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夏と花火と私の肢体

 八月十五日、日本列島は全国的に「お盆」と呼ばれる時期に入っていた。この時ばかりは、普段せせこましく働く日本人も小休止を許される。しかし休む際も新幹線、あるいは渋滞に並ぶ義務を課せられるのはなぜだろう。つくづくまったりという言葉が似合わない国だ。


 私は大多数の人々と同じく、実家に里帰りをしていた。実家ってなんて楽なんだろう。家事もしなくていいし、休みだから何時に起きてもいい。里帰りというものは、確実に人をダメにする。六文銭が描かれたTシャツ姿で扇風機の前に陣取っていたら、母が声をかけてきた。


「まつり、あんた仕事はどうなの」

「え、ええと……順調よ」

「よかったわね。異動したって聞いたときはどうなるかと思ったけど」


 まさかエロ漫画編集部に飛ばされたなんて言えない。T大出で大手出版社に勤めている娘を、母はたいそう自慢にしているのだ。それに母は口が軽い。下手に異動の話をしたら、嘆きと共に親戚中に言いふらされることになるだろう。母が切り分けてくれた西瓜を齧っていたら、着信が鳴り響いた。見知らぬ番号だ。


「はい、東大寺です」

「おう、元気か、まつり」

その声にぎょっとする。

「西矢編集長?」

「今どこにいんの?」


 私は嫌な予感を覚えた。まさか、今から出勤しろとか言わないでしょうね。


「実家ですが……」

「十八日に懇親会やるからよ、水着持ってこいよ」

「はい?」


 話の前後が繋がっていない気がする。懇親会イコール水着という等式はおかしくないか?


「海だよ、海。バーベキューやるからさ」


 バーベキューするのに水着などいらないのではないか。私の反駁は、西矢には届かなかった。すでに通話が切れていたのだ。私はツーッ、ツーッ、という通話音を聞きながら、眉をあげた。



 そして、お盆が終わった八月十八日。私は電車を乗り継ぎ、指定された海岸へとたどり着いた。電車から降りると、潮の匂いが漂っていた。駅で待ち合わせという話だったが、他のメンバーがまだ来ていない。私が辺りを見回していたら、つん、と肩を突かれた。視線を向けると、ユイチが立っている。


「ユイチ先生」

「……こんにちは」

「こんにちは。今いらしたんですか?」


 そう尋ねたら、ユイチが頷いた。私はスマホの時計を見ながら、


「みんな、なかなか来ませんね。十時待ち合わせですよね?」

「……灯台さん、水着、持ってきた?」

「はい、一応」


 ユイチは荷物を見下ろし、


「西矢さんに言われて持ってきたけど、バーベキューって水着でやるものなのかな」

「実は私も、あまりこういう経験がなくて」


 その時、私のスマホが鳴り響いた。メール着信だ。タイトルは『懇親会中止!』だった。私は思わずはあっ!? と声を上げる。ユイチがびくりとしてこちらを見た。


「な、なに」


 私は無言でメールの文面を見せた。


「土壇場でみんな都合が悪くなってさ。ユイチと楽しんでこいよ★」


 文末の星マークが苛立ちを誘発する。そう思っていたら、ユイチが謀られた、と呟いた。


「謀られた?」

「なんでもない……帰ろうか」

「えっ?」

「え?」


 私の反応が意外だったのか、ユイチが困惑気味にこちらを見た。さすがは元引きこもり。おそらく、すぐにでも家に帰りたいのだろう。


「せっかくだし、ちょっとだけ泳いで行きませんか? ほら、漫画の参考になるかもしれないですし」

「でも、嫌じゃない?」

「はい?」


 私がキョトンとしたら、ユイチがかすかに赤くなった。


「俺と二人だと、彼氏とか思われるかも」


 私はあはは、と笑った。


「大丈夫ですよ、精々姉と弟にしか見えませんから」

「……」


 ユイチは沈黙し、ぷい、と視線をそらした。あれ?


「先生?」


 彼はさっさと歩き出し、ちらりとこちらを見た。


「行くんでしょ、海」

「はい」


 私とユイチは並んで歩き出した。


 海の家で着替えたあと、砂浜へ向かう。砂浜には、様々な色のパラソルが見える。まるで花のようだ。


「いやー、夏休みだけあって混んでますね」


 私は海岸を見渡して言った。ユイチと視線を合わせると、彼はさっ、と目をそらす。どうかしたんだろうか? 私は、大学時代に買った水着を着ていた。ちょっと派手だったかもしれない。


「しかし、先生肌白いですね」


 ユイチは水着にパーカーを羽織っていた。細い上に色白なので、臨海学校で見学する少年のようだ。彼はボソボソと言う。


「日焼けって概念から遠ざかってたから」

「三年引きこもってたんですもんね」


 ユイチはフードを被り、砂浜に座り込んだ。


「あれ、先生。泳がないんですか?」

「泳いだら足がつると思うから」


 頑として動かない雰囲気である。私は、武田信玄の軍旗に書かれたとされる標語を思い出した。動かざること山の如し。


「じゃあ、私行ってきますね」


 私はユイチから離れ、ひとり海に入った。肌に打ち寄せる水が、冷たくて気持ちいい。ユイチに向かって手を振ったら、彼がちいさく振り返した。ひとしきり泳いだ私は、ユイチの方へ向かった。隣に座ったら、ユイチがじり、と離れる。


「気持ちいいですよ。先生もどうですか」

「先生、って呼ぶのやめて」

「え?」

「なんか、見られるし」


 そうだろうか? 誰も気にしてないと思うけど。


「じゃあ、市川さん」

「……名前でいい」

「祐一さん?」


 そう言ったら、ユイチが真っ赤になった。熱中症かと、私は慌てる。


「大丈夫ですか、顔が赤いですよ!?」

「だ、大丈夫……ちょっと、飲み物買ってくる」


 彼は財布を手に、ふらふらと歩いて行った。なんだか夢見るような顔をしているが、大丈夫だろうか? 私がユイチを見送っていたら、スマホが鳴り響いた。画面に表示されているのは、西矢の名前だ。私は眉をあげ、スマホを耳に当てた。


「ちょっと編集長?」

「おー、まつり。どうだよ、ユイチとの海デート」


 デートという呼称は、誤解を生むのではないか。


「どうだよって、編集長は一体どこにいるんですか」

「俺は用事があんだって……ああ、すいません、ちょっと部下と話してて」


 西矢は誰かと一緒にいるようだ。ならどうしてわざわざこの日を指定したんですか──。私はそう言いかけた。しかし、その前に西矢がこう告げた。


「じゃあな。どうだったか詳しく聞かせろよ」

「ちょっ、編集長!」


 通話が切れる前に、編集部員がどうとかいう声が聞こえてきた。私は、ツーッ、ツーッと鳴り響くスマホを見てため息を漏らす。まったく、なんなのだあのおっさんは。


「にしても、ユイチ先生遅いなあ……」


 私は立ち上がり、ユイチを探しに向かった。

 ユイチは、自販機の前にあるベンチに座り込んでいた。彼の視線はスマホに落ちている。


「先生、大丈夫ですか?」


 私が声をかけると、彼は慌ててスマホをしまい込んだ。


「どうしました? 何か緊急の用事でも……」

「なんでもない」


 早口での否定。怪しい。


「お腹減りませんか? 海の家で何か食べましょう」

「うん」


 共に歩き出そうとしたら、背後から声をかけられた。


「春海先生?」


 その声に、ユイチがぴたりと足を止める。私は振り向いて、ユイチに声をかけてきた男を見た。30代くらいの男性で、眼鏡をかけている。その男を見た途端、ユイチが息を呑んだ。男はやけに間延びした声で言う。


「やっぱりそうだー。春海ゆう先生。久しぶりですね。覚えてます? 久田です。月刊ユーリアンの」

「……はい、お久しぶり、です」


 ユイチは消え入りそうな声で答えた。 久田は私を見下ろし、


「あ、彼女さんですか?」

「いえ、違います」


 私が答える前に、ユイチが強く否定した。事実だが、そんなに全力で否定することもないのでは。私は、財布から名刺を抜き取り差し出した。


「私、東大寺まつりと言います。ユイチ先生の担当で」

「担当? へえ、春海先生、まだ漫画描いてるんですね」


 まだ、とはどういう意味だ? 私は眉を寄せたあと、ハッとする。ユーリアン。もしかしてこの男は──。久田は張り詰めたこちら側の空気を読まず、ずけずけと尋ねてくる。


「なんて漫画描いてるんですか?」

「すいません、今、取材中なので。灯台さん、行こう」


 ユイチは常にない早口で言い、私の手を引いた。


「ユイチ先生」


 名を呼ぶが、ユイチは構わず歩き続ける。背後から、パパー、という声が聞こえた。振り向くと、小さな女の子が久田にまとわりついていた。久田は笑顔を浮かべ、女の子を抱き上げた。娘さんだろうか。ユイチはけして振り向かず、歩き続けた。


 足元に広がっていた白い砂浜が終わり、ゴツゴツした岩場に変わった。打ち寄せた波が岩場に当たって跳ねる。いったいどこまで行くのかと思い、私は先生、と声をかけた。ユイチがぴたりと立ち止まる。


 彼はぱっ、と手を離し、ごめん、とつぶやいた。

 ユイチの顔が真っ青だったので、私は尋ねる。


「先生、顔色悪いですよ。大丈夫ですか」


 私はユイチの腕を引き、岩場に腰を下ろさせた。ユイチは打ち寄せる波を眺め、


「この海……よく見ると、汚いね」


 波打ち際には、クラゲのようにひしゃげたビニール袋が浮かんでいた。ユイチはそれを拾い上げ、くしゃくしゃに丸める。いったいどうしたのかと、私は尋ねた。


「あの人……久田さんは、昔の担当」

「……ユイチ先生を、潰した人ですか」


 私の言葉に、ユイチはかぶりを振った。


「前にも言ったけど、俺が弱かったからだよ」

「あんな人のことは、忘れた方がいいです」

「忘れたつもりだった。ここ数ヶ月は」


 ユイチはこちらを見た。


「灯台さんが来てから、なんだかめまぐるしくて。引きこもってばっかりもいられなくなって」

「すいません」

「忘れるって、幸せだよね」


 辛い記憶は中々消えない。いつまでも心に残って、その人を苦しめ続ける。忘れようとしても、ある時波のように打ち寄せてくる。


「記憶を司る脳の機能は、海馬って言うんだってね」

「ええ。海馬は側頭葉に位置します。中でも基底核と呼ばれる大事な部分に、海馬はあります」


 基底核に病変を起こすと、人は記憶に障害をきたす。俺の海馬は多分、漫画のことばっかりだな。ユイチは呟いた。記憶の海を探るように、彼は言う。


「久田さんと最後に打ち合わせたのは、都内の喫茶店だった。あの人は、俺のネームを見てこう言った。『俺が話を考えるから、先生は絵だけ描いてください』」


 そんなの漫画家じゃない、って俺は言った。ユイチはそうつぶやいた。


「久田さんはこう返した。『絵だけ描く漫画家もいるでしょう。あんたの話はつまんないんだよ』って。それで……彼は、俺が書いたネーム用紙を引き裂いた」


 ユイチは、紙を引き裂くしぐさをする。


「久田さんは言った。売れなきゃ裁断されて終わりだ、って。ネーム裂かれるのとはわけが違うって」


 漫画とは、出版物とはビジネスだ。好きに描きたいなら、同人作家でもやれよ。久田はそう言って、ダメ押しの一言を放った。


「まあ、同人でやってけるのはエロマンガ家くらいじゃないの。編集が精査しない漫画なんてゴミだし」


どうやって家に帰ったのかはわからなかった。だけど気がついたら、マンションの屋上に立っていたのだと言う。


「ここから飛び降りたら、楽になれるのかなって思った。だけど、できなかった」


 ユイチはつぶやいた。


「下を歩いてる人にぶつかったら、とか、掃除が大変だろうな、とか、色々考えて。でも一番は、怖かったから」


 死んだらもう漫画が描けない。だから死ななかった。


「それで、ビリビリになったネームを貼り付けて、西矢さんに電話した。そしたら、西矢さん怒って、久田さんに掴みかかって……。あの人、俺のせいで会社やめたんだ」


 私の表情を見て、ユイチが気まずげに言った。


「ごめん、暗くて」


 私はかぶりを振った。彼はポツリと、


「さっき、久田さんにも家族がいるんだなって思った。あの頃は、あの人が鬼みたいに見えてた」

「きっとそれは、ユイチ先生が変わったからです」

「……そうかな」

「はい」

「俺が変われたのは、灯台さんのおかげ」


 ユイチがじっとこちらを見た。


「俺、灯台さんのこと……」


 その時、ギャハハ、という笑い声が聞こえてきた。地元の高校生だろうか。集団でこちらにやってくる。彼らはコンビニのビニール袋を海に投げ捨て、雑誌を取り出した。


「これなんて読むの?」

「こんぺいとうじゃね?」

「ぜってー違うし」


 彼らが手にしていたのは、「金瓶梅」だった。私は彼らに近づいて行き、腰に手を当てた。


「ちょっと」

「ハイ?」

「ビニール袋、拾いなさい。あと、あなたたちいくつ?」

「なにこのおばさん」

「おばさん!? 私はまだ二十六よ!」

やっぱババアじゃん。そう言われ、私は青筋を立てる。ユイチが慌てて私を留めた。


「灯台さん、やめよう」

「ユイチ先生は下がっててください」

「トーダイさん? 変な名前」

「つか、ユイチって聞いたことあんな」


 彼らの一人がパラパラと雑誌をめくった。


「あ、これだわ。ほら、ユイチって書いてある」

「まじで? 漫画家なんすか、カッコいー」

「これって実体験なんですかあ?」

「ねーだろ、オトナが子供に手出したら犯罪っしょ」


 ユイチの顔色が徐々に悪くなってきた。彼らは獲物を見つけた獣のごとく、愉快そうにユイチを取り囲む。私は、彼らをユイチから引き剥がそうとした。


「ちょっと、離れなさい」

「あ、そういやさあ、ユイチって昔少年漫画描いてたって兄貴が言ってた。春海ゆう、って名前で」

「えー、なんでエロマンガ描いてんの?」

「アレじゃね? サイノーの枯渇?」


 高校生たちがけらけら笑う。言わせておけば勝手なことを。


「あのね、ユイチ先生は小休止しているだけなの。例えるなら、家康に蟄居を命じられていた真田幸村みたいなものよ」

「何言ってんの、このおばさん」

「なんかむかつくなー。ちょっとこっち来て話しよーか」

「なに、離しなさいよ」


 腕を掴まれてもがいていたら、ユイチが私を庇うように前に立った。


「手、離して」

「あ? なんだよ」


 ユイチは高校生の手を掴んだ。それは一瞬のことだったが、ユイチの瞳が鋭く光る。まさか先生、怒ってる? 初めて見た。高校生がびくりとして、ユイチを突き飛ばす。彼はあっけなく岩場に倒れた。私は高校生の手を振り払い、彼を抱き起こす。


「ユイチ先生!」


 私はハッとした。ユイチの左腕からは、血が流れ落ちていたのだ。


「……!」

「お、おい、いこーぜ」


 高校生たちが互いに突きあい、バタバタと駆けていく。一人だけ、躊躇している少年がいた。


「おい、来いよ修也」


 仲間に呼ばれ、修也も駆け出す。残された金瓶梅が風に煽られ、バラバラと音を立ててページがめくれる。私はユイチの手をハンカチで止血しながら、スマホを取り出す。


「ま、待ってください。今救急車を」


 ユイチはやんわりと私の手を押さえた。


「大丈夫。近くに、診療所あるから」

「え? 先生、この辺りに来たことあるんですか」


 ユイチは無言で頷いた。


 私はユイチと共に、徒歩十分ほどのところにある診療所へ向かった。


「あー、こりゃざっくり切れてるねえ。縫わなきゃダメだね」


 診療所の医師は70代ぐらいで、年齢にくわえ、そのマイペースな様子が私に不安を抱かせた。


「あの! 大丈夫ですか。神経が切れたりしてませんか!」

「はっはっは、元気なお嬢さんだな」


 おばさんと呼ばれたりお嬢さんと呼ばれたり、今日は忙しい日だ。縫うからあっち行ってて。そう言われ、診察室から追い出された。


 ハラハラしながら待っていたら、ユイチが診察室から出てきた。左手に巻かれた包帯が痛々しい。


「先生」


 私が駆け寄ると、ユイチは軽く手を振ってみせた。


「大丈夫。動くし。左手だし」

「本当に大丈夫ですか?」


 そっと包帯の巻かれた手に触れたら、ユイチが赤くなった。開いた診察室の向こうから、医師がにやにや笑う。


「いやあ、愛されとるねえ」

「そういうんじゃありません」


 ユイチが否定するも、医師はうんうん、仲良きことは美しいなあ、なんて言っている。私とユイチは、並んで医院を出た。私はユイチに頭を下げる。


「すいません、私のせいで」

「べつに、灯台さんのせいじゃないよ」

「でも……」

「それより、ちょっと寄りたいところがあるんだ。いい?」


 ユイチはそう言って歩き出した。私は彼について行く。道中に遮るものはなく、照りつける日差しが肌を焼いた。彼が私を連れて行ったのは、小さな墓地だった。ユイチは、とある墓石の前で立ち止まる。


「ここって……」

「ハジメのお墓」


 ハジメ──ユイチの双子の兄弟の名だ。花を買ってきましょうか? と尋ねたら、ユイチがかぶりを振る。彼は近くにある自販機で缶ジュースを買い、墓石に備えた。私は、彼に並んで手を合わせる。ユイチは合わせていた手を解いて、口を開いた。


「ずっと、何かが足りないって気がしてた」


 俺には生まれつき、何かが欠けてる。それがハジメなんだと思う。


「なにしてても、なんだか現実感がなくて。父さんに和菓子を習った時も、あんまり気乗りしなかった」


 ユイチは自身の手を見た。


「だけど、漫画を描いてる時は別だった。俺ができる唯一のことが、漫画を描くことだった」


 彼は負傷した手を撫でた。


「少年漫画を描いてたこと、忘れられたと思ってた。でも、意外とみんな覚えてるんだね」

「漫画って、すごいですね」


 ユイチは頷いた。


「俺が消えても、漫画は残る」


 漫画とは、歴史に似ているのかもしれない。たとえ作者が亡くなっても、優れた作品は後世に語り継がれていく。


「もっともっと、描いてください」

「エロマンガだけど」

「どんな漫画でも、ユイチ先生の作品ですから」

「うん、そうだね」


 ユイチはそう言って、かすかに微笑んだ。


 翌月曜日。出勤したら、西矢がにやにやしながら声をかけてきた。


「よお、まつり。ユイチとの海デートはどうだった?」


 私は肩をすくめた。


「散々でした。ユイチ先生に怪我させちゃうし」

「怪我? おいおい、大丈夫なのかよ」

「先生は大丈夫だって言ってたんですけど……片手じゃ色々不便だと思うので、今からお手伝いに行きます」


 私の言葉に、西矢が眉をあげた。


「ユイチばっか構うなよ? 左門とかが拗ねるから」

「左門先生はしっかりしてますからね……変態だけど」

「遠慮ねーな、おい」


 西矢がケラケラ笑う。彼の片手には、ユイチのイラストが描かれたマグカップがあった。私は気になったことを尋ねてみる。


「あの、海でユーリアンの久田って編集者に会ったんです」


 それを聞いた西矢の顔色が変わった。マグカップを置き、身を乗り出す。


「ユイチの様子、どうだった?」

「動揺はしてたみたいですけど……怪我をして、それどころじゃなくなりましたし」

「そうか」


 彼はふう、と息を吐いた。私は、西矢を見上げた。


「編集長のおかげですね」

「ん?」

「ユイチ先生に、新しい居場所をあげたから」

「俺はなんもしてないって」


 西矢は目を細めた。


「ただ、ユイチの漫画を読みたかっただけだよ」


 こちらへやってきた南澤が、首を傾げた。


「なんの話ですか?」

「いやー、せっかく二人だけ水着にしたのに、なんのラブイベントも起こらないなんてつまらねー、って話」

「はい!?」


 私は目を剥いた。


「なんですかそれ、そんな理由で私たちを海に呼び出したんですか!?」


まあまあ、何事も経験だからさ。西矢はそう言う。ユイチは青春時代に漫画ばかり描いていたから、そういう体験をさせてやりたかったのだという。この人はずるい。そんなことを言われたら、怒れなくなってしまうではないか。


「しかし、担当作家に怪我させるとはな」

「ですから、責任は取りますよ」

「うんうん、責任とって背中でも流してやれ」

「あのねえ……」


 西矢は鼻歌を歌いながら原稿を読んでいる。私は半目で彼を見て、編集部を出た。


 春海堂でカステラを買ったあと、ユイチのマンションに向かい、インターホンを押す。通話が繋がったので、声をかけた。


「ユイチ先生、怪我の具合いかがですか?」


 返事がない。私は首を傾げ、もう一度声をかけてみた。その時、何かが倒れるような音がした。


「!?」


 私は慌てて自動ドアを抜け、エレベーターで八階へ向かう。801号室の前にたどり着き、ドアを叩いた。


「ユイチ先生!?」


 ノブに手をかけたら、抵抗なく開いた。私はお邪魔します、と言いながら、室内に入る。ユイチ先生、と呼びかけるが返事がない。まさか、泥棒とか……。私はごくりと唾を飲み、玄関先にあった傘を構える。


「先生?」


 部屋に入った私は、目の前の光景をみて固まった。

 ユイチの上に、女性が覆いかぶさっていたのだ。

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