裏切りは僕のネームを知っている
昼休み、私はゲームセンターのパンチングマシーンを思い切り殴りつけていた。点数表示パネルがピカピカと点滅し、スコアが出た。
「むかつくわ……あの女」
何度か殴りつけたあと、すっきりした気分でゲームセンターを出る。途中、ごみごみした路地を通り過ぎた。「部屋貸します」と書かれた看板が、古びたビルにかかっている。会社を作るしかない。西矢の言葉を思い出して、看板の前で立ち止まる。この部屋を借りるとしたら、月にどれくらいの出費が必要なのだろうか。私が看板に書かれた連絡先を見つめていたら、背後から声をかけられた。
「東大寺さん?」
振り向くと、見覚えのある中年男性が立っていた。私はあっ、と声を上げる。
「井の頭編集長!」
月刊歴史の編集長、井の頭だ。彼は朗らかな顔で近づいてきて、
「なんだか久しぶりだねえ。元気だった?」
「編集長こそ、社内で全然見かけませんでしたが」
「実はね、フリー編集者になったんだ」
「フリー編集者?」
どこかに入ろうか、暑いし。井の頭はそう言って、私を「カトレア」という喫茶店へ誘った。木のドアを押し開くと、豊かなコーヒーの匂いが漂っていた。革張りのソファーでは、新聞を開いたままのサラリーマンが船をこいでいる。仄かなオレンジの光。狭い店内は分煙などされていない。よく言えばレトロ、悪く言えば古くさい店だ。私としては、歴史を感じさせる店は嫌いではない。
「素敵なお店ですね」
「うん。あ、ここのあんみつすごく美味しいよ」
「じゃあ、それで」
あんみつを食べながら、お仕事のほうはどうですか、と尋ねる。フリーランスはさぞ大変なのだろう。
「大変だけど、やりがいはあるよ。何より、出版社に勤めたときに生じる雑事がなくなった」
「……他部署に馬鹿にされることもないんでしょうね」
「え?」
聞き返した井の頭に、私は笑顔を向けた。
「とにかく、お元気そうでよかったです」
「東大寺さんも」
じゃあ、打ち合わせがあるから。井の頭はそう言って去っていく。心なしか、以前よりも若々しく見えた。
私も会社に戻らなきゃ。コーヒーを飲んで、あんみつの残りをさらえようとする。そのとき、声が聞こえてきた。
「あー、全然だめ」
私は、あんみつをすくう手を止めた。この声、どこかで聞いたことがある……。視線を動かすと、窓辺に座る二人が見えた。
「僕が言った通りに直してないじゃないですか」
「……すいません」
男性客のひとりに、見覚えがあった。海で出会った、久田という編集者だ。一方、久田と向かい合っている男は私の知らない人物だ。やせていて、ひどく顔色が悪い。なんとなく、出会った頃のユイチを思い出させた。久田はため息をつき、手にしていたネーム用紙を放った。テーブルに落ちたネームが、ばさりと音を立てる。
「こんなんじゃ企画通せませんよ。もう諦めた方がいいな」
「ま、待ってください。今直しますから」
「僕も暇じゃないんですよねえ」
久田はうんざりしたような口調で言い、こちらに視線を向けた。げ、目が合った。
「あれっ? 東大寺さん?」
視線をそらしたが、時すでに遅し。久田はこちらに近づいてくる。お久しぶりです、とあいさつしてくる久田に、私はあいまいに笑い返した。久田はいいことを思いついたとばかりに、打ち合わせ相手を振り返る。
「あ、そうだ。この人に見てもらったらどうです? 一応漫画の編集者だし」
「一応?」
私はいらっとしたが、久田は構わずに荷物をまとめる。
「アニメ化する作品の打ち合わせがあって。すいませんねえ」
そのまま喫茶店を出て行った。残された男性はため息をついて、カバンにネーム用紙をしまい込む。私は、立ち上がりかけた彼を呼び止めた。
「あの、ネーム。見てもいいですか」
「え?」
彼が困惑したようにこちらを見た。
「あ、私こういうものです」
私は慌てて名刺を差し出す。彼は名刺に視線を落とし、
「月刊、金瓶梅?」
「はい。東大寺まつりと言います」
「神坂チヒロです……じゃあ、お願いします」
彼はそう言って、こちらにネーム用紙を差し出した。ずっと寝ていないのだろうか。目の周りが黒く、顔色が悪い。私はネームをめくった。ラフな筆致だが、絵が達者なことがよくわかる。ただ内容に難があった。読みきりなのに、長期連載の初回並みの伏線が張られているのだ。しかも、それがまったく回収されていない。
「これは読み切りですよね? 40pにしては、話を詰め込み過ぎだと思います」
「でも、連載取るには伏線張らなきゃ……」
「その前に、完結させるのが大事だと思います」
私はあれこれ代替案を出したが、神坂はハア、と相槌を打つだけだ。寝不足の人間特有の、朦朧とした表情である。
「神坂さん、失礼ですがちゃんと寝てますか?」
私の問いに、彼はかぶりを振った。
「地方住まいなんです」
チヒロは小さな声で言った。
「ホテル泊まる金なくて。泊まってるの漫画喫茶です。あと一日で、漫画喫茶に使う金もなくなります」
「まずしっかり寝ないと、いいアイデアも出ませんよ」
私はあることを思いついた。
「ちょっと待ってください」
スマホを取り出し、番号をコールする。何度目かのコールで、相手が応答した。
「はい」
「ユイチ先生?」
「灯台さん。なに?」
「あの、今日泊めてもらえませんか」
私の言葉に、ユイチが盛大に咳き込んだ。
「ユイチ先生!? 大丈夫ですか?」
「……な、に言って」
顔は見えないのに、彼が真っ赤になっているのがわかった。
「いや、私じゃなくて男の人です!」
「主語を、省かないでほしい」
ユイチはちょっと怒っている。
「すいません……」
私は、それで、いいですか? と尋ねた。ユイチは、とにかく事情を説明してくれ、と言った。しごく最もな要求である。私はチヒロと共に、ユイチの家へと向かった。出迎えたユイチに頭を下げる。
「すいません、ユイチ先生。ギリアスの準備で忙しいのに」
「ううん。なんか、灯台さんが突飛なのは慣れた」
彼は諦念をにじませながら言う。ユイチ先生って、心広いよな……。ユイチはスリッパを出し、私たちを家に招いた。チヒロは室内を見回し、
「すごい部屋ですね……」
漫画以外何もないという意味ではすごいかもしれない。
「コーヒー、どうぞ」
ユイチは戸棚を覗き、お茶請けがない、と呟いた。
「あ、私買ってきます」
私はコンビニに向かい、菓子を購入した。ユイチのマンションに帰ると、ユイチとチヒロが何かを話していた。漫画家同士、話がはずんでいるようだ。ユイチがこちらを向き、おかえり、と言った。私はコーヒーを淹れて、買ってきた菓子の袋を開ける。そうして、ユイチに囁きかけた。
「本当にすいません。私の家に泊めようかとも考えたんですが」
「それはダメ」
ユイチはそう言って、クッキーをかじる。
チヒロはがつがつとクッキーを平らげた。皿の上にあるクッキーが、あっという間に空になる。私とユイチがびっくりしていたら、彼は恥じたように顔を赤らめた。
「すいません、二日間なにも食ってなくて」
チヒロはまだ空腹が満たされていないらしく、クッキーの粉を舐めている。
「カップ麺、食べる?」
見かねたらしいユイチが立ち上がり、お湯を沸かし始める。私は、ユイチに近寄って声をかけた。
「ユイチ先生、お布団ってあります?」
「ない。いいよ、俺椅子で寝るし」
「だめですよ、そんなの。私、後で持ってきます」
私たちのやり取りを見て、チヒロが不思議そうに尋ねてくる。
「あの……お二人は、付き合ってるんですか」
「「違います」」
私とユイチの声がシンクロした。
「はあ」
チヒロは心底不思議そうな顔をしている。カップ麺ができると、3分待つ前に蓋を開けて、平らげてしまった。それに加え冷凍チャーハンを食べたチヒロは、ようやく腹が満ちたのか、ユイチに尋ねる。
「さっき、ギリアスって言ってたけど」
「ああ、金瓶梅は四月で休刊するから」
ユイチはそう言って目を伏せた。
「だから、新しい場所を探さなきゃ」
「ネーム、見たいな」
チヒロの言葉に、私はかぶりを振った。
「それはだめよ、いくらなんでも」
「いいよ」
「ユイチ先生」
ユイチは私に頷いて見せて、ネーム用紙をチヒロに差し出した。もしネタを盗まれたらとは考えないのだろうか? チヒロはネーム用紙を受け取り、めくり始める。彼は最後までネームを読み終え、呆然とした顔でユイチを見た。
「これだけ描けるのに、どうしてエロマンガなんか」
「どんな漫画でも、読む人がいる。一緒だ」
「……でも、エロマンガじゃ漫画賞は獲れない。大ヒットはありえない」
「大ヒットなんか、しなくてもいい。読んでくれる人がいるなら……漫画を描き続けられるなら、俺はそれでいい」
ユイチの言葉に、チヒロが喉を震わせた。かすれた声で言う。
「……寝ていいですか。すげえ、眠くて」
「どうぞ」
彼は立ち上がり、大股でベッドへ向かう。ユイチは小さな声で言った。
「なんか気に触ること、言ったかな」
「そんなことないですよ」
私には、チヒロの気持ちが少しだけわかった。ユイチの無欲さは、時に他者を腹立たしくさせる。自分の欲を否定されたような気になるから。
私とユイチは、ベランダに出た。少し涼しくなった風が、私たちの前髪を撫でていく。ユイチはじっと、暮れていく空を眺めた。
「俺、間違ってるかな」
「え?」
「大ヒットしなくてもいい、なんて。漫画が売れなきゃ、雑誌はなくなっちゃうのに」
雑誌がなくなれば、稿料がなくなる。漫画家の生活が成り立たなくなる。そして、漫画自体描けなくなる……。チヒロの気持ちのほうが共感しやすい。それでも、ユイチの気持ちも大事だと思った。
「ヒットさせようとして描く漫画って、ヒットしない気がします」
「どうして?」
「なんとなく、ですけど」
私は漫画の編集としては素人に近い。ヒットの要件はあるのだろう。西矢が言ったように、今の時代に何が必要とされているのかを読むのは大事だ。それでも、何よりも描きたいという気持ちが作品を優れたものにするのではないかと思った。
「東大寺さん、結構感覚タイプだね。いきなり知らない漫画家連れてきちゃうし」
「西矢さんの真似しただけなんです」
「え?」
「海でユイチ先生を突き飛ばした高校生。覚えてます?」
「うん」
「彼がね、編集部にきたんです」
ユイチは驚いたように目を瞬いた。私はくすりと笑い、
「漫画描いてきた、なんて言って、編集長に見せたんです」
「それで?」
「昔のユイチみたいだ。懐かしい、ですって」
西矢さん、余計なこと言わなくていいのに。ユイチは顔を赤らめ呟いた。
「似てるよね、西矢さんと灯台さんって」
「えっ!? 絶対嫌です」
私が眉を吊り上げたら、ユイチが笑った。彼はよく笑うようになった。笑うと八重歯がのぞいて、より若々しく見える。
「手はどうですか?」
「大丈夫だよ。ほとんど治った」
私は、包帯の巻かれたユイチの手に触れた。ユイチがぴくりと指先を動かす。ユイチ先生の手、つめたいな。彼が力を抜いたので、離すタイミングを失った。なんとなく、気まずい空気が流れる。私は手を引いて、
「あ、私、帰りますね」
ユイチが腕をのばし、私の手を掴んだ。
「……もうちょっと、いてほしい」
「は、い」
夕焼けが、私とユイチを照らしていた。
私とユイチが部屋に戻ると、チヒロはソファで横たわっていた。疲れてるんだね、とユイチがつぶやく。昔のことを思い出しているのか、眉が寄っていた。私はユイチに見送られ、玄関へ向かう。
「じゃあ、また明日」
「はい」
私は閉まる扉を見て、帰途についた。夜空を星が流れていくのが見える。
「あ、流れ星!」
私は指を組み合わせ、ユイチの漫画が無事掲載されるよう祈った。
翌朝、私は手作りのサンドイッチを持ってユイチの自宅に向かった。チヒロとユイチへの差し入れだ。二人だと、ろくなものを食べなさそうだし。
「おはようございます、ユイチ先生」
おはよう、と言ったユイチの声は堅かった。どうかしたのだろうか? 私は不思議に思いながら、エントランスから中へ入る。エレベーターで8階へと向かい、801号室のドアを押し開けたら、ユイチの後ろすがたが見えた。私はユイチ先生? と声をかけながら室内へと入る。彼は、硬い顔でこちらを振り返った。私は嫌な予感を覚える。
「ユイチ先生? どうかしましたか」
彼は、いつもより低い声で告げた。
「いないんだ、チヒロさんが」
「え?」
私は、ユイチの肩ごしに部屋の様子を見た。布団はもぬけの殻で、チヒロの姿は見当たらない。続いてユイチが口にした言葉に、私は息を飲んだ。
「その代わり……ギリアス用のネーム用紙がなくなってる」