レキジョの異動(2)
ふざけた編集長が出て行ってから一時間、私はもくもくと修正作業をしていた。こんな屈辱、徳川に領地を奪われ、九度山に追放された真田の人々に比べたら、大したことではない。
そう、これはいずれ復刊した「月刊歴史」に戻るための布石なのだ。
南澤はパソコンに向かいつつ、ちらちら私を見ていた。なんなのよその目は。きちんと作業しているじゃない。こっちはこの場から立ち去るのを、机にかじりついて我慢しているのだ。耐えるのよ……きたるべき冬の陣のために!
南澤は私から立ち昇る怒りのオーラに慄いていたが、入り口から入ってきた青年を見てほっと息を吐いた。
「あ、北野君。おはよう」
北野くんと呼ばれた男子がちーす、と挨拶をした。また軽い男が現れたわね。ちーす? なんなのその挨拶。運動部か。彼はへらへら笑いながら私の方へやってきて、手を差し出した。
「バイトの北野っす。シクヨロー」
果てしなくバカそうだ。大学生くらいだろうか? 差し出された手をさっ、と避ける。
「東大寺です。よろしく」
「僕、ユイチ先生のとこ行ってくるから。北野君、いろいろ教えてあげて」
「ういーす」
バイトに教えられるのか……。南澤は荷物を抱え、そそくさと出て行ってしまう。北野は私の隣に腰かけ、
「東大寺さんて出身、奈良っすか?」
「違うわよ」
アホそうだが、東大寺が奈良にあることは知っているらしい。
「いやー、女の子貴重なんで! まじ辞めないでくださいねっ」
当たり前だ。どこの世界に、男性向けエロ雑誌の編集をやりたがる女がいるというのか。というか、女の子とか言うな。確実にあんたより年上だぞ。
私は乾いた声で答えた。
「いますぐにでも辞めたいけど、まだ六月だから」
北野はニコニコ笑い、
「ですよね! あれ? 年度変わったら微妙っすか?」
私は、北野と並んで座り、修正作業をした。ずらりと並んだエロシーン。ああ、見たくない。私が目をそらしていたら、
「この修正甘いっすよ」
北野は「局部」を指差し言った。
「エロマンガなのに、細かいわね」
「まー、一応コンビニとかでも買えますし。修正ちゃんとしてるかどうかって、二年くらい前からますますチェックが厳しくなってんすよ」
なんちゃら法案がねー。北野は言う。おそらく、青少年保護育成条例のことだろう。1976年以降、エログロ関連の創作物が軒並み有害図書とされ、「自販機」と呼ばれる箱への回収作業が進められた。私は原稿を見下ろしながら吐き捨てる。
「規制するくらいなら、面倒なことをせずに全部発禁にすればいいのよ」
「過激っすねえ。俺はこの作業嫌いじゃないっすよ。なんか、修正あったほうがエロくないですか?」
「全然。絵を全部モザイクにしたらいいのよ」
「冗談きついっすよ。特捜27時間じゃないんすから」
北野がけらけら笑っている。特捜ナントカのほうがまだためになる気がした。そもそも、こんなものを読んで興奮している人々の気が知れない。あり得ないセリフにあり得ないシチュエーション。北野に言われた箇所をひたすら修正していく。ああ、なんだかめまいがしてきたわ……。素数でも数えよう。いち、さん、なな、じゅういち……。
31まで数えたその時、編集部のドアが開いた。バイク便のお兄さんが入ってくる。
「失礼しまーす、カンプをお持ちしました」
カンプとは、カラー印刷の仕上がり見本のことである。彼は製本所のひとだろう。お兄さんはメモを差し出してきて、どうやら確認箇所があるようだと言った。
「あー、編集長、さっきまでいたんすけど。しばらく帰ってこないっぽいな」
北野はそう言って、ぽりぽり頭をかく。私は席から立ち上がり、
「私が呼びに行くわ」
「え、いいんすか?」
「少なくとも、修正作業よりはずっといいから」
「場所わかります?」
北野は、スマホで地図を表示した。
「番号教えてくれたらデータ転送しますよー?」
なんだか知らないがにやにやしている。この部署はろくな男がいないわね。まともそうなのは南澤くらいか。
「覚えるからいいわ」
「さすがっすね!」
「T大ですから」
★
雑誌や本を出版するのには、手順がいる。一度印刷してはい終わり、ではなく、依頼したものがどうなったかの確認作業が何度かあるのだ。色校とはそのうちの一つで、指定した色味通りになっているかを確認する行程を指す。なんにせよ作業としては最終段階なので、そんな時期にふらふら出歩くあの編集長は無能だとしか思えない。白英社を出た私は、電車に乗って競馬場へと向かった。
T競馬場にたどりついた私は、入場料を払って観客席へと足を進めた。指定席もあるようだが、スタンドは野ざらしになっており、客は立ち見、座ってみる者と様々だ。なんにせよ、誰も彼も似たような親父ばかりである。真昼間から酒を飲み、起きているんだか寝ているんだかもよくわからない。まったく、公的なギャンブルなど廃止すべきだ。
視線をめぐらせた私は、親父たちの中から西矢を発見した。彼はデッキにひじをかけ、馬場を見ている。なんの違和感もなく、しっくり背景にとけこんでいた。本当にいたわよ、このおやじ。しかも馴染みすぎでしょ。彼が雑誌の編集長だと聞いて、信じる人間がはたして何人いるだろうか? 私はヒールを鳴らし、西矢に近づいて行った。
「西矢編集長」
「ちょ、話しかけんな。いまいいとこだから」
そもそも、勤務中でしょうが、何言ってるわけ? このおっさんは……。西矢は競馬新聞を丸め、食い入るようにゲートを見ている。なぜそんなに真剣? 単勝に賭けているのだ、と彼は言った。複勝よりも外れる率は高いが、当たると大きいから、いつも単勝に賭けるらしい。タン塩でも副将でもなんでもいいが、とにかく原稿をチェックしてくれ。
勢いよくゲートが開くや否や、周りがわあわあ騒ぎ出したので、私はそのやかましさに耳をふさぐ。この競馬場で馬の行く末が気にならないのは、私だけではなかろうか。
競馬には興味がないが、馬が走っている様子は綺麗だ。コーナーに差し掛かると、四番と六番のゼッケンをつけた馬が競り合う。
「いけ、いけ、いけーっ!」
耳元で叫ぶ西矢がうるさい。結果、六番の馬が、四番に鼻差で勝利した。喜びと悲嘆の声、両方が競馬場に響き渡る。
ビリビリに破かれた馬券が、雪のように宙を舞った。掃除が大変そうだな……。私は紙吹雪を眺めながら思う。
「よっしゃああああ! 勝った! ほら、万馬券!」
馬券を見せながら大喜びする西矢を、私は胡乱な目で見た。西矢は私の冷たいまなざしを意に介さずに、
「やー、いい気分だわ。なんかおごってやろっか?」
「結構です。それよりも原稿を」
「換金してくるから待ってろ」
西矢は私の話を聞いているのかいないのか、馬券を手に窓口へ向かった。ほくほく顔で戻ってきて、
「で、どこいくよ、まつり」
「名前で呼ばないでください。これ、色校です」
「ああ、あんがと」
西矢は色校を受け取って眺めた。
「んだこりゃ。指定前に戻っちまってる。たまにあるんだよなあ、一番最初の状態になってるときが」
差し出されたものから、私はさっ、と目をそらす。公共の場でそんなものを見せないでほしい。
「あの、こんなところにいていいんですか」
色校が出ているということは、雑誌を作る最終段階のはずだ。彼は胸ポケットから青鉛筆を取り出し、色校に指定を書き込んだ。
「たまには息抜きしなきゃな」
彼はそう言って、私の肩に腕を回した。
「おごってやるから付き合えよ」
「結構です。あとセクハラです」
私が西矢の腕を押しのけていると、着信が鳴り響いた。
「ん? ミナちんだ。はい、西矢……」
西矢はスマホを耳に当て、
「ああ? ユイチが?」
「どうかしたんですか?」
彼はスマホを下ろし、私をジロジロ見た。私は、思わず自分の身体をかばう。
「な、なんですか」
「おまえちょっとユイチんとこ行け」
「なぜ」
「いーから。あ、これ印刷所に戻しといて」
私は、押し付けられた色校を慌てて受け取った。
「じゃな」
「編集長!」
彼はまさに漫画のごとく、ぴゅーっと去っていった。
★
私は印刷所を経由し、ユイチの自宅へと向かった。エントランスで部屋番号を押すと、南澤が応答する。
「はい、南澤」
「東大寺です」
「あ、東大寺さん。入って」
ユイチの部屋へ向かうと、部屋主ではなく南澤が私を出迎えた。
「よく来てくれたね。さあ、どうぞ」
そう言って私を手招く南澤は、まるでこの部屋に住む住民のようだ。私は彼に促され、室内へと入った。廊下を歩きながらたずねる。
「どうしたんですか? 南澤さん」
「ユイチ先生が、デッサンを取りたいそうなんだ。二人必要だからって」
「デッサン……?」
私は、頭の中の単語帳をめくった。項目は「美術」である。デッサンとは素描のことで、人体や静物を正確に写し取る能力のことだったはず。漫画にそんなもの必要なのだろうか? しかし、私の足を挟んでまで入室拒否したくせに、あっさり入れとは、奇妙なこともあったものだ。室内に入ると、大量の漫画が目に飛び込んで来た。
「!」
二十畳はあるだろうか、ぶち抜きの部屋に、背の高い本棚が三面の壁にそって置かれている。しかも、中身は全部漫画だ。他にはベッドとパソコンの載った作業机があるのみ。あと物がありそうなのは、クローゼットくらいだった。なんだこの部屋は。人間の生活空間とは思えない。綺麗というより、閑散としている。
「すごいよね。俺も、初めて来たときは驚いたよ」
南澤が小声で言う。
「ユイチ先生は、漫画を食べて生活してるんじゃないかって噂があるよ」
くだんのユイチはパソコンの前に陣取り、デジタルペンを走らせていた。四角い箱のようなもの──あれは確か、液タブというんだっけ──にペンがあたり、かつかつと硬質な音を響かせている。彼は片膝を立てているうえに猫背なので、大層姿勢が悪い。ユイチは私にちらりと目をやり、無言で頭を下げた。
「……」
なんか言ったらどうなのよ。私はそう思いつつ、眉をひそめた。
こちとら、出会い頭にドアに足を挟まれたせいで印象が最悪なのだ。私とユイチの間に流れる険悪な空気を、南澤が慌ててとりなそうとする。
「えっと……それで、どんなポーズすればいいですか?」
ユイチはシャーペンを手にし、さらさらと紙に絵を描いた。すっ、と私たちに差し出す。
「……こんな感じで……」
それを見た南澤がギョッとした。
「え、えっと……」
彼は赤くなって目を泳がせる。ユイチが示したのは、男が女を後ろから抱きしめて、覆いかぶさっている構図だ。その密着度に、さすがに私もギョッとした。ユイチは、長すぎる前髪の向こうから私を見ている。少なくとも、セクハラしてやろうという目ではない。
南澤は咳払いし、
「ごめん、東大寺さん」
背後からそっと腕を回す。私は平常心を装って答えた。
「いえ、仕事ですから」
南澤の左手の薬指には、指輪が光っていた。この人妻帯者じゃないの……なにをやらせてるのよ、このエロマンガ家は。
ユイチは膝を立てて座り、スケッチブックにさらさらと私たちの姿を描いている。
「じゃあ、今度はこんな感じ」
彼はささっとペンを動かして、私たちに差し出した。
「!」
女が男に馬乗りになっている図だ。南澤があからさまに焦り出す。
「ご、ごめん。俺ちょっと用事を思い出した。先生! 原稿は一週間後までに、バイク便でお願いします!」
「あ、ちょっ」
そそくさと鞄をひっ掴み、部屋を出て行ってしまう。あとには、私とユイチが残された。ユイチはスケッチブックを置いて、
「帰っていいです」
「は?」
「一人だけいても、仕方ないし」
キャスター椅子をくるっと回し、机に身体を向けた。なんなのよ、一体。
「そうですか。じゃ、失礼します」
私はふん、とそっぽを向いて、出口へと向かった。ユイチがポツリと口を開く。
「足……」
「はい?」
「大丈夫ですか」
思わず足を止め、まじまじとユイチを見た。私の視線を避けたいのか、ユイチは前髪を引っ張り、目元を隠す。一応心配していたらしい。故意で足を挟んだわけでもなかろうし、悪い人間ではないのだろう。
「……ええ、丈夫なのだけが取り柄ですから」
あとT大出身ですけどね──そう言いかけたが、別に自慢したいわけじゃない。ユイチはちらっと私を見て、
「……そんな感じする」
「は?」
私が眉をひそめたら、ユイチがさっ、と目をそらした。
★
漫画には「フキダシ」というものがある。「フキダシ」はまるで魂のような形をしており、登場人物の台詞を入れるようになっている。そして、フキダシに書かれた台詞を「ネーム」と呼ぶ。また、漫画の設計図のことも、しばしば「ネーム」と呼ぶ。
私は、覚えた用語を脳内の単語帳に叩き込み、「写植見本帳」を開いた。今までジャンル違いの部署にいたとはいえ、写植についてはもちろん編集者なら誰もが知るところである。
「写植」とは、作家によって鉛筆書きされたネームを活字に印刷したものだ。以前は全て編集者が張り込んでいたらしいが、今は製版所が一手に引き受けることが多い。
写植の字体や大きさを決める作業を「写植指定」と呼ぶ。「写植指定」には、赤ペンと級数表が必要だ。ありえない台詞の意味など考えないように、ひたすら級数表を文字に合わせて指定を入れていく。
「東大寺さん、ちょっといいかな」
私が赤ペンを走らせていたら、南澤が声をかけてきた。私は、胡乱な目で南澤を見る。わけのわからない漫画家と私を二人きりにして、帰ってしまった恨みをこめたのだ。南澤は曖昧に笑い、
「ええと、ユイチ先生のおつかいを頼めないかな」
おつかいと言われると、子供のようで釈然としない。
「またカステラですか?」
「うん。それと、トイレットペーパーとゴミ袋が欲しいらしい」
「……はい?」
私は思わず聞き返した。
「それは、漫画を描くのに必要な道具なんですか」
「いや、普通の買い物。なくなったから買ってきてくれって」
「……自分で買いにいけばいいのでは」
「そう言わずに。頼むよ。ついでに原稿の進み具合もチェックしてきてくれない?」
私の脳内に、民放バラエティのBGMが流れ始めた。いたいけな子供を一人で買い物させ、泣き顔を撮って喜んでいる鬼畜番組である。本当にただの使い走りではないか。
漫画の編集者というのは、こういうのが普通なのだろうか。そんな仕事、バイトに頼めばいいのでは。そう思って視線をやると、北野は瞼にマジックで目を描いて寝ていた。
こいつ……。学生時代、掃除をさぼってたクチね。
私はそばを通りすぎる際に、北野の椅子を足でずらしてやる。がくん、と体勢を崩した彼が、慌てて周りを見る。
「うおっ、なんすか?」
私は北野に、原稿を差し出した。
「写植指定したから、入稿お願い」
北野はへらへら笑いながら、
「東大寺さん結構気ィ荒いっすね。さすが歴女」
「その呼び方嫌いだからやめて」
歴史が好きな女は特殊だとでも言いたいのか、失礼な。私はボードに「ユイチ宅」と書き込んだ。編集業は就業形態が不規則なので、外出する際は予定をこうやってボードに書いていくのだ。
私はカツカツとヒールを鳴らしながら、エレベーターへと向かう。エレベーターの前で待っていた西矢と目線が合う。彼は自身を仰いでいた扇子をあげてみせた。
「よ、まつり」
「呼びすてにしないでください」
私と西矢は、そろってエレベーターに乗り込んだ。西矢はあちーなあ、空調きいてないんじゃねえの、とつぶやきながら、ちらりと私を見る。
「なんか機嫌悪いじゃん。どこいくの」
「ユイチ先生のお宅です。トイレットペーパーが切れたらしくて」
私は低い声で言った。西矢はハハ、と笑う。
「トイレットペーパーか〜そりゃ無くなったらまずいわ〜」
「笑い事じゃないですよ。漫画家の雑用係なんですか? 編集者って」
「そーかもな。偉い先生に土下座させられた編集者の話とか聞いたことあるぜ」
私は顔を引きつらせた。土下座? パワハラではないか。ま、逆もあるけど。西矢がつぶやく。逆とはどういう意味だろう。私の視線を受け、彼はふっと笑う。
「そんなんに比べたらかわいいもんだろ、トイレットペーパーくらい」
「でも……」
「ユイチってさ、引きこもりなんだよな」
「引きこもり?」
「ああ、三年間外出てないらしーぜ」
「三年間!?」
私は目を見開いた。
「な、なんでですか」
「外出ると、めまいすんだって。パニック症候群? だかなんだか」
つまりは病気なのか。医者に行った方がいいのではないか。そう言ったら、いや、医者には治せないのだと返ってきた。ユイチの場合原因がはっきりしているし、それは本人が乗り越えるしかないことだ。医者にかかったからと言って、どうにかなるものではない。そこまで話しておきながら、西矢は肝心の原因については話さなかった。
「なぜそんな作家を使ってるんです?」
そう問うと、答えまで少しのばかりの間が空いた。ポーン、という音が鳴り響き、自動ドアが開く。
「決まってんじゃん」
西矢はにやりと笑った。
「あいつの漫画は、面白いから」