君のネームは?(3)
「さっ、座ってください、先生」
私は、洗面所の椅子にユイチを座らせた。ユイチは長い手足をもてあまして、居心地悪げにしている。私は背後に立ち、鏡の中を覗き込んだ。
「先生、今まで髪はどうしてたんですか?」
「……自分で切ってた」
「前髪は? 長すぎますよ」
「これは、バリア」
なんですか、バリアって。意味不明だ。
「鬱陶しいから切りましょう!」
「……」
「前髪を切るだけで印象が違うと思うんですよ〜」
私はコンビニで買ってきた、カットバサミを手にして言う。髪が落ちてもいいように新聞紙を床に敷き、ゴミ袋を切り抜いて、彼の首にかける。
ユイチに顔を寄せ、前髪を摘んだ。ユイチはびく、と肩を揺らし、ふい、と顔をそらす。
「ちょっと先生、動かないでください」
「……近いと思う」
「そりゃ、髪切るんだから仕方ないですよ。危ないから動かないで」
髪を切る間中、ユイチは身体をきゅっと縮めていた。そんなに前髪が短くなるのが嫌なんだろうか。
髪を切っているうちに、彼のまつ毛が意外と長いことに気づいた。私と目が合うなり、唇が震えて、顔がじわっと赤くなる。さすがピュアエロ漫画家。目が合うだけで赤面なんて。手を繋いだら、死んじゃうんじゃなかろうか。
やっと眉あたりまで髪を切り終えて、ユイチを眺める。だいぶすっきりした。
へえ、こういう顔なんだ。私はユイチの顔をしげしげと見た。ヒョロイけど、それも相まって結構今時の男子っぽい顔つきだ。前髪がなくて落ち着かないのか、視線をさまよわせている。
「似合いますよ、先生。男前です!」
私はユイチを褒め称える。ユイチはぴくりと肩を揺らし、こちらを見上げた。
「……幸村より?」
「あ、それはないです」
私がきっぱり言い放つと、ユイチがまた視線を下げた。なんだろう、幸村さまに興味を持ち始めたのだろうか。
「あとは服ですね。つなぎ以外に持ってます?」
「ない」
ユイチは下を向いたまま答える。そんなわけがないだろう。
「ちょっとクローゼットを見てもいいですか?」
私は洗面所を出て、部屋へ向かった。クローゼットを開けようとしたら、後ろから伸びてきた腕がそれを阻む。
「ん?」
「開けないで」
視線をあげると、ユイチが無表情でこちらを見下ろしていた。背が高いので、見下ろされると迫力があった。私はちょっとびくりとする。
「わ、わかりましたよ」
身を引くと、ユイチがクローゼットの戸を少しだけ開けた。
「ちょっと、待ってて」
そう言い残し、するりと中に入る。身体の厚みが薄いので、わずかな隙間から入るのも容易だった。この中に、いったい何が……。私はごくりと唾を飲み、クローゼットの戸をわずかに引いた。再びユイチがぬっ、と顔を出す。
「ひっ!」
「開けないで」
「わ、わかりました」
私はユイチに背を向けてみせた。背後でぱさっ、というきぬ擦れの音がする。あ、着替えてるんだ。しばらくして、ユイチが声をかけてきた。
「もう、いいよ」
振り向くと、Tシャツにジーンズ姿のユイチが立っていた。目が合うと、気まずそうにそらす。私は思わず感嘆した。
「先生!」
彼に駆け寄り、手を握りしめた。目を輝かせ、
「普通の服も持ってるじゃないですか! それなら職質されませんよ」
「……」
ユイチはじっと握られた手を見ている。
「先生?」
そのままぐらり、と身体をふらつかせた。
「先生──!」
★
氷が触れ合って、涼やかな音を立てる。十分後、私は、ベッドに横たわったユイチをパタパタと扇いでいた。
「大丈夫ですか? ユイチ先生」
「……うん」
ユイチはアイスノンを額に当て、スポーツ飲料を口にしている。私は、電子時計についている温度を伺った。
「部屋の温度二十四度だし……湿度が高いせいですかね?」
私が首を傾げていたら、ユイチがぼそりと呟いた。
「いきなり手、握るから」
「はい?」
「なんでもない」
かすかに首筋が赤い。
「この辺も冷やしたほうがよくないですか?」
私は、ユイチの首筋に触れようとした。すっ、と上がったユイチの手が、私の手を阻む。
「いいから」
「え?」
「デートとか、無理だから。したことないし。外、出られないし」
ゴミ出しとかどうしてるんだろう。
「先生、どうして外に出られなくなったですか?」
私の問いに、その場の空気がぴたり、と固まった気がした。ユイチが黙り込む。こわばった彼の全身から、けして話はしないという強い意思が感じられた。
──ユイチは繊細だからね──西矢の言葉が蘇る。私はおそらく、彼の琴線に触れてしまったのだ。
部屋に落ちた沈黙を破るように、スマホが鳴り響いた。私はユイチを気にしつつ、電話に出る。
「はい、東大寺です」
「あ、まつり? いまユイチんとこ?」
西矢の声だ。
「ええ、そうですが……」
「ちょっと編集部に戻ってきてくれねーかな」
「はい」
私は通話を切り、
「先生、私呼ばれたのでちょっと行ってきます」
ユイチは返事をしない。俯いたままだ。私は内心ため息をついて、そのまま部屋を出た。
編集部へ戻ると、西矢が私をちょいちょいと手招いた。
「まつり、こっちこっち」
近づいていくと、彼は西矢の側に立つ青年へ視線を向けた。誰だろう、この人。西矢は私を指差し、
「こいつ東大寺まつり。T大卒で、しかも真田専門だから。なんでも聞いて」
「え?」
「時代考証についてなんですが……」
尋ねられたことに答えると、青年が関心した。
「なるほど。本当に専門なんですね」
「だろ? ってわけで、こいつはおまえの担当な」
「はい?」
私はポカンとする。西矢は頼んだゾォ、と言い、競馬新聞片手に歩いていった。あのおっさん、まさかまた仕事中に競馬場へ行く気なのだろうか。
「真下左門です。よろしく」
青年はそう言って名刺を差し出した。漫画家でも名刺って持ってるのね。私はそう思う。というか、名前に真田の真が入ってるじゃない、羨ましい。こちらも名刺を差し出す。
「東大寺まつりです」
「西矢さんにはコミケで声をかけてもらって。真田に関連した漫画を描こうと思ってるんです」
左門が差し出してきたネームを、私は受け取る。
「じゃあ、こちらにどうぞ」
私は左門を、パーテーションで区切られたブースへ案内した。ネームを読み始めた私を、彼はにこにこ笑いながら見ている。ユイチとはまるでタイプが違う。漫画家も色々なのね。おっと、いけない。仕事よ仕事。私は雑念を振り払い、ネームに集中する。
「……」
「どうです?」
ネームを読み終えた私は、ぷるぷる手を震わせ、ばん、と机を叩いた。
「あなた、ふざけてるのっ!?」
「はい?」
「幸村さまを女にするなんて愚弄してるわ!」
私はネームを片手に憤慨した。左門は困り顔で、
「でも……編集長は面白いって言ってくれましたが……」
「あのおっさんはエロけりゃなんだっていいのよ、たぶん」
しかもこんな爽やかな顔をしておいて、内容が結構えぐい。
「時代考証うんぬんじゃないっ! 幸村さまは男なの! そこが素晴らしいの!」
「エロはファンタジーですから」
「は? なにをたわけたことを。ファンタジーがやりたいなら、真田以外でやりなさい」
左門は目を瞬いたのち、噴き出した。
「なにを笑ってるわけ」
「す、すいません。真田以外ならいいんだな、って思って」
「そう。真田一族は特別なの……だからなにがおかしいのよっ!」
左門はまだ肩を震わせている。
「あと、幸村の幼名は源次郎だから。源二郎じゃないから。間違えないで」
「了解です。他に直すところはありますか?」
「……ないわよ」
腹がたつが、幸村が女である以外史実からそう反しているわけでもなく、話の整合性は取れている。ネームながら絵はしっかり描かれていて、刀の差し方や作法も間違っていない。仕方ない。どうせ読み切りだ。エロ漫画の多くは読み切りであり、連載化しても短編形式なことが多い。何よりこれは仕事だ。個人的な好みは関係ない……。私は断腸の思いで告げた。
「下書きに入って」
「ありがとうございます」
ネームを回収しようとした左門を見据え、
「許したわけじゃないわ。GOを出すのは仕事だからよ。東大寺まつり個人としては、女体化はNGだから!」
「はい」
左門はくすりと笑った。
★
「いやあ、面白かった。またお話を聞かせてください」
打ち合わせが終わり、左門が片手を上げ、颯爽と帰って行く。なんなのだ、あの無駄な爽やかさは。とてもエロ漫画家には見えない。まあ、それを言い出したらユイチもなのだが。
「面白いだろ、あいつ」
振り向くと、西矢がコーヒーを差し出してきた。私は会釈してそれを受け取る。
「少なくとも、エロ漫画家には見えませんね」
「ま、本業は他にあるしな。同人誌即売会でゲットしたんだ」
「ゲットって、物じゃないんですから」
西矢はデスクにもたれて、
「悪いな、ユイチんとこいたのに呼び戻して」
「いえ、仕事ですから」
「なんかあったの?」
「はい?」
「ピリピリしてんじゃん」
真田幸村を勝手に女にされた件もそうだが……。やはり、ユイチのことが引っかかっているのだろう。私は、先ほどの話をした。西矢はふんふん頷き、
「なるほどねえ」
「ちょっと慣れてきた気がしたんですが」
「外に出る、か……」
「編集長は、あのままでいいと思いますか?」
「俺は漫画描いてくれりゃそれでいいよ」
西矢は首をコキコキ鳴らした。随分冷たい物言いではないか。私がそう思っていたら、西矢が口を開いた。
「おまえ言ったじゃん。編集者は、漫画家の友達でもお母さんでもねえから」
確かにそうだ。私には、ユイチに干渉する義務も権利もない。だけど、今の状態がいいとはとても思えない。手を出したら状況が悪化するかもしれないから、何もしないほうがいいと言うのだろうか? 西矢は私の表情を見て、ふ、と笑った。
「でもよ、ユイチは繊細すぎるから、まつりみたいにガサツ、いや大雑把なほうが合うのかもしんねえな」
「それ、フォローですか?」
というか、この男に雑だとか言われたくないのだが。褒めてるんだぜ、と西矢は言った。俺にはユイチの傷に踏み込むようなことはできない。彼はそう続ける。
私は真田の家紋である六文銭を見つめた。大阪夏の陣で暑さにも負けずに戦った兵たち。あの戦いでは、豊臣方も徳川方も、自分の勝ちを信じて戦ったのだ。
「戦う気がなければ、外に出ても無駄ですよね」
「戦う気か」
西矢が顎に手を当てた。
「ユイチが自分で外に出たい、ってことでもありゃ別だけどな」
「自分から……」
そんなことあるのだろうか、あのユイチ先生が、自分の意思で出て来るなんて。ふと、声のトーンを変えた西谷が言った。
「あ、そうだ。まつり、歴女だろ。いいものがあんだよ」
「その歴女っていい方は、浮ついていて嫌いなんですが」
「まあまあ。これ、イベント会社の人にもらったんだ」
彼が差し出したものを見て、私ははっとした。思わずそれをひったくる。
「これっ……! 刀宝展のチケットじゃないですか!」
「うん。知ってる?」
「行きたかったんです! ありがとうございます!」
チケットを胸に抱いて興奮気味に言うと、西矢がふっ、と笑った。
「これに免じて、左門のことは許してやれよ」
私はきっぱりと言った。
「それは許しません」
★
翌日曜日、私は刀宝店が行われる博物館に来ていた。編集は休みが不規則なので、日曜なのはたまたまだ。昨今人気の「刀らんぶる」という名刀を擬人化したゲームの影響なのか、館内はすごい人混みだ。そして、やはり一番人気である行平には、立ち止まって鑑賞するのは一人三分まで、という制限がついていた。
私は最後尾に並んで、展示が見られるのをそわそわと待つ。やっとのことで目の前まできて、その素晴らしさに見惚れた。ガラスケースに収められているのは、豊後国行平である。刀身は二尺五寸。細身でそりが高く、波面に浮かぶ三本の線が美しい。国宝にも指定されている超名刀だ。
行平は美しいだけではない。関ケ原の戦いの前身となった、丹後攻めにまつわるものなのである。
丹後をおさめていた幽斎は、石田三成の大軍勢に取り囲まれ、死を覚悟する。
しかし、周囲は幽斎を和睦させようと躍起になった。「古今伝授」を守るためである。「古今和歌集」には、国の根幹をなす真意が含まれており、それは口伝でのみ継承されていた。その継承を「古今伝授」と呼ぶのである。それを知るのは、細川幽斎ただ一人だけだった。
「いにしえも今も変わらぬ世の中に心の種を残す言の葉」。お上からの使者に対し、幽斎がよんだ句だ。しかし結局、お上の意思にそむけなかった幽斎は、石田三成との和睦を選ぶ。そうして、古今和歌集と行平は後世に残った。
私は西軍派だが、武士の志をまげて和睦をせねばならなかった幽斎の気持ちは、痛いくらいにわかる。
「ああ〜やっぱり素敵だわ」
残念ながら写真は撮ることができないようだ。すぐに時間がきてしまい、視界から刀が消える。
忘れないうちに、この感動を今すぐ誰かに伝えたい。私はスマホを握りしめた。電話をしてもいいスペースに向かい、電話帳を眺める。大学時代以来、連絡をとっていない人ばかりだ。月刊歴史編集長(元)の、井の頭さんに電話してみようか。
ああでも、出勤日かもしれないし。ふと、「ユイチ先生」という名前が目に入った。そういえば、登録名を「モジャ男」から変更したのだった。通話ボタンを押すと、コール音が響く。
プルルル……。カチャッ。
「はい」
ユイチの声だ。
「お疲れ様です。東大寺まつりです」
「こんにちは」
「私いま、博物館に来てるんですが」
「……博物館」
「関ヶ原で使われた名刀が展示されているんです」
「面白い?」
「はい。素晴らしいです」
私は、ふと思いついて言ってみた。
「ユイチ先生も来ませんか?」
ユイチはしばらく沈黙した。
「先生?」
「刀に、興味ないんで」
彼はそれに、と付け加える。
「友達とか、彼氏とか、いるだろうから」
「いませんよ?」
「ひとりで、博物館?」
「はい。楽しいですよ」
「……昔から、そんな感じ?」
そんな感じとはなんだろうか。聞き返そうとしたら、ユイチがこう言った。
「灯台さんは、ひとりでも平気なんだ」
強いね。彼は呟いた。
「ユイチ先生だって、一人暮らしで、一人で漫画描いているじゃないですか」
「それは、弱いからだよ。誰かといるのが、怖いから」
私には、ユイチの気持ちはわからない。彼のように繊細ではないから。
「……昔、サークル仲間と博物館に行ったんです。私、興奮してみんなとはぐれて」
他の四人は一緒にいて、楽しそうに展示を見ていた。私はそれを見ても、なんとも思わなかったのだ。展示の方が大切だった。
「今も、電話する人がいなくて、先生にかけてしまいました」
ユイチは何も言わない。ただ、電話ごしにカリカリという音が聞こえていた。ああ、描いてるんだな、日曜日でも。確かにユイチは面倒な作家ではあるのだろう。魂も肉体も、まるで健全じゃない。繊細であるがゆえに弱い。でも。
「先生は、偉いですよ」
上から目線だろうか、この言い方は。 でも、本当にそう思う。面白い漫画を描きさえすれば、あとはなんだっていい。編集長はそう言った。私には、漫画の面白さというものをまだ理解しきれていない。
しかし、望まれて漫画を描けるだけでも、ユイチはすごいのだ。自分の意思を曲げ、生き残って古今伝授をした幽斎と同じように。
「……電池がない」
「へ?」
「切るね」
その直後、ぶつり、と通話が途切れた。プーッ、プーッ、という断続音を聞きながら、私はつぶやく。
「……褒めて損した」
いくら私でも、通話の途中で電話を切られたらむっとする。まあいい、鑑賞の続きをしよう。一人でだって、十分楽しめるのだから。私はスマホをしまい、展示へと戻った。
展示を見終わった私は、土産物コーナーにいた。買い求める人々で混雑するブースを、私はなんとか進む。一番人気があるのは、刀の形をした小さなキーホルダーだ。ユイチに何かお土産を買って行こうかな。漫画の参考になるような……。
あ、これなんかいいかも。風景画の絵葉書を買おうか迷っていたら、誰かに肩を叩かれた。
「?」
振り向くと、帽子を目深にかぶった青年が立っていた。首筋を見ると、ひどく汗をかいているのがわかる。彼はぼそりと、
「……遠い」
「ゆ……」
名前を呼ぶ前に、彼の身体ががくりと崩れ落ちた。
「ユイチ先生!」
私は慌てて彼を支える。こちらに気づいた販売員が、素早く近寄ってきた。
「お客様、大丈夫ですか?」
私が口を開こうとしたら、ユイチがぎゅっ、と服を握りしめてきた。こちらを見つめ、小さくかぶりをふる。平気だから、おおごとにしないでくれというサインだ。
「だ、大丈夫です。ちょっと具合が悪いだけみたいだから。休むところ、どこかにありますか?」
「あちらに休憩スペースがございます」
促された場所には、ソファーが並んでいた。私はユイチを支え、そちらへ移動する。ユイチをソファに寝かせて、自販機でスポーツ飲料を買い、彼の元へ戻った。
「大丈夫ですか? 先生」
ユイチはスポーツ飲料を受け取り、ぼそりと呟いた。
「……遠い」
「無理にこなくてもよかったのに」
ユイチはごくごくとペットボトルを飲み干し、手の甲で唇をぬぐった。半袖から覗いた腕が、あまりに細くて白いので心配になる。
「来るつもり、なかった。ネーム終わってないし、暑いし」
それに、とユイチがつぶやく。
「ドアがすごく重く感じて……」
彼は自身の手のひらを見下ろした。ユイチの手には、いくつものペンだこがある。
「開けるのに、30分かかって。手が震えて。電車に乗るのも怖かった。人、たくさんいるし、ぶつかって、もたもたして、いやな顔されて」
ユイチは手の甲を額に当てる。
「行けないと思った。行っても、灯台さんがもういないんじゃ、って思った」
「じゃあ、どうして」
「俺も、灯台さんの好きなもの見たかったから」
「先生……」
彼はかすかに赤くなった顔を、手のひらで隠した。
「俺……すごいダサい」
私はハンカチを取り出し、ユイチの額をぬぐった。
「うれしいです」
微笑んだら、彼が目を瞬いた。
「先生も、歴史に興味が出たんですね!」
「……」
ユイチはうん、とは言わなかった。ただ、少し落胆したような顔をしている。私はうきうきとパンフレットを開く。
「この展覧会の目玉はですね、豊後国行平なんです」
「ぶんごのくに?」
「そうです。細川幽斎を知ってますか?」
「知らない」
「丹後出身の戦国武将で、二万以上の大軍勢に囲まれながらも、古今伝授をなしとげた人物なんです」
「こきんでんじゅ?」
私はユイチに、行平の由来について語った。ユイチは横たわったまま、じっと私の話を聞いていた。
翌日、出勤した私は、おはようございます、と高らかに挨拶した。西矢がこちらに視線を向けて来る。
「なんだよ、ご機嫌だな、まつり」
「べつにそんなことありませんよ?」
私は鼻歌を歌いながらコピーをしていた。色々と雑事をこなし、時計を見ると、もう三時だ。
「あ、そろそろユイチ先生のお宅に行かなきゃ」
私は原稿を取りに、ユイチの自宅へ向かった。エントランスに、ユイチがいるのが見える。買い物でもしてきたのだろうか?
「先生……」
声をかけようとした私は、彼のそばにもう一人誰かがいるのに気づいた。着物姿の、きれいな女性。あれは、「春海堂」の女将だ。
思いつめたような顔で、ユイチにすがりつき、何かを言っている。ユイチはただ揺さぶられるがままになっていた。やがて、彼女がユイチに抱き着いたので、私はぎょっとした。思わずばっ、と柱の後ろに隠れる。
まさかあの二人……ふ、不倫!? どくどく心臓を鳴らしながら伺うと、ユイチがこちらへやってくるのが見えた。
「えっ?」
彼は私の腕を掴み、グイグイと引っ張る。私はユイチに腕を引かれるまま歩いて行った。ちょっと先生。そう声をかけても、ユイチは反応しない。
「祐一!」
佳乃が悲鳴のような声をあげる。それに重なるように、オートロックがかしゃん、と音を立てた。