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四月が二人をわかつまで

 それから三ヶ月後、金瓶梅は最終号を出版した。南澤は雑誌を眺め、嘆息する。


「これで終わりなんですねえ」

「最終号だけものすごく売れたりしないすかねえ」


 北野は窓の外、桜を眺めながら言う。そんなことありえないって。誰かがそう言った。編集部には、なんとなく怠惰な空気が流れていた。私はぱんぱん、と手を打ち合わせる。


「やめましょう、暗いのは! 最後なんだし、どんどん宣伝して返本ゼロを目指しましょうよ」

「成人誌だから宣伝にも限度がなあ」

 ため息をついた南澤に、北野が茫洋とした口調で尋ねる。

「南澤さん、異動先どこなんすか?」

「園芸雑誌。マーガレットとガーベラの区別もつかないんだけどな」


 私は唸り、手を打ち合わせた。


「あっ、ユイチ先生に宣伝してもらったらどうでしょう。twitter始めたって言ってたし」


 私の言葉に、周りは苦い顔をした。


「いやあ、もはやギリアスの看板作家だしね」


 先日刊行された『あかりの音』第一巻は、増刷が相次いでいるそうだ。


「頼めないよな、そんなこと」


 南澤は覇気のない声で答えた。緩慢な空気を打ち砕くように、バン、とドアが開いた。西矢がずかずか入ってくる。彼は両手をあげ、声を出す。


「桜だ、春だ! 花見しようぜ」

「なんかご機嫌だね、編集長」

「多分馬券が当たったんすよ」

「冬眠から目覚めた熊って感じ」


 ひそひそ話す南澤と北野。私は西矢を横目で見た。


「またユイチ先生と私だけとかやめてくださいね」

「え、そんなことあったんすか」


 北野が興味を示す。


「あったのよ。全く、何がしたいんだか」


 西矢がすっと手を下ろし、急に真面目な顔になった。


「ユイチは呼ばない」

「え? なんでっすか」

「忙しいだろ、ギリアスの連載で」

「でも、花見なんて二時間やそこらじゃないすか。ユイチ先生にも息抜き必要っしょ?」


 西矢はスマホを取り出し、無言で差し出した。私たちは画面を見ようと、彼の周りに集まる。ギリアスの公式ツイートに、いくつかリプライがついている。その中にこんなものがあった。


「@dachimonee 春海ゆうとかいうやつの漫画、だっちもねえ。所詮エロマンガ家だわwww」


 私は眉をひそめる。


「これって……」

「捨てアカってやつだな。誰かは知らんが、ブロックされてもすぐに新しいアカウント作ってギリアスのツイッターに書き込んでる。宣伝担当も参ってるみたいだな」


 南澤が口を挟む。


「でも、こんなこと言ってるの一人でしょう?」

「つか、だっちもねえ、ってなんすか?」


 北野の疑問に触発され、私は調べてみる。


「だっちもねえ、っていうのは、しょうもない、くだらない、みたいな意味らしいです」


 西矢その言葉にうなずいて、スマホを操作した。まとめサイトのコメント欄に、ユイチを中傷するようなコメントが書き込まれている。そのいずれにも「だっちもねえ」という言葉が使われていた。


「こいつだけならまだいい。だっちもねえ野郎の他に、ユイチをディスってるのがちらほらいる」

 なんでもいいから他人を攻撃したい奴が、一定数いるのだと西矢は言った。

「ユイチはそんなに強いやつじゃない。こんなの目にしたら……」

「なんかそれ、変じゃないすか」


 北野がつぶやいた。


「だって、ユイチ先生はうちの作家でしょ? なんで成人漫画描いてたのが、悪いことみたいに言われるんすか」

「悪意を持ってるやつがはじめは一人でも、だんだん広がってくんだ。ユイチの漫画が評判になったみたいに、悪評も広がる」


 西矢は呟いた。


「良くも悪くも、今はそういう時代だ」


 その時、編集部のファックスが音を立てた。ジジジジ……。電子音を響かせ、紙が出てくる。私はそちらへ向かい、紙を手に取った。そこには「にじいろの教室」のイラストと、文章が書かれていた。


「金瓶梅編集部一同さま。二年間、ありがとうございました。ユイチ」


 編集部に沈黙が落ちた。


「編集長は、ユイチ先生を信じてないんですか」


 私に視線が集まった。


「あいつの弱さは、俺が一番よくわかってる」

「そんなことない。ユイチ先生は、二年前よりずっと強くなったはずです。だからギリアスで描き始めたんじゃないですか」


 西矢が私を睨みつけた。


「おまえに何がわかる。あいつはいま大事な時期なんだよ!」


 私は息を吸い込んだ。


「……お花見、ユイチ先生が来ないなら私も行きません」


 踵を返し、編集部を出た私に、南澤が声をかけてきた。


「東大寺さん」

「……安心してください。ユイチ先生には何にも言いませんから」

 ユイチが聞いたらきっと傷つく。中傷されたことではなく、腫物扱いされたことに対して。南澤は優しい声で言う。

「編集長は、ユイチ先生の力になりたかった。だから、東大寺さんに彼を託したんだと思うよ」

「私は何もしてません」

「少なくとも、ユイチ先生を外に出した。俺たちにはできなかったことだよ」


 西矢さんは守りたいんだよ、ユイチ先生を。わかっている。私だってそうだ。金瓶梅で描いていたことは、ユイチ先生にとって過去のことになるのだ。いや、過去のことにならなければいけないのだ。私は無言で頭を下げ、編集部を出た。


 緩やかな水の流れにそって、花びらが川面を滑り落ちていく。私は河原で、桜の花びらが散っていくのを見ていた。近くを通り過ぎた犬が、私に向かってわんわん吠える。何してるんだろう、私。早く戻らなきゃ。そう思ったそのとき、携帯が鳴り響いた。通話が繋がると、灯台さん? という声が聞こえた。


「ユイチ先生」

「ファックス、届いた?」

「はい。イラスト、すごく可愛いですね」

「最後のイラストだから、頑張って描いた」


 金瓶梅があったから、俺はやってこれたんだ。そう言ったユイチの気持ちを思うと、胸が痛んだ。


「ユイチ先生、桜、見にきませんか?」

「え?」

「すごく綺麗なんです」

「ごめん……いま、締め切り間近なんだ」


 そうですよね。私は呟いた。川面を流れていった花びらと同じく、ユイチがひどく遠い人のように思えた。


「灯台さん、俺、頑張るから。もし漫画大賞が獲れたら──」


 その時、徳川葵の声が聞こえた。


「ユイチ先生ー、ドライヤーどこですか?」

「え、あ、ちょっ」


 その直後、ぶち、と通話が切れた。ツーッ、ツーッと通話音が響いている。私は桜を写真に撮り、ユイチにメールした。ぎゅっと携帯を握りしめる。──がんばれ、ユイチ先生。私も頑張らなければならないのだ、新しい場所で。


 ★



 それから二ヶ月後、季節は私が金瓶梅に異動したのと同じ6月。

 身体にまとわりつくじめじめとした空気に、私は辟易していた。今日は朝から雨が降っている。そういえば、梅雨入りしたとテレビで言っていたっけ。身にまとうのは、友人の結婚式用に買った青いワンピース。胸元の白いコサージュに雨粒が落ちて、かすかに跳ねる。傘をたたんだ私がホテルに足を踏み入れると、見慣れた人物が近づいてきた。


「東大寺さん」

 スーツをまとった南澤がこちらへやってくる。

「あ、南澤さん。お久しぶりです」

「久しぶり。元気だった?」


 私ははい、と返事をし、視線を動かした。


「西矢さんは……」

「来てないみたいだね。あんまりこういう場って好きじゃないからねえ」

 今日は、白英社が主催する漫画部門のパーティーだ。本来なら漫画編集者でなければ出席できないが、部署替えの連絡がうまくいっていないのか、私と南澤にも招待状が届いたようだ。

「あ、さっきユイチ先生を見たよ」

「え」


 ほら、あそこ。南澤が指差すほうに、ユイチが立っていた。ひょろりと長い体躯に、スーツをまとっている。彼はちびちびとジンジャーエールを飲んでいたが、私が近づいていくと軽く会釈をした。


「久しぶり」

「お久しぶりです」

「いま、どこにいるの?」

「ファッション雑誌の編集部です」

「へえ、すごい」


 売れる? という問いに、私は肩をすくめた。


「漫画よりは売れません」


 ユイチはかすかに笑った。よかった、元気そうで。


「スーツとか、久しぶりに着た」

「よく似合ってます。素敵ですよ」


 そう言ったら、ユイチが赤くなった。彼は咳払いして、ネクタイを緩める。


「なんか、ここ暑いね」

「そうですか? 係の人に言ってきましょうか」


 私が歩き出そうとしたら、ユイチがそれを留めた。


「大丈夫」


 そこで会話が途切れた。


「「あの」」


 ユイチと言葉がかぶった。


「どうぞ、お先に」

「灯台さんが先に言って」


 私は先に口を開く。


「『あかりの音』、読んでます。先月号の暗闇でバイオリンを弾くシーン、すごかった」


 ユイチがはにかんだ。


「ありがとう」

「ユイチ先生は?」


 うん、特に変わりはない。彼はそう言ったあと、目線を下げてボソボソつぶやく。


「徳川さんとは、なんでもないから」

「え?」

「ただ、水道管が破裂して……ドライヤー貸してくれって言われただけ」

「あ……そうなんですか」


 ユイチは、次いで何かを言いかけた。


「ユイチ先生〜♡」


 こちらに駆けてきた葵が、私を押しのけた。よろめいた私を横目に、ユイチの腕を引っ張る。


「あら、東大寺さん。異動になったんじゃないの?」

「……ええ、異動したばかりなので漫画部の案内状が来たみたいで」

「へえ、そうなの」


 葵は関心なさげに言い、ユイチの腕を取る。


「さ、こちらにきてください。本日の主役なんですから」

「え?」


 葵はふふん、と鼻を鳴らした。


「春海先生、芸術漫画賞の新人賞を取ったのよ」

「そうなんですか」


 私は壇上へ向かうユイチの背中を追った。葵がちらりとこちらを見て、口を開く。


「帰ってくれないかしら?」

「え」

「ユイチ先生はこれからどんどん評価されていくわ。エロマンガを描いてたなんて、汚点でしかないでしょう?」

「嫌です」

「は?」

「ユイチ先生のスピーチ聞けるの、最初で最後かもしれないし」


 その言葉に、葵が顔を引きつらせた。ユイチはギクシャクと壇上に上がり、トロフィーを受け取っている。パチパチと拍手が響いた。


「では、春海先生から受賞について一言お願いします」


 ユイチは、壇上に設置されたマイクに近づいて行った。下げた頭がマイクにぶつかり、キーン、と音を立てる。南澤があちゃー、と顔を覆った。私はハラハラしながらその様子を見守る。ユイチはマイクに向かって口を開いた。


「僕は、以前少年漫画を描いていました。月刊ジャリオンという雑誌でした」


 それで、と続ける。


「いろいろあって、今年の四月までは成人誌で描いてました」

「えーと、ユイチ先生?」


 葵が慌てたように声をかける。ユイチは構わずに、


「その雑誌は休刊しました」


 私は、会場の入り口が開いたのに気づいた。するりと中に入ってきたのは、西矢だった。


「西矢さん」


 私のつぶやきに、南澤が視線を向けた。


「あ、本当だ……」


 西矢はじっと、壇上のユイチを見つめた。ユイチも西矢に気づいたようだ。


「俺が成人誌で描いてたことを、悪くいう人もいました」


 だけど俺は、あの雑誌にいた二年間を後悔していない。


「雑誌の名前は『金瓶梅』といいます。俺はあの雑誌で描いていたことを、誇りに思います」


 彼は西矢をじっと見て、


「あそこが、俺が帰る居場所です。またいつか、復活する時を待ってます」


 ユイチが頭を下げると、またマイクにゴッ、とぶつかった。彼は真っ赤になって階段を降りていく。


 西矢はふ、と笑い、会場から出て行った。私はそれを追う。声をかけようとしたら、別方向から声がした。


「あれ? 東大寺さん」


 そちらに視線を向けると、久田が立っていた。私は内心でげっ、と声をあげる。久田はこちらに近づいてきて、ジロジロ私を見た。


「何してるんです? こんなとこで」

「べつに……久田さんこそ」

「僕は家族と食事ですよ。東大寺さん、お一人ですか?」


 それは、わずかに馬鹿にするような口調だった。私と久田の方に、西矢がぶらぶら近づいて来る。西矢を見た久田がハッとした。


「あんた……」

「どうも」


 西矢は笑みを浮かべ、久田の服を指差した。


「なあ、それ可愛いじゃん」

「え? ああ、娘がくれたんですよ」


 久田は相好を崩し、服につけた缶バッジを示した。西矢はそうなんだ、と笑みを作った。それから表情を変える。


「なあ、おまえだろ? ユイチを匿名で叩いてたの」


 その言葉に、久田がさっと青くなった。私は驚き、西矢と久田を見比べる。


「捨てアカが現れるタイミングはまちまちに見えた。だけど実は規則性があった」


 西矢はキャプチャ画像を突きつける。


「ユーリアンの校了時期と重なる」

「な、なんの証拠があるんだよ」

「証拠なんてねえよ。ただな、おまえは編集者の風上にもおけねえクズだから、今すぐやめろ」


 久田が舌打ちした。


「だっちもねえ」


 私はその瞬間、久田の頰を叩いていた。


「しょうもないのはあんたよ!」

「この……」


 久田が私の髪を掴んだ。西矢が久田に摑みかかる。


「女に手出してんじゃねえよ、クズ!」

「ちょっ、東大寺さん、西矢さんっ!」


 会場から出て来た南澤が、必死に私たちを留めようとする。その時、幼い声が響いた。


「パパ!」


 ハッとして振り向くと、少女がこちらに駆けてきた。久田の腰にしがみつき、西矢を睨みつける。


「パパをいじめないで!」


 西矢は息を吐いて、久田のスーツから手を離した。その耳元に低い声で囁く。


「自分のしてること娘に話せるのか、よく考えろよ」

「……」


 私は西矢に続き、その場を去った。

 ホテルを出たら、西矢がこちらを見て笑った。


「すげえな、おまえ」


 私はぐしゃぐしゃになった髪を直す。


「編集長も大概でしたよ。完全に町のチンピラでした」

「俺は暴力とか嫌いだよ。あー、このスーツ高えのに」


 西矢のスーツは、ボタンが全て取れている。


「もう、パーティって感じじゃないですね」


 振り向くと、南澤が諦念をにじませた顔で立っていた。彼はこちらに近づいてきて、拾っときました、とボタンを差し出す。ボタンを受け取った西矢が、にやっと笑った。


「さすがミナちん」

「二人とも、ほんと無茶はやめてくださいよ……」

南澤は疲れた声で言う。

「悪い悪い。奢るからよ、ラーメンでも食って帰るか?」


 三人で歩き出そうとしたら、靴音が駆けてくる音が聞こえた。振り向くと、ユイチが息を切らして立っていた。


「ユイチ先生……」

「違うよ。春海ゆう先生だ」


 なあ? 西矢の問いに、ユイチは頷く。


「今は、そうだけど」

彼はこちらに視線を向け、

「いつか、ユイチに戻るから。それまでに、金瓶梅を復活させて」


 ユイチは手を差し出した。


「約束」

「約束なんかできねーな。俺は白英社の社長じゃないし」


 私は、西矢の代わりにユイチの手を取った。


「おい、まつり」

「じゃあ、僕も」


 南澤が私の手に手を重ねた。


「ほらほら、編集長も」

「なにこれ、青春ドラマ?」


 西矢はぼやきながら一番上に手を乗せた。それから、勢いよく三人の手を叩き落とす。


「痛あっ」

「ラーメン屋まで競争! 負けた奴がおごりな」

そう言って走り出す。

「えっ、ずるいですよ、さっきと言ってること違うし!」


 西矢に続いて、南澤も走り出す。私は呆れて、二人を見送った。


「子供みたいなおっさんたちですよね」


 ユイチが笑う。


「漫画って、子供の心がないと作れないのかも」

「子供の、心ですか」

「いろんなものを見て、面白いな、って思う心」


 ユイチは空を見上げている。私も彼にならった。まだ星の出ていない、薄暗い空。まるで漫画家の前途のよう。星が出るまで、薄闇の中を歩くのだ。


「春海先生!」


 その声に振り向くと、こちらに駆けてくる葵が見えた。彼女はユイチの腕を強く掴む。


「どうしたんです、いきなり……」


 彼女はこちらを見て、怪訝な顔をした。


「東大寺さん?」

「行ってください、ユイチ先生」

「うん」


 ユイチはかすかに微笑んで、葵とともに歩き出した。私はその背に声をかける。


「ユイチ先生!」


 振り向いたユイチに、叫んだ。


「大好きです!」


 ユイチが一瞬で真っ赤になる。私は踵を返し、走り出す。葵が背後で何か叫んでいた。視線をあげると、一番星が夜空に輝いていた。

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