君のネームは?(1)
私が「月刊歴史」から「金瓶梅」へ異動になって三週間。季節はすっかり梅雨時だ。窓ガラスをたたく雨粒は、室内にも湿りけをもたらす。雑誌や本を扱う我々には嫌な季節だ。
そんな時の強い味方は、除湿機だ。部屋の隅で、さっきからゴォォ……。と低い唸り声をあげている。
編集部というものは、基本的にフレックスである。一応九時に出勤ということになっているけど、泊まり込みをした編集部員が、午後からのっそり起きだしてくることもある。現在、午後の「月刊金瓶梅」編集部。コンビニパンを食べながら電話番をしていた私は、「ぐーるぐる」のウインドウを開き、検索窓にカーソルを合わせた。
「『市川祐一 漫画家』っと……」
検索ボタンをクリックすると、ぱっ、と検索結果が表示された。似た名前の漫画家はいるが、ユイチの絵柄ではない。ユイチ、でも検索してみたが、こちらはエロマンガの名前しか出なかった。
「出ないな。本名じゃないのかも」
あとで編集長に聞こう。私はそう思いながら、メロンパンを食べた。検索をかけて行くうちに、気になるワードが目に入ったのでクリックする。
「関ヶ原で使われた名刀が展示……!? 行きたい!」
メモを取っていると、休憩から戻ってきた南澤が声をかけてきた。
「東大寺さん、編集会議するから、資料コピーしてくれる?」
「はい、わかりました」
私は急いでメモを書き終えて、USBを受け取った。頭の中は、まだ見ぬ刀でいっぱいだ。ユイチのペンネームについては、すっかり頭から飛んでいた。
休憩時間が終わり、午後一時になると、会議室にぞろぞろと人が集まってきた。全員「金瓶梅」の編集者部員だ。編集会議とは、単行本の発行部数や連載枠について話し合う会議のことである。
「まつでん先生、連絡つかなくなったって?」
「多分、いつもの調子ならふらっと戻ってくるよ。でもまだ3日だからな。一応代原用意しとかないと」
編集者たちの会話に横槍を入れるが如く、西矢が扇子でぱんっ、と机を叩いた。
「おいおい、なに甘っちょろいこと言ってんだ。そんなやつはなあ、出禁だ出禁! いくらうまくっても、遅いやつはいらねーんだよ」
「でも編集長、彼は創刊からいますし」
「かんけーねえよ、情けは人のためならず!」
「意味が違うような」
南澤の言葉に対し、西矢はうるさそうに扇子を振った。
「代原は俺が当たっとく。十六ページな。はい次!」
私は返事をして立ち上がった。
「短期連載していたユイチ先生の「にじいろの教室」ですが、好評のため連載継続を希望します」
「ユイチ先生、調子いいよなー」
「次はデート回でしたっけ?」
「はい」
南澤の問いに、私は頷いた。
「たまに女性からファンレターきますよ。二人の関係が可愛いって」
「そうそう、他の作家よかエグ味が弱いから、エロマンガだって忘れそうになるもんな」
「それってどうなんすか」
隅っこにいた北野が呆れる。
「ユイチはピュアエロ漫画家なんだよ。なあ、まつり」
たしかにいろんな意味でピュアそうだ。
「ええ……って、名前で呼ばないでください」
西矢はしれっとした顔で明後日を見た。この男、何回言ってもスルーである。
「ユイチは単行本作業もあるから、スケジュールしっかりな」
「単行本か。すごいですよね」
南澤が感心する。成人漫画は、単行本化が難しいとされているのだ。
「固定ファンがついてんのかな」
「俺にはちょっと甘ったるいですかねー」
男性陣はわいわいと勝手なことを言っている。
私はスケジュール帳に「連載継続!」と書いた。
★
会議のあと、カップを片付けていたら、西矢のカップが目に入って、ペンネームのことを思い出す。片付けを終えた私は、部内にいる西矢に声をかけた。
「西矢編集長」
西矢は北野の頭を扇子ではたいている。
「おい、北野おめーよお、このアオリなんだよ」
「いいっしょ、「真夏のビーチでびちゃびちゃ♡」」
「センスがねえ」
「扇子だけに? いてっ」
西矢は再び北野の頭をはたいた。北野がいてっと声を上げる。
「大体、バイトにアオリとか考えさせないでくださいよっ」
「うるせーよタコ助。ほら、ない頭しぼって考えろ」
西矢はしっし、と北野を追い払い、私の方を向いた。
「おう、まつり。なんだよ」
私は、ユイチの少年誌時代のペンネームが知りたいのだと言った。西矢が上目遣いでこちらを見る。
「へー? ユイチのこと、きになるんだ」
「ええ、まあ……」
「ヒミツ」
「は?」
「ユイチに聞けば教えてくれるぜ。多分な」
私は怪訝な顔で西矢を見た。聞けばわかるのなら、なぜ秘密にする? 彼は扇子を私に突きつけ、
「ただ再三言っとくけど、ユイチは、というか漫画家はデリケートな生き物だからよ」
「むやみにつつくなってことですか?」
西矢は扇子を開き、その折り目を指でなぞった。
「ほら、恋愛って段階を追って盛り上がっていくものだろ。それと同じでさあ、関係が深まれば、自然とユイチが話す時がくるんじゃね?」
「なぜ恋愛に例えたのかよくわかりませんが……」
「そりゃおまえ、男と女だから」
私は、西矢の言わんとしていることに気づき、眉をひそめた。なにを言っているんだ、このひとは。というかニヤニヤしないでくれる?
「先生と私がどうにかなるなんて、天地がひっくり返ってもあり得ません」
「じゃあ賭ける? ユイチが描いた真田幸村!」
それが狙いか。幸村さまは渡さない。
「賭けません!」
「ちっ、引っかからなかったか」
なんともセコい編集長である。
「ネームチェック行ってきます!」
私はそう言って、さっさと歩き出した。
ユイチ先生の自宅へ行く前に、一つ手前の駅にある、春海堂へと向かう。自動ドアが開いて、ダンボールを手にした女性が出てきた。この店の女将、佳乃さんだ。こないだ名前を知ったばかりである。彼女は笑みを浮かべ、
「いらっしゃいませ、東大寺さん」
「こんにちは」
ユイチ先生と出会って半月ほど。彼への差し入れを購入している春海堂は、もうすっかり顔馴染みである。佳乃さんは一人で接客や雑事をこなしているらしく、富士額には汗がにじんでいた。私は段ボールを運ぶのを手伝うと進言したが、佳乃さんはお客さんにそんなことはさせられない、と固辞した。
「カステラですね?」
「はい」
佳乃さんはカステラを紙袋に入れて、私に手渡す。いつもごひいきにしていただき、ありがとうございます。丁寧に礼をする彼女に会釈を返し、店を出ようとしたら、自動ドアが開き、女の子が入ってきた。半袖のセーラー服を着た、お人形のように可愛らしい子だ。佳乃さんが女の子に声をかける。
「おかえり、柚月」
「ただいま。いらっしゃいませ」
柚月と呼ばれた女の子は私に笑顔を見せ、エプロンをつけてカウンターの中へ入る。中学生くらいだろうか。
「手伝い? 偉いね」
私が声をかけると、女の子は嬉しそうにはにかんだ。佳乃と柚月が並んでいると、美形親娘だなあと感じる。ふと、カウンターの後ろにかけられたのれんが揺れた。のれんを掻き分け、男性が出てくる。ギョロッとした目で、やけに迫力のある顔つきをしていた。
「柚月、仕込み手伝ってくんな」
「うん、お父さん」
父親? 佑月とは全然似ていない。というかものすごく目つきが悪い……。私がそんなことを思っていたら、父親の目がこちらを向いた。ぎくりとしたら、彼がニコッと笑う。
「いらっしゃいませえ」
「あ、は、はい」
覗いた八重歯が、ちょっと可愛らしい。顔は怖いが、接客業だけあって愛想はいいようだ。会釈し直すと、父親は再び奥へ引っ込んだ。女将は、紙袋を渡しながらこっそり囁く。
「うちの人顔は怖いけど、腕は確かなんです」
私は、カウンターからふい、と視線をあげた。壁際には、数々の賞状が並んでいる。全国和菓子コンクール金賞、和菓子協会認定店……。内閣総理大臣賞……。
「すごいですね」
「カステラ以外も美味しいですから、食べてみてくださいね」
私は苦笑して、
「実はこれ、漫画家さんへの差し入れなんです。その人、ここのカステラがないとやる気が出なくって」
女将さんが目を瞬いた。
「漫画家さん? じゃあ、東大寺さんは編集者さんなんですか」
「ええ。まだ漫画には詳しくないんですが」
「すごいわ。なんて漫画を担当されてるの?」
私はタイトルを言おうとして、口を閉じた。エロマンガだし、この上品な女将さんには言いづらい。
「あー、えっと、ちょっと特殊な漫画で。あんまり女性向けじゃないというか」
「あら、そうなんですか。気になるわ」
「ま、また来ますね!」
私はせかせかと言い、紙袋を片手に店を出た。
★
ユイチのネーム用紙は、A4サイズの紙を左右に区切り、枠線が描かれたものだ。彼はテンプレートをつくり、パソコンに入れている。そして、パソコン上で描いたネームを印刷し、私に渡すのだ。
ユイチのネームは、実際の原稿とは比べ物にならないくらいラフな絵柄だ。ネームの密度は人それぞれで、びっしり描き込む人もいれば、棒人間と台詞だけという人もいる。ネームを読むには技術が必要で、私は異動当初、ネームを読み込む訓練した。
ユイチの場合、ネームを拡大したものをトレースし、下書きに使うのだという。だからユイチのネームは、構図やコマ割りが出来上がりのイメージそのままだ。
彼は原稿をフルデジタルで描いている。私は印刷したものを読み、デジタルデータを入稿するのだ。
私はネームをめくりつつ──さっきセーラー服の女の子を見たからだろうか、罪悪感を覚えていた。ユイチが描いている「にじいろの教室」は、教師と生徒の物語なのだ。正直倫理的にどうかとは思うが、ヒロインの表情には引き込まれるものがある。Rシーンを見るのに、慣れてきたのがちょっといやだ。
ユイチはカステラを両手に持ち、二個食いしている。相変わらず欠食児童みたいな食べ方だ。膝にボロボロこぼしてるし。というか、この人、ちゃんと他のもの食べてるのかしら。私はネームから目を離し、
「ユイチ先生って、普段なに食べてるんですか?」
ユイチは黙って立ち上がり、台所へペタペタ歩いていく。流しの下の戸を開け、それから、ちょいちょい私を手招いた。私は彼に近づいていき、戸の中身を覗き込む。中には大量のレトルト食品があった。私はうわあ、と声を上げる。彼曰く、カップラーメン、インスタント食品、冷凍食品が三種の神器らしい。絵に描いたような「不健康な生活」だ。こういう人が成人病になって、将来寝たきりになったりするのではないか。
「もっとバランスのいい食事をしたほうがいいですよ。一汁三菜と言われているように、ご飯と汁物、三品を食べ、三十品目をとるようにしないと」
「さんじゅっひんもく?」
ユイチは未知の言葉を聞いたような反応をした。家庭科で習ったでしょうが。
「あと、ちゃんと健康診断を受けてますか?」
ユイチはかぶりを振った。
「受けてない」
「ダメじゃないですか。申し込んでおくので受けてください」
ユイチは、こちらにちらっと視線を向けた。なに、その鬱陶しそうな顔は。といっても、前髪が長いから表情はよく見えないのだが。
「そんなことより、ネームは? オッケー?」
「それなんですけど……デート回ですよね、これ」
「うん。エロシーンが学校の中だけだとマンネリだし」
「舞台が遊園地なんですが、あんまり遊園地である意味が無い気がします」
「観覧車の中でのエロシーンが見どころ」
そりゃあ、エロマンガなんだから、エロシーンが最重要なのはわかってるんだが。……本来わかりたくないけど。
「でも、それまでのデートシーンが雑っていうか」
「だって、デートなんかしたことないし」
私はまじまじとユイチを見た。
「えっ?」
ユイチが私を見返し、灯台さんはあるの? と尋ねてくる。その邪気のなさに、私はなぜか虚勢を張ってしまう。
「私は……ありますよ」
デートなら高校時代一月だけ付き合った彼氏としたし、サークル内の男女で出かけたこともある。歴史サークルのみんなで出かけた先は、通常のデートスポットとしては渋すぎる国立博物館。真田関連の展示物に、ひたすら興奮していた記憶しかない。結果、みんなとはぐれて一人で楽しんだっけなあ。私が遠い目をしていたら、ユイチがひらひら手を動かした。
「起きてる?」
私はハッとして、咳払いをした。
「とにかく、もう少しデートの内容を詰めてください」
「……」
ユイチは不服げながら頷いた。ヘッドホンを装着し、パソコン画面に向かう。片膝を立てている。姿勢が悪いが、このポーズをするのは集中に入った証拠だ。私は荷物を持って立ち上がった。
「では、私はこれで」
ユイチがぽつりと呟く。
「春海堂」
「え?」
「女将、元気だった?」
私は、思わずユイチを振り返る。彼はこちらに背を向けたままだ。猫背な背中を眺めながら、
「お知り合いですか?」
ユイチはなぜか言い淀み、ちょっとね、と言った。なんにせよ、彼が漫画以外のことを口にするのは珍しい。
「ええ、お元気でしたよ。娘さんも、すごく可愛らしい子で」
「怖い顔のオヤジがいなかった?」
「はい、でも悪い人じゃなさそうでした」
私がそう言うと、ユイチは黙ってネームを描き始めた。なんなんだろう。首を傾げながら、玄関へ向かう。下駄箱の前に置かれたゴミ袋には、カップ麺やレトルトの袋が大量に捨てられていた。




