にいた。落ち着いた雰囲気の店内には、BGMとしてピアノの音色が流れている。香り高いコーヒーに落としたミルクが、渦を巻いて溶けていく。佳乃はその様子を見ながら、ぽつりとつぶやいた。


「東大寺さんが、祐一の担当だったんだなんて」


 祐一というのがユイチの本名だと思い出すまで、少しだけ時間がかかった。この人は本当に先生の母親なんだな、と思う。彼女は深々と頭を下げて、


「改めまして、市川佳乃です。祐一がいつもお世話になって」

「あ、いえ、そんな」


 私は慌てた。確かに、結構お世話をしているような気はするけれど。佳乃は不安そうな目で私を見る。


「ご迷惑かけてないかしら」

「ええ」


 私は、西矢が言っていたことを思い出した。漫画家は、面白い漫画を描いてればクズだろうがコミュ障だろうがどうでもいい。ただし、原稿を落とす奴はだめだし、犯罪を犯す奴は論外。なぜなら牢の中じゃ漫画が描けないから、だそうだ。


 そういう観点から言えば、ユイチは少なくとも、原稿はきっちり上げるし、犯罪に巻き込まれたりもしていない。ただ引きこもりというだけである。


「先生は、あの若さでよくやってます」

そう言ったら、佳乃さんが嬉しそうに微笑んだ。

「ユイチ先生はどうして、佳乃さんにあんな態度を?」

「うちのひと……祐一の父親は、漫画を描くのにずっと反対しているんです」


 私は、強面の和菓子職人を思い出した。


「不安定な職業だからでしょうか」

「それもあるし、やっぱりお店を継いでほしいんだと思います。長男ですから」


 一つ目の謎は解けた。しかし……なぜユイチが成人誌に来たのか、の謎が解けていない。


「祐一は、十七歳で漫画家デビューしたんです」


 私はギョッとした。


「十七!?」

「少年漫画じゃ、十代のデビューが当たり前みたいで。ええと、なんて雑誌だったかしら……」

「ちょ、ちょっと待ってください」


 私は、慌てて、レジ横のラックへと向かった。ラックから少年誌を三冊抜き出し、席に戻る。


「この中にありますか?」


 彼女は三冊に視線をやって、


「ああ、これです」


 日本で一番売れている雑誌を指さした。私は、誌名を見て驚く。


「うそ、少年ジャリオン?」


 出版大手の高徳社が出している、人気雑誌ではないか。


「編集さんが菓子折りもってあいさつにきて、祐一君にはすごい才能があるんです、ぜひうちで描いてもらいたいんです、って言われて……でも、うちのひとは猛反対しました」

「まだ高校生だったでしょうしね」

「ええ。祐一は高校に通いながら漫画を描いていました。十八歳の春に連載を持つことになって、大学には行かずに、漫画家一本でやっていくって」


 それで、家出のようにして市川家を出たのだという。


「祐一は今、どんな漫画を描いてるんですか?」


 私はためらったが、佳乃が真剣な眼差しを向けてくるので、彼女に名刺を差し出した。佳乃は名刺に視線を落とす。


「月刊金瓶梅?」

「端的に言うと……エロマンガです」

「えろまんが?」


 佳乃のきょとんとした顔は、ユイチによく似ていた。


「つまり、成人誌……R指定本です」


 佳乃はぴんときていないようだった。上品な和菓子屋の女将さんが、成人誌に詳しかったらいやだけど。


「コンビニで見かけたことはありませんか? 成人指定マークが入っている雑誌です。大人しか読めない雑誌ですし、全年齢に比べて部数が下がります。単行本も少年誌のようにたくさん出ません」


 私には、常々疑問に思っていることがあった。マンガ雑誌に移転して、一番驚いたのが原稿料の安さだ。聞けば、成人漫画は普通の漫画以上に買いたたかれているらしい。


「はっきり言って、成人マンガの原稿料だけでマンションを買うなんて、ほとんど不可能に近いと思うんですが……」


 少年誌時代に稼いだお金だろうか?


「詳しくはわかりませんが、マンションを買うまでは、その編集さんにお世話になってたみたいです。もしかしたらその人が、頭金を出したのかもしれない」


 嘘のような話だが、金の卵を育てるには、それくらいの投資が必要なのかもしれない。


「すごいですね……」


 しかし単純に考えれば、少年誌では売れなくなったから成人誌に来た、と考えるのが普通だ。ユイチは結局、「金の卵」ではなかったということだろうか?


「その編集さん……たしか、西矢さんって言ったけど、今どうしてらっしゃるのかしら」


 私は、口に運ぼうとしたコーヒーカップをぴたりと止めた。


「西矢?」


 カップを置いて、矢継ぎ早に尋ねる。


「もしかして、柄が悪くて帽子をかぶってて、扇子をもってませんでした?」

「ええ。もしかして、お知りあい?」


 まさか、西矢が高徳社の編集者だった? それがなぜ、ライバル会社(白英社)の成人誌編集長をやっているのだ。単なる異動? そういえば、西矢はユイチのペンネームをすんなり教えてはくれなかった。謎は深まるばかりだ。


 時計を見ると、もうすぐ十五時だ。十五時半から、真下との打ち合わせがある。


「すいません、打ち合わせがあるので失礼します」

「またお店に来てね、東大寺さん。ユイチも一緒に」


 佳乃のすがるような目に、私は胸を突かれた。編集者は友達でも家族でもない。でも彼女は、ユイチの肉親なのだ。彼を心から心配している。


「はい……」


 思わずそう答えてしまう。私の返事を聞いて、佳乃はほっと息を吐いた。私は卓上に500円を置き、その場を後にした。



 ★


「東大寺さん?」


 声をかけられ、私ははっとした。目の前には、不思議そうな顔の真下左門がいる。編集部に戻った私は、ブースで打ち合わせをしていた。


「は、はい、なんでしょう」

「大丈夫ですか? なんだかぼうっとしてるけど」


私はいえ、と答えて、


「そうだ、左門先生。先生の自宅はどんな感じですか?」

「僕の自宅? 気になります?」

「ええ、私の担当作家にマンション住まいの人がいるんですが、ここの原稿料でマンションを買うなんて、普通に考えて無理ですよね」

「それいいます?」


 左門が笑った。


「なんならうちに来ます? いい縄があるんですけど」

「縄?」


 彼はやけに爽やかな口調で言う。


「似合うと思うなあ、東大寺さんに」


 ほめているのか、それは? というか、縄が似合うって意味がわからない。


「火縄銃なら興味ありますけど」

「はは、そんなものが置いてあるの、博物館くらいですよ」


 面白いな、東大寺さん。左門はそう言って、細長い花瓶にビニールひもを縛り付けている。


「いいですね、この花瓶。この曲線美、縛るといっそう映えます」


 しかもそれをうっとり見ている。なぜ花瓶を縛って悦に入っているのだろう。漫画家はおかしな人が多いのだろうか。そのとき、バン、と部屋の戸が開いた。


「おーい、返本だ、返本!」


 段ボールを抱えた西矢が、部屋に入って来た。


「北野、断裁工場行ってきて」

「ういーす」


 北野が段ボールに手を伸ばす前に、左門がすっと近づいて行った。意味深な笑みを浮かべ、


「手伝いましょうか。縛るのは得意なんです」

「いかがわしんだよなあ、左門が言うとよお。つか、縛らねえから」


 西矢は首をこきこき鳴らし、


「まーた取次とりつぎに嫌味言われたよ」


 取次とは、書店と出版社の間を取り持つ会社のことである。最近では出版業界全体が厳しくなっているために、単行本などの初版の数字を見誤ると、廃刊や休刊の危機があるのだ。西矢はパラパラと単行本をめくった。


「ユイチの『にじいろの教室』。面白いんだけどなあ」

「そのユイチ先生って、もしかして昔、週刊ジャリオンで描いてました?」


 左門の言葉に、私はぴくりと反応した。


「『ダブルスコア』でしたっけ。アニメ化して、かなりのヒットでしたよね」


 西矢は何も言わずに、単行本をめくっている。私は彼を伺った。


「編集長……」


 彼は単行本を閉じて、


「あ、そうだ、今日ナイトレースだった」


 ダンボールに戻す。そのまま編集部を出て行った。私は西矢の後を追い、廊下を足早に歩いた。西矢はこちらを一顧だにせず、エレベーターに乗り込む。


「編集長!」


 私は閉まりかけたドアに、がっ、と足を入れる。少し開いたドアをこじ開けて、中に入った。西矢がびっくりした顔でこちらを見ている。


「あぶねーだろ、まつり。何してんだ」


 私は仁王立ちし、西矢を見据えた。


「名前で呼んでもいいので、話してください、ユイチ先生のこと」


 彼は壁にもたれ、


「じゃあユイチが描いた真田幸村くれよ」

「いやです」


 私が即答したら、西矢がなんだよ、と唇を尖らせた。


「俺になんの得もねーじゃん」

 私はその意見を無視した。

「ユイチ先生の、お母さん。ご存知ですよね」


 西矢はうなずいて、


「美人だよな、ユイチのかーちゃん」

「西矢さんが、ユイチ先生を取り立てたって聞きました」

「違う。俺は何にもしてない。ユイチの実力」


 エレベーターが下降していくと共に、階数表示ランプがぱっ、ぱっ、と移っていく。


「なんでユイチ先生は、少年漫画を描かなくなったんですか?」


 私の問いに、西矢が瞳を揺らした。


「……俺が話したって、あいつには言うなよ」


 頷くと、西矢が話し始めた。


「ユイチは、春海ゆうって名前で十七才でデビューした。二十一才の時に少年漫画雑誌から青年漫画雑誌に移って──で、殺された」

「……殺された?」


 西矢は横目でこちらを見た。


「ツブされたんだよ、編集者に」

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