レキジョの異動(3)
紺に染められたのれんに、白字で「春海堂」という文字が書かれている。私が自動ドアの前に立つと、格子状の自動ドアが開いた。ここは、ユイチの自宅から一駅のところにある和菓子屋だ。
南澤によると、「ユイチ先生への差し入れにはここのカステラ」が不文律らしい。このカステラさえあれば、どんなに不調でも原稿をあげてくれるのだとか。某猫型ロボットが好むどら焼きのようなものか。しかし食べ物で釣られるなんて、子供じゃあるまいし。
大体家から近いんだから、自分で買いに来ればいいのに。──引きこもりだから無理か。そもそも、その引きこもりというのが、私には甘えにしか思えない。人間は家にこもっていてはダメになるのだ。過去に何があろうが、自分の脚で動き、働き、稼がなければならないのだ。
私はのれんをかきわけ、店内へと入った。自動ドアが開く音に、カウンター内の女性が顔をあげる。彼女は簿記をつけているようだったが、作業の手を止めて私に微笑みかけた。
「いらっしゃいませ」
歳は五十代くらいだろうか、薄ものの青い着物を着こなした、儚げで綺麗なひとだ。私は会釈して、
「カステラをひとつください」
「はい、ありがとうございます」
彼女はカステラを店名の入った紙袋に入れ、
「お客さん、昨日も来てくださいましたね」
「ええ……とても美味しかったので」
「これからもご贔屓に」
女性はそう言って、優しい笑みを浮かべた。店内には落ち着いたBGMが流れていて、店のカウンターには、ミニチュアの和傘と椅子が置かれている。小さな花瓶には、レースのような白い花手毬が。さりげないが、可愛らしいあしらいだ。
女将さんや店の雰囲気も相まって、感じのいい店だなあ、と私は思う。これからちょくちょく来ることになるだろうし、印象はいい方がありがたい。私は女性に頭を下げ、店を出た。
十五分後。私は、再びユイチの自宅を訪れていた。片手には春海堂のカステラがある。先日と同じく、エントランスで部屋番号を呼び出す。しばらくして、ユイチの声がした。
「はい」
「東大寺です」
「どうぞ」
音を立て、自動ドアが開く。私は自動ドアを抜け、8階へとあがった。801号室にたどり着きチャイムを押したら、ユイチが少しだけドアを開いた。今日は灰色っぽい迷彩のつなぎだ。どうせなら違う服を着ればいいのに。彼は隙間から手を伸ばし、荷物をとろうとする。
二度も同じ手を食うものか。私はばっ、と手を引き、
「先生、カステラを食べる前に、原稿をみせていただけますか?」
「……担当じゃないのに」
「南澤さんに、チェックしてこいと言付けられました」
ユイチはのろのろした仕草でドアを開け、私を中へと招き入れる。なんなの? 騒ぐ悪質セールスを仕方なく部屋に入れましたみたいな感じは。
「どうぞ」
ユイチがそう言ってスリッパを出す。スリッパはユイチの趣味とは思えない可愛らしいデザインで、いかにも貰い物という感じだ。私はお邪魔します、と頭を下げ、室内に入った。ユイチは買ってきたゴミ袋を、引き出しにしまっている。その後ろ姿は覇気がなく、病気だからなのだと思うと、少し優しい気持ちになった。私は彼にカステラが入った紙袋を差し出す。
「これ、どうぞ」
春海堂、と書かれた紙袋を見て、無表情(多分)だったユイチがかすかに喜色をにじませた。よほど好きなんだな、カステラが。
「キッチン、お借りできますか。カステラ切りますので」
「どうぞ」
カステラで気が緩んだのか、ユイチは私をキッチンへと促す。キッチンには、本来あるべきまな板や、なべの類が何もなかった。
「何にもないわね……」
唯一、炊飯器だけがレンジの下に置かれている。しかし、使った形跡がなかった。何を食べて生きているのだろう、彼は。まあ、私には関係ないけれど。
私はお湯を沸かし、コーヒーと共にカステラを運んだ。ユイチにどうぞと差し出すと、彼はカステラふた切れを両手に持ってかぶりついた。なんだか欠食児童みたいな食べ方だ。よほどお腹が減っていたのか……。
「美味しいですか?」
「うん」
私が身を乗り出すと、ユイチがびくりと身を引いた。唇にカステラのかけらがついている。
「な……なに?」
「先生、もっと美味しいものを食べたり、可愛い子とデートしたりしたくないですか?」
「べつに……」
ユイチはキャスター付きの椅子を転がし、私から離れる。私は、ずいずいとユイチに近づいた。五センチほどの距離になると、ユイチの首筋がわずかに赤くなる。
「近い、んだけど」
「先生、外に出るべきです」
私がそう言うと、ユイチがぴくりと肩を揺らした。彼はボソボソと、
「……でも、漫画家だし、大して外に行く用事もないから」
「それはそうですが、一生この部屋から出ないなんて無理でしょう」
ユイチはこくりと頷いた。
「もし火事でマンションが焼けたらどうするんですか」
「まあ……死ぬかな」
「死ぬかなじゃないでしょ」
ユイチは、棚に並べられた漫画を眺めた。
「漫画家なんか、いっぱいいるしね」
その言葉に、私はぶちりと血管をキレさせた。死んでも別にいい。この男はそう言っているのだ。ばんっ、と机を叩くと、ユイチがびくりと震えた。手にしていたカステラがぽとりと落ちる。
「私はT大を出ました」
「……すごいね」
「すごくないです。当然の努力をしましたから。歴史を学ぶため、好きで入ったんですから」
「歴史……」
「私、歴史雑誌を作っていたんです」
その言葉に、ユイチは目を瞬いた。
「なんで、エロマンガの編集部に?」
「廃刊したからです。みんな、歴史よりエロが好きだからです!」
それは仕方のないことなのだ。それに、また復活すると信じているから。
「トイレットペーパーを買いに行かされるのは全然いいですよ!」
本当は全然よくないけど。一番許せないのは、ユイチの今の言葉だ。
「いい? 真田幸村はね、家を失い、土地を失い、全てを失ったからこそ石田三成に加勢したの。死ぬかもしれないとわかっていて命をかけたの。戦国武将たちは、死んでも構わないという思いで戦に出たのよ」
「戦国……武将?」
ユイチはぽかんとした顔でこちらを見ている。
「なんの話?」
私はユイチに指を突きつけた。
「死んでも構わない、と別に死んでもいい、は全然違うの!」
「……」
「そんな人間が描いた漫画を、私なら読みたいとは思わないわ!」
私はカバンを掴み、ズカズカと歩き出した。
カツカツと、ヒールの音が鳴り響く。
「まったく、なんなのよ」
足早に道を歩いていたら、スマホが鳴り響いた。画面には、「モジャ男」という名前が表情されいる。私が登録したユイチのあだ名だ。一体何の用よ。私は通話ボタンを押し、スマホを耳に当てた。
「はい、東大寺です」
「……ユイチです」
「なんですか?」
思わず声を尖らせてしまう。ユイチはボソボソした声で、
「トイレットペーパーは、今度から柔らかめでお願いします」
思わず脱力した。
引きこもりの漫画家先生は、私の言葉など毛ほども気にしていないようだ。
「……わかりました」
私は通話を切り、ため息をついた。最悪だわ。あんな無気力エロ漫画家と仕事をしなければならないなんて……。もういい。あの男がどんな生き様をしていようが、私には関係ない。事務的に接すればそれで済むだろう。
私は靴を鳴らし、編集部へと向かった。
編集部へ帰った私は、校了の日をチェックした。校了とは、全ての作業を終え、印刷するだけの状態にもっていくことだ。校了になれば、本や雑誌作りに関する編集者の仕事はひとまず終わる。
「えーと、二週間後だから……」
カレンダーに丸をつけようとして、ハッとする。本日は六月二日。いけない、わすれるところだった六月三日は、何よりも大事な日だ。
「明日、幸村さまの命日だわ……」
「大丈夫っすか? 東大寺さん」
カレンダーを胸に抱いて嘆息する私を、北野が訝しげに見る。盛大に弔わなければ、ひとりで。
そして、六月三日がやってきた。今日は何があっても早く帰らねばならない。そう思いつつデスクで作業をしていたら、スマホが鳴り響いた。
「はい、東大寺です」
「……ユイチです」
ボソボソした声が聞こえた。なぜ言葉の前にいつも三点リーダが前についているのだ、このエロマンガ家は。あと、もっとはっきり話せと思う。
「ペン入れ、できました」
「わかりました。午後三時に伺います」
私はそう言って、通話を切ろうとした。ユイチが口を挟む。
「春海堂のカステラ、買ってきてください」
「はい」
ちょっと声がかすれているような気がしたが、私には関係ない。大体、いつもくぐもったような声だし。カステラさえ食べられたら満足なのだから、あのおかしな漫画家は。私はカステラを手に、ユイチの自宅へ向かった。
「お疲れ様です」
ユイチ宅に着いた私は、儀礼的に頭を下げた。
「……」
ユイチは何も言わず、床にスリッパを置いた。私は怪訝な顔で彼を見た。なんだか変だ。いつも以上に覇気がないような気がする。こないだのことを気にしてるとか? 謝ったほうがいいだろうか。彼は普通の成人男性よりメンタルが弱そうだし……。
「カステラ切りますね」
私は台所へ向かい、カステラを切り分けた。ぼんやりしているユイチの前に、コーヒーとカステラを置く。
買ってこいと言った割には、二個ぐいどころか、カステラに手さえ付けようとしない。私は違和感を覚え、ユイチを伺う。
「先生?」
彼がこちらに視線をやった。心なしか、顔色が悪い。
「具合でも悪いんですか?」
ユイチはふる、と首を動かす。
「大丈夫」
「原稿を見せていただけますか?」
彼はのろのろ身を起こし、原稿を差し出した。チェックするためにデジタル原稿を印刷したものだ。まず目に入ってきたのは、ヒロインの笑顔だ。
ぱっと花が咲いたようなキャラクターの表情に、私は見とれた。へえ、やっぱりプロの描いた絵って綺麗なんだ……。ページが進むにつれ、私はうっ、と呻く。
ああ、でもエロ漫画だ。R指定されるにふさわしいシーンが、ちゃんと描かれている。目を背けたい気持ちを抑え込み、忍耐強く絵をチェックしたあと、ノンブル(ページ番号)をチェックした。
私は原稿をそろえ、
「大変素晴らしいです」
それから、台詞の確認をしてもらった。
「では、こちらでよろしいですか?」
ユイチは上の空で天井を見上げている。果たして聞いているのかと思い、たずねた。
「先生?」
彼は私の視線に応えるように、ぼそりと言った。
「ちょっと、寝不足」
そういえば、漫画家は慢性的に寝不足なのだと南澤さんが言っていた気がする。だとしたら、早く退散したほうがいいだろう。私は荷物をまとめ、
「では、私はこれで。台詞に変更等があれば、教えてください」
ユイチはデスクに肘をついたまま答える。
「うん」
私は玄関に向かい、扉を開いた。部屋を出ようとした瞬間、中からガタン、と音が聞こえる。私はハッとして、再び部屋へ戻った。ユイチが床に転がっていた。ひっくり返った回転椅子のキャスターが、くるくると回っている。
「先生!」
私は荷物を放り出し、ユイチに駆け寄った。彼を抱き起こすと、首筋に汗をかいているのに気づいた。その身体は力なく、ぐったりしている。
「やっぱり具合悪いんじゃないですか。病院に行きましょう」
彼の身体を引っ張り上げようとしたら、ぱしり、と手を跳ね除けられた。ユイチはこちらを見ずに、
「ほっといて」
「なっ、私は心配して言ってるんですよ」
「心配とかいらない。してほしいことがあったら言うから。それ以外は、しなくていい」
私はむっとした。トイレットペーパーを買うのが、してほしいことなのか? 私にはその程度のことしかできないだろうって? 彼は自力で立ち上がり、ベッドへ向かう。その背中に叫んだ。
「あーそうですか! じゃあお好きになさってください」
そのままずかずかと、玄関へ歩いていく。
ちらりと背後に視線をやると、ユイチがベッドへ倒れこむのが見えた。