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レキジョの異動(4)

「ただいまー」


 ユイチ宅を出た私は、スーパーで買い物をすませたあと、誰もいない自宅アパートに帰宅する。ただいま、といったのは、なんとなくである。


 バスキッチン付きの八畳間には、ベッドとテーブル、あと本棚。棚は真田家関連の書籍が八割を占めている。どうせ寝て帰るだけの部屋なので、飾り立てる必要もない。私は、ビニール袋を手に台所へと向かった。そば粉を取り出し、そばがきをつくる。作り方は簡単。ボウルにそば粉を空け、ダマにならないように水と合わせて混ぜる。レンジで温め、乾燥させたら出来上がりだ。


 真田家は信州の出。そばがきがソウルフードなのだ。

 みそぎ(入浴)をすませた私は、完成したものをテーブルに並べた。「真田太平記」を傍らに置き、スーパーで買ったケーキとワインも一緒に置く。アロマキャンドルを灯し、手を合わせた。


「真田幸村さま、ご冥福をお祈りします」


 時刻は二十時。これから「真田太平記」を読みながら、幸村や兄の源三郎、父の昌幸の活躍に涙を流すのだ。ああ、素晴らしい夜だわ。私がページをめくろうとしたら、スマホが鳴り響いた。思わず舌打ちする。画面に表示されているのは「西矢」という名前だ。


「編集長……?」


 なによ、いまいい時なのに。私はスマホを耳に当てた。


「はい、東大寺です」

「あ、まつり? あのさ、今日ユイチに会っただろ」

「名前で呼ばないでください。……下書きを拝見しましたが?」

「さっき電話したらさー、途中で切れちゃって。様子も変だったし。なんか知らない?」


 私はワインを注ぎながら答える。


「さあ、知りませんけど」

「冷たいじゃん」

「私は彼の友達でもお母さんでもありませんから」

「だからってさあ」

「あの人、死んでもいいって言ったんです」

「……え?」

「漫画家はたくさんいるから、って」


 西矢が嘆息した。


「それ、まずいなあ」

「え?」

「あー、実はよ、ユイチは昔、ビルから飛び降りかけたんだよ」


 私は息を飲んだ。


「な、なんで……」

「オフレコだからな。つい二年前のことだ。漫画のことで煮詰まって、俺に電話してきた。あいつのマンションに行ったら屋上に座り込んでてさ……」

「まさか、漫画のことで死のうだなんて……」

「漫画家って、大抵ナイーブなんだよ。ナイーブだから、いいもんが作れる。自分の弱さを見せるのは、作品の中だけ。理想はそうでも、やっぱり上手くいかない時もある。だって、人間だから」


 生身の人間。私は、揺れるアルマキャンドルの光を見た。ユイチは、この光のように不安定で、でも今も火を灯しているのだ。


「あいつらを支えるのも、俺らの仕事だ。俺はそう思ってる」

「……」

「ま、おまえは漫画に興味ねーしな。俺、ちょっと行ってみるよ」

 私はワインを置いて、慌てて言う。

「あ、ま、待ってください。私が行きます!」

「え?」

「担当編集なので、一応」

「そう? じゃあよろしくな、まつり」

「名前で呼ばないでください」


 私はそう言って、電話を切った。


 ★


 今日は雲が出ているせいで、月が見えず足元が暗い。私は、ユイチが住む高層マンションに来ていた。闇にそびえるマンションは、影になっていてひどく暗い。入り口を抜け、エントランスで部屋番号を呼び出すが、応答がない。まさか本当に飛び降りたりとか……。私が心臓を鳴らしていたら、オートロックを解除する音が響いた。


「!」


 私は急いでドアを抜けて、エレベーターで8階へと向かう。上がっていく階数表示を見るのが、やけに焦れた。


「空いてる……」


 そうっとドアを開き、中へ入った。


「先生?」


 呼びかけながら奥へ向かう。カリカリカリ……シャカシャカ……暗い部屋に、何やら不気味な音が響いている。私はごくりと唾を飲んだ。雨の季節に怪談? 雨月物語でもあるまいし。薄暗い室内、デスクに丸みを帯びた背中が見えた。私はギョッとして叫ぶ。


「なにしてるんですか!」


 ユイチはびくりと肩を揺らし、振り返る。パソコンのブルーライトに照らされた彼は、驚いた顔をしている。ヘッドホンから、音楽がシャカシャカと漏れ聞こえていた。ユイチはおずおずと、


「……なにって、つぎのネーム」


 私はずかずかとユイチに近づいていき、デジタル用のペンを奪った。


「そんなのいいから、寝ててください!」

「でも、締め切りが」

「いいから寝るっ!」


 ユイチはまたびくりとして、のろのろとベッドへ向かった。またちらりとこちらを見るので、腰に手を当ててにらむ。彼は怯えたように肩をすくめ、足をよろめかせた。

 ふらついた彼を支えようとすると、ふい、と避けられた。


「触らないで」


 彼は小さな声で、


「うつるし……」


 なんなんだ、それは。私はイライラしながらユイチを引き寄せた。彼の身体はびっくりするほど軽い。


「大丈夫です。私、二十六年間風邪ひいたこと一度もないので!」


 ユイチは、長い前髪の向こう、目を瞬いた。


「ちから、強いね」

「先生が弱いんです。多分いま、地球上の成人男性で最弱ですよ」

「……」


 彼は肩を落として黙り込む。どうやら地味に傷ついたらしい。

 私はベッドにユイチを寝かせ、水を汲む。


「熱は? 測りましたか?」

「体温計ないから」


 私はちょっとためらった後、ユイチに顔を近づけた。髪から、ふわりと石鹸の匂いが香った。額をくっつけると、じわりと熱が伝わる。ユイチは銃を突き付けられたような顔で硬直している。


「結構熱いですね……薬はありますか」


 ユイチは身体をこわばらせたまま、ふる、とかぶりを振った。


「買ってきます」


 その場を離れようとしたら、くい、と服を引っ張られた。


「ここにいて」

「でも」

「寝てれば治るから、いて」


 私は黙って、ベッドのそばに腰掛けた。ユイチは私の服を握ったまま、


「なんで、来たの?」

「編集長から、電話がきまして」

「命令か」


 そりゃそうだよな、とユイチがつぶやいた。


「いえ、先生が気になったから来ました。担当ですから」


 彼はしばらく沈黙した。


「先生?」

「……部屋に、入れたくなかった」

「え?」

「知らない人だし。漫画、興味なさそうだな、って思って」


 ユイチはちゃんとわかってたんだ。私が漫画に熱意がないって。見抜いていたんだ。


「けど、そんな編集、今時珍しくもない。所詮エロマンガだし。だったら、口出ししてほしくない。そう思ったんだ」

「たしかに私、漫画には興味ありません」


 でも、とつけくわえる。


「あなたが何か困ったとき、助けになれたら、とは思います」

「俺、弱いよ。灯台さんが好きな、戦国武将とは違う。きっとイライラすると思う」


 だから無理しなくてもいいとユイチは言った。明日西矢に電話して、担当を戻してもらうと。ユイチは自分の弱さを知っている。だからって今のままでいいとは、私は思わない。


「私、強いひとが好きです。でも、歴史に出てくるのは強いひとばっかりじゃない。戦国時代にも、自分の弱さに負ける人はいました」

「たとえば?」

「秀吉の甥を知っていますか?」


 ユイチはかぶりを振った。


「彼の名前は豊臣秀次といいます。豊臣秀吉には、中々子供ができませんでした。やっとできた子供である鶴松も、幼くして病で死んでしまう。すると、甥の秀次に跡目の話が回ってきました」

「ラッキーだね」

「ええ。しかしそのあと、秀吉にまた子供が生まれる。秀次は出家し、27歳の若さで自殺するんです」

「……自殺? 戦国時代に?」

「はい。理由は不明ですが。きっと、普通の人だったんじゃないかと思います。秀吉に振り回され、状況や、のしかかる重荷に耐えきれなくなった」


 秀吉は、秀次の自殺に対して怒り狂い、彼の係累を皆殺しにした──。


「大変だね」


 ユイチはつぶやいた。


「たぶん……えらい人の甥なんて、嫌だったんだ。そういうの、重荷だったんだ」

「かもしれません」

「もし俺が編集者をやれって言われたら、無理だから」


 そうだ。もし私が漫画を描けと言われてもできないのと同じ。


「先生は漫画が描けるじゃないですか。それに、漫画が好きなんでしょう? 辛い時に描こうと思うくらいに」

「好きなのかな。わかんない。描かないと生活できないし、いろいろ、苦しい時もあったし、何やってんだって、思う時もある」


 ユイチは、熱い息を吐きながらつぶやいた。


「でも俺には、描く以外できないし」


 ユイチはちゃんと生きているんだ。まだ漫画が描ける。時刻を見たら、もう十時だった。


「先生、もう寝てください」


 ユイチは頷いて、


「灯台さんも、寝て」

「私は今日寝ません。幸村さまの追悼をしなくちゃいけないので」

「幸村さまって……」


 ユイチがかすかに笑った。笑うとちらりと八重歯が覗いて、彼がかなり若いのだということがわかった。


「やっぱり、強いひとが好きなんだ」

「ええ、幸村さまは日の本一の兵ですから」

「そっか……今日、幸村が死んだんだ……」


 彼はつぶやいたのち、寝息を立てはじめた。私は寝るまいと頑張ったけれど、睡魔には勝てなかった。幸村さまが死んだ日に、私は違う男と同じ部屋で寝てしまった……。


 翌朝目覚めると、ユイチはベッドにいなかった。私はぼうっと、枕のへこみを見つめた。カリカリという音が聞こえてくる。視線を動かすと、ユイチがデスクに向かっていた。私が立ち上がると、肩にかけられていた毛布がずり落ちる。いつのまに……。

 ユイチに近づくと、ヘッドホンからシャカシャカという音が聞こえてきた。私はヘッドホンをのけ、先生、熱は? と尋ねる。ユイチはびくりとして、下がった、とつぶやいた。


「ほんとですか?」

 私は、ユイチの額に手を伸ばした。ユイチはキャスターを転がし、すうっ、とそれを避ける。

「ちょ、なぜ避ける?」

 ユイチは原稿から目を離さずに、

「時間、いいの?」


 時計を見ると、もうすぐ九時だった。

「あ、やばい」

 編集者はフレックスだが、一応十時までには出社しなければ。私は慌てて荷物をまとめ、出口へ向かおうとした。すると、ユイチがくい、と服を引っ張ってくる。私は足を止め、どうかしたかと尋ねた。


「これ、あげる」


 私は、ユイチが差し出してきたものを受け取った。イラストボードに、赤い甲冑をまとった勇壮な男が描かれている。

「これって……」


 赤兜の武将だ。もしかして。私の視線を受けて、ユイチがぼそりとつぶやく。


「真田幸村」

「先生も幸村、好きなんですか?」

「べつに……灯台さんが、幸村を好きっていうから、ネットで甲冑とか調べて、描いてみた」

 ユイチはちら、とこちらを見て、

「いらないなら返して」

「いります!」


 私は慌てて、ボードを後ろ手にする。フィクションには興味ない。美化された幸村は別人だ。だけど、嬉しかった。ユイチが歩み寄ってくれたような気がしたのだ。もう一度しげしげとボードを眺める。さすがプロ、甲冑の飾り紐まで丁寧に描かれている。これはぜひ幸村コレクションに加えなければ。私はボードを抱きしめ、笑顔を浮かべた。


「ありがとうございます。きっと、幸村さまも喜んでます」

「……」


 ユイチは何も言わずに、再び原稿に向き直った。ヘッドホンのボリュームを上げたせいで、シャカシャカ音が強くなる。まだ熱が下がり切っていないのか、彼の首筋は燃えるように赤かった。真田の赤みたいだ。そう思った。



「おはようございます」


 翌朝、私は編集部に入って、さっそくユイチからもらったイラストボードを飾った。デスクに座ってそれを眺めていると、西矢が寄ってきた。彼は扇子をパタパタ動かし、


「よっす、まつり。ユイチどうだった?」

「少し熱がありましたが、寝たら元気になったみたいです」

「そっか。よかった」


 西矢はそう言って目を緩めた。彼はユイチを随分気にかけているようだ。ただの漫画家と編集者にしては、度を越えている気がする。若いからなのか、よほど才能を評価しているからなのか。ふと、彼が口にした、ユイチが屋上から飛び降りかけた、という言葉が蘇る。


「編集長、電話で言ってたことなんですが……」


 私が尋ねようとした瞬間、西矢がああっ、と叫んだ。


「ちょっ、それなに!?」


 彼が目を向けていたのは、幸村が描かれたボードだ。


「ユイチ先生が描いてくれて……」


 西矢はボードをひったくるようにして奪い、しげしげと見た。


「ユイチとは五年以上の付き合いになるけど、こんなのもらったことない!」


 口を尖らせて言う。おっさんにそんな顔をされても、困惑するしかない……。


「ぜったい女だからだって。ずるーい、俺もほしいしー!」

「なぜギャル口調?」


 会話を聞いていたらしい南澤が地味に突っ込む。西矢はスマホを取り出し、耳に当てた。


「もしもし、ユイチ!? なんで俺にはイラスト描いてくんないの!? おっぱいがないから!?」


 西矢は憮然とした表情でスマホをおろし、


「切れた」


 不機嫌な顔で、私に扇子を突きつける。


「まつり、バツとしてお茶淹れて!」

「意味がわからないし、名前で呼ばないでください」


 やりとりを見ていた南澤がつぶやいた。


「平和だなあ……」


 いかにおかしい人でも、一応編集長命令だ。私は給湯室に向かい、お湯を沸かした。西矢のカップを手にしようとして、動きを止める。カップには、女の子のイラストが描かれている。知らないキャラクターだが、どこかで見たような絵柄だ。


「あ、もしかして……」


 このカップに描かれたイラスト、ユイチが描いたものではないだろうか。お茶を淹れた私は、まだイラストを見ている西矢にカップを差し出す。西矢は、まだ未練がましくイラストボードを見ていた。


「なあ、このイラストくれよ。二千円くらいなら出すし」


 私はその台詞をスルーした。


「編集長、このカップのイラスト、もしかしてユイチ先生が描いたんですか?」

「ああ、うん」

「なんだ、じゃあ私よりいいものもらってるじゃないですか」

「違う違う。これは応募者全員サービス」

「成人誌にそんなのあるんですか?」

「ああ」


 西矢はお茶を一口飲み、


「ユイチはさ、昔少年漫画描いてたんだ」

「え……」


 なのに、なぜ成人漫画を?


「編集長、チェックお願いします」

「はいよ」


 南澤に声をかけられ、西矢が立ち上がる。私は、テーブルに残されたカップをじっと見つめた。

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