君に読むこの手紙
パチ、パチ、と石の鳴る音が響く。天井から吊り下がる広告には「月刊 囲碁世界」という題字が踊っている。表紙を飾るのは、まるで知らない人物だ。おそらく、その道では有名なのだろう。
私は囲碁盤を挟んで西矢と向かい合っていた。彼は扇子を唇に当て、私が打った石を見ている。
「まつり、どこで囲碁なんか習ったんだよ」
「大学の先輩です。歴史サークルには囲碁好きが多くて」
「なんで」
「戦国武将は囲碁の強い人が多かったんですよ。特に真田幸村の父親である信繁や、小早川隆景は天才的に上手かったと言われてます」
「へー、他にやることなかったんだな」
私はその感想にむっとした。情緒のないおっさんだ。
「でも囲碁雑誌って。編集長に一番そぐわないですよね」
「どこが? 知的な俺にぴったりだろ」
「知的っていう意味を辞書で調べたほうがいいですよ」
「相変わらずだな、まつり」
西矢はそう言って笑う。でも、どうせなから将棋がよかったな。彼がつぶやく。
「将棋の方が今キテるからな。ほら、十七歳の」
「藤島隆太くんですか。漫画みたいですよね、存在が」
「そうそう。でもさあ、藤島隆太は主人公って感じじゃないよな。非の打ち所がなさすぎだし。主人公のライバル?」
誰か描かないかなあ。読みたいな。西矢は言う。
「将棋ものは『四月のウサギ』がありますからね」
「あー、そうだな。あれもいい漫画なんだよな」
漫画の話をしているときの西矢は、いきいきしている。
「編集長、ここで満足してます?」
「何が」
「漫画以外で、いいのかなって」
「だって約束したからな。いつか金瓶梅を復活させるって」
私が石を置くと、西矢が眉をぎゅっと寄せた。
「おまえ、強いね」
「T大ですから」
すまして答えたら、西矢が扇子で盤上をかき回した。
「あーもうやめやめ」
「ちょっ!」
碁石の布陣は修復不可能なほどにバラバラになっている。本当に子供か、この人は。私は不服に思いながら、碁石をかき集めた。西矢は扇子を顎に当て、そういえば、と言った。
「久田が高徳社をやめたらしいぜ」
「えっ」
「ユイチのこと叩いてたアカウントと、ユーリアンのアカウントを切り替え忘れたらしい。慌てて消したけど、瞬間的に広がって炎上」
ほら、謝罪文が出てる。彼はそう言って、スマホを差し出した。ユーリアンのホームページを見て、私は呟いた。
「ユイチ先生、大丈夫でしょうか」
「まあ、エロい担当編集がいるしな」
「なんでエロいって知ってるんです」
「おまえが言ったんじゃん。ユイチ先生にベタベタするんですぅ〜超ムカつく〜とかなんとか」
なんだその頭の悪そうな口調は。こちとらT大なのよ。
「そんな言い方してませんよ」
「会いたいなら会いに行けばいいじゃん」
「ユイチ先生も忙しいでしょうし」
まあ暇ではないだろうけど。西矢はつぶやいて、
「でも、あいつも会いたいんじゃない? おまえに」
「編集長……」
「そういや、俺も忙しかったわ。そろそろ昼休み終わりだろ、帰れ」
西矢がしっし、と私を追い払う。私は憮然として立ち上がった。編集部から出ようとしたら、西矢がなあ、と声をかけてきた。
「ユイチが漫画大賞にノミネートされたらしいぜ」
「えっ、本当ですか」
「多分そろそろアニメ化だなあ。単行本も馬鹿売れでギリアスはウハウハだな」
「そのあたりのこと、聞いておきます」
「よかったな、会いに行く理由ができて」
ニヤニヤ笑う西矢が腹立たしく、私は眉をひそめた。
退社したあと春海堂に向かい、カステラを買う。
「久しぶりねえ、東大寺さん」
「お久しぶりです。いつものやつ、お願いできますか」
佳乃がカステラを包むのを待っていたら、店の自動ドアが開いた。入ってきた人物を見て、私はあっ、と声をあげる。
「左門先生!」
「こんにちは、東大寺さん」
入ってきたのは、私服姿の左門だった。相変わらず爽やかな笑顔を浮かべている。彼はみたらしを三本買い、私に一本差し出す。
「どうぞ」
「ありがとうございます」
食べてみたら、もちもちしていて美味だった。
「ここのみたらし美味しいんですよね。仕事帰りに寄るのがくせになってて」
左門の言葉が聞こえたのだろう、佳乃がにこりと笑う。私はみたらしを食べながら尋ねた。
「左門先生、いま、漫画は?」
「商業では描いてないんです。正職になったので」
「おめでとうございます」
ありがとうございます。左門はそう言って笑った。彼は、店に置かれた「あかりの音」を眺めて言う。
「すごいですね、ユイチ先生。今やどこの本屋に行っても置いてありますよ、あの漫画」
「本当ですね」
「僕も夏コミに向けてなんか描こうかな。東大寺さん、売り子手伝ってくれます?」
「売り子?」
「ああ、でも女性の売り子じゃお客さんが買いにくいかな」
「何を描くんですか?」
「もちろん」
左門が縛る仕草をしたので、私は顔を引きつらせた。彼はその性癖を一生貫くのだろう……と、そこに柚月がやってくる。彼女は左門を見てぱっ、と顔を明るくした。
「あっ、左門さん!」
「こんにちは、柚月ちゃん」
「こんにちは! あ、東大寺さんも」
左門と柚月が会話するところを見ていたら、なんだか心配になってきた。
「ちょっと待っててね! お茶淹れてくる」
柚月がカウンターの向こうに消えた。左門はニコニコしながらその後ろ姿を追う。
「柚月ちゃんって可愛いですね」
「やめてくださいね、犯罪的なことは」
「ああ、大丈夫ですよ。彼女できたばかりですし」
「そうですか、よかった」
私はホッとした。その時、からん、と音がした。お盆を落とした柚月を見て、あっ、と声を漏らす。
「左門先生、彼女、いるんだ……」
柚月は俯いて、ふらふら歩いて行った。
「ゆ、柚月ちゃん」
私は左門を睨みつけた。左門が肩をすくめた。
「そんな目で睨まないでくださいよ。いつかわかることなんですから」
「タイミングってものがあるでしょ」
「東大寺さんは、告白のタイミング掴めました?」
タイミングが掴めたかどうかは不明だが、気持ちが伝わったのは確かだ。
「しましたよ、一応」
「へえ、ユイチ先生のリアクションは?」
「べつに……」
ユイチは付き合うつもりはないって言ってたし。
「って、なんでユイチ先生だってわかるんですか」
「わかりますよ、見てれば」
左門はそう言って、割と東大寺さんのことタイプだったんですよね、と笑った。またそういう調子のいいことを言って。私はそっぽを向いた。
「冗談はいいです」
「俺の場合そうやって冗談にされるから。ユイチ先生って得ですよね」
彼は私が手にしているカステラの袋を指差した。
「いいんですか? カステラ。ユイチ先生に持ってかなくて」
「あっ、そうだった」
早くしないと遅くなってしまう。私はカステラの袋を持って立ち上がり、左門に指を突きつけた。
「柚月ちゃんにちゃんとフォローしてくださいよ」
「わかってますよ」
左門はそう言って、みたらし団子をかじった。
左門と別れた私は、そびえ立つマンションを見上げた。このマンションに来るのも久しぶりだ。インターホンを押したら、聞き覚えのない声が聞こえてきた。
「はい」
あれ? ユイチじゃない?
「あの、東大寺まつりと申します。ユイチ先生は……」
「います。どうぞ」
通話が切れたあと、自動ドアが開いた。私はエントランスを抜け、801号室にたどり着く。扉が開いて、ユイチが現れた。彼は私を見て、嬉しそうにはにかむ。
「こんにちは」
「お久しぶりです」
頭を下げた私は、玄関先にある靴を見てあれ、と声を漏らした。ユイチの靴ともう一足、男物のスニーカーがあったのだ。ユイチは私の視線に気づいたのか、ちょいちょいと中へ手招いた。室内へ進むと、誰かがパソコンに向かっているのが見えた。ユイチは彼を指差し、
「紹介する。アシスタントの、修也くん」
「あっ、修也くん」
「ども」
修也はパソコンの前に座り、作業をしていた。ユイチは、アシスタントを募集したのだ、と言う。
「一人だと、手が足りなくなってきて」
「そうなんですか。修也くん、高校は?」
「卒業して、今バイトしながらアシやってます」
修也に指示するユイチは『先生』の顔をしている。なんだか感慨深いなあ。私がじっと見ていたら、ユイチが咳払いした。それから修也に言う。
「修也くん、休憩しよう」
「はい」
私は三人ぶんのコーヒーを淹れて、カステラを切り分けた。ユイチは恒例の二個ぐいをし、修也は一口で食べている。私はそれを微笑ましく見ながら、
「漫画大賞にノミネートされたそうで。おめでとうございます」
「そのことなんだけど……」
ユイチが何か言いかけたその時、いきなり扉が開いた。現れたのは、徳川葵だ。彼女はずかずか室内に入ってきて、
「ちょっとどいて」
「うお」
私を押しのけ、ユイチの腕を引く。そうして、壁に押し付けた。修也がうおっ、と声を出す。葵は、スマホをユイチの目前に突きつけ、鋭い声を出した。
「ユイチ先生。このメール、どういうことですか」
ユイチは壁に押さえつけられているわりに、冷静な声で答える。
「どうも何も、決めたことだから」
「正気ですか、漫画大賞を反故にするなんて……もう受賞を見越した販売計画が立ってるんですよ!」
反故? 一体どういうことだ。私はユイチに視線を向けた。ユイチはまっすぐ葵を見つめている。
「俺には、漫画大賞は必要ない。必要なひとに、あげてほしい」
葵は真っ青になって、私を睨みつけた。ユイチから身体を離し、掴みかかってくる。
「あなたでしょう……あなたが、市川先生を唆したのよ!」
「落ち着いて、徳川さん」
ユイチは葵を留める。
「灯台さんは関係ない。俺が決めたことだから」
「でも……っ」
「とりあえず、座って」
葵は、脱力したように椅子に座る。俊哉はパソコンの後ろに身を隠し、怯えた顔で彼女を見ていた。海でユイチ先生を挑発したくせに、とんだヘタレだ。
ユイチは黙ってクローゼットへ向かった。あそこは、担当になったばかりのとき、開けるなと強く言われたところだ。一体何があるのだろう……。
私はごくりと唾を飲んだ。
ユイチはクローゼットを開き、ダンボールを取り出した。
「え……これ?」
あっけにとられる私をよそに、ユイチはなんの変哲も無いダンボールを開く。中には手紙や、様々な品が入っていた。興味を示したのか、俊哉がこちらに寄ってくる。
「これって……ファンからのプレゼントですか」
ユイチは頷いた。
「『ダブルスコア』を描いてたとき、女の子のファンから結構手紙が来た」
ユイチはダンボールを探り、手紙の束を取り出した。輪ゴムで止められた、何通もの封筒。差出人は全て同じ。「徳川葵」だ。
「これ、って……」
「なんか聞いたことのある名前だな、って思ってた」
ユイチはそう言って、葵を見た。葵は耳の先まで真っ赤になっている。彼女はネイルの光る爪で、ぎゅっとスカートを掴んだ。その姿が、先ほど見た柚月の姿に重なった。葵は震える声で、
「ずっと、ファンだったの。高校生のとき、いじめられてて……春海先生の漫画を読んで、勇気を持てた」
ユイチは、ファンレターに返事をくれた。自分のためだけに、イラストを描いてくれた。飛び上がりそうになるほど嬉しかった。葵は自分の胸の前で、ぎゅっと手を握りしめた。
「会いたくて、必死に勉強した。白英社に入った時には、ユイチ先生はジャリオンにはもういなくて、どこに行ったのかと思えば、エロマンガ雑誌なんかに」
葵は本棚に並べられた「にじいろの教室」の単行本を睨みつけた。
「春海先生は、もっともっと評価されるべき人なのに」
ユイチは、そっと葵の肩に触れた。顔をあげた葵に、ユイチは優しい声で言った。
「嬉しかった。徳川さんのくれた手紙で、辛い時も頑張れた」
葵は瞳を潤ませた。
「じゃあ、どうしてですか」
彼女は、ユイチの腕を掴んで揺さぶった。
「私が担当じゃだめなんですか。私のほうが、あんな女よりずっとあなたのことをわかってるわ」
ユイチはかぶりを振った。やんわりと葵の手を押し返す。
「担当が誰でも同じだ。俺は、べつに賞なんて欲しくない」
「贅沢だわ。先生は勝手だわ!」
「違う。きっと、賞が欲しい人とそうでもない人がいるんだ。俺は、べつに欲しくない」
彼女は必死に訴えた。
「あなたのために頑張ったの。漫画賞は、編集と漫画家の信頼の証なのよ! 私だけじゃなく、いろんな人が先生に期待してるんです」
「徳川さん」
ユイチがゆっくりと告げた。
「芸術漫画賞の授賞式の時に、徳川さんは俺にこう言った。『金瓶梅の名前は絶対に出さないでください』って」
「……当たり前です。名誉ある賞なんですよ。エロマンガを描いてたなんて、言う必要がないじゃないですか」
なのにユイチは金瓶梅の名前を口にした。
「成人誌で描いてたことを、隠したい人もいると思う。だけど俺は違う。俺は、自分が描いたものは全部誇りに思ってる。たとえ、賞がもらえなくても」
ユイチは常になく饒舌だった。彼はどんな環境に身をおいても変わらないのだ。漫画を描きたいという、強い思い以外は。
「賞をもらったからすごいわけじゃない。読んだ人が夢中で読む漫画が、すごい漫画なんだ」
「春海先生の漫画はすごいです。それをたくさんの人に伝えるために、賞があるんです」
葵の反論に、ユイチは頷いた。
「わかってる。だけど漫画は、その作品だけで存在すべきだって、俺は思う。誰に評価されたとか、いろんな利害とか、関係なく」
その言葉に、葵がかすれた声を出した。
「否定するの? 私たちを……」
「違う。俺は自由でいたいだけ。自分の描いてきたものを、隠したりしたくないだけ」
葵はぎゅっと目を閉じた。震える声で言う。
「……そうですか」
すっくと立ち上がった彼女は、ユイチを見据え、冷たく言った。
「漫画賞を拒否したこと、いつか必ず後悔するわ」
そのまま部屋を出て行った。バタンとドアが閉まったあとに、修也がぼそりと呟く。
「徳川さんて、美人だけど超コエー」
「……」
ユイチは目を伏せた。私は男性二人の間をすり抜け、葵を追いかける。ドアを開けて視線を巡らせると、防火扉が開いているのが見えた。そちらへ向かうと、葵は非常階段に座り込んでいた。私は背後からそっと声をかける。
「徳川さん」
「最低よ。上からどれだけ絞られるか」
葵の声は震えていた。私は彼女のそばにしゃがみこむ。
「ユイチ先生は、わかってる。あなたが先生のために動いたってこと」
「そうよ。春海ゆうはすごい漫画家なの。うちの雑誌で賞に相応しいのは、あの人しかいないのに」
今更賞がいらないってなんなの。意味がわからない。葵は上ずった声で言った。
「私の言うとおりにすれば、春海先生は必ず成功するのに」
「ユイチ先生は、成功したいわけじゃないんだと思う」
「理解できないわ」
「でもそれが、ユイチ先生だから」
漫画を描く以外何もできない。元引きこもりで、軟弱で、すぐ倒れて。でも出会った時よりずっと強くなった。
「私は、そんなユイチ先生が好き」
「……私の方がずっと、春海先生を思ってるわ」
葵は声を震わせた。
「17歳の時から六年間よ。負けるわけないの。負けるわけ、ないのに……」
彼女は顔を伏せる。
「あなたにユイチ先生、って呼ばれる時のほうが、先生は幸せそうなの……」
私は身をかがめ、葵の背中を撫でた。葵は勢いよく私の腕を振り払う。すっくと立ち上がり、前を見たままこう言った。
「漫画賞は取らなくても、連載は続けます。つまらない漫画を描いたら打ち切りだって、ユイチ先生に伝えて」
彼女はそう言って、カツカツヒールを鳴らし、階段を降りて行った。
私は彼女を見送って、ユイチの部屋に戻ろうとした。扉の向こうからこちらを覗くユイチと視線が合う。
「聞いてました?」
「……打ち切りだって」
「つまらない漫画を描いたら、ですよ」
そうか。頑張らなきゃな。ユイチはそう呟いた。自由でいたいとユイチは言った。なら私は──私は後ろ手を組んで、胸を張る。
「先生、私決めました」
「え?」
私が告げた言葉に、ユイチが目を見開いた。