第83話「無才について」
最終話です。
先月まであんなに美しく花開いていた桜の木も、5月が終わりに近づくと共に少しずつ散っていき、今ではすっかり緑の葉に覆われてしまっている。
あれだけ人の心を魅了していた桜の木に、今では誰も関心を抱いていないことに少しばかりの寂しさを覚えながらも、こうして季節が移り変わっていくことに安堵する。
職員室独特の珈琲の香りに包まれながら、俺はそんなことを思い、窓の外をそっと眺めていた。
すると、机の上に書類を並べて窓の外を眺める俺に初老の男性が声をかけてきた。
「羽島先生、どうです?仕事にはもう慣れましたか?」
「あ、教頭先生、お疲れ様です。……まだ慣れたとは言えませんが、生徒たちがみんないい子ばかりなので大変助かっています」
「はっはっはっ、それは良かった。生徒たちも相当羽島先生に懐いているようですからね。何か困ったことがあれば、何なりとおっしゃってください」
「ありがとうございます。ご期待に添えるよう、精一杯頑張っていきます」
蛍山高校を卒業してから5年——
23歳になった俺はちょうど去年実習を終え、今年の春からこの『ほたるヶ丘小学校』で新人教師として勤務することになった。
高校を卒業した俺は、第1志望でもあった真柳教授のいる凪波大学の教育学部に進んだ。
生まれ育ったほたる市を離れ、凪波で初めての1人暮らしを経験した。
今まで父さんや母さん、妹の由紀に頼りっきりだったものを自分1人の力でこなさなくてはいけない大変さを身を以て実感した。
また、大学の授業は高校とはまるで違い、毎日授業について行くのがやっとだった。
大学では新しい友人とも知り合うことができ、生活に慣れてきてからはアルバイトやサークル活動にも積極的に取り組んだ。
2年次からは真柳教授のゼミに参加し、真柳教授の側で様々なことを学んだ。
……いつか彼と同じ、生徒を良き方向に導く指導者となるため。
そして、自分と同じ『才能』に悩む子供たちの力になるために。
そうして4年間という長いようで短い大学生活を終えた俺は無事、教員試験に合格し、今年の春からほたる市にあるほたるヶ丘小学校に勤務することになったのである。
先日、俺の就職決定を祝うため、久しぶりに再開した秀一と朝霧と3人で飲みに行った。
秀一は大学卒業後、地元のスポーツショップで働きながら陸上クラブのコーチとして活躍するようになり、朝霧はほたる市の保育園で保育士として働き始めた。
偶然にも俺たちは全員、子供に関わる職業に就いていた。
2人とは高校卒業後も毎年お盆や正月帰省した時に集まり、そんな風に近況報告を交えながら互いに大学での生活について語り合った。
大学の授業には付いていけているか。
新しい友達は作れたか。
サークルには所属しているのか。
アルバイトはしているのか。
そんなありきたりな会話の中で、毎回挙がる話があった。
—— 榊原は今頃どこで、一体何をしているのだろうか。
俺たちの中に共通して残っている思い出。
クラスの誰よりも、彼女と同じ時間を共有した俺たち3人の中に眠るたった4ヶ月の記憶。
同じ人間とは思えないほどに美しく、華のように儚げで、それでいて涙が零れそうになるほど優しく、温かな笑顔を浮かべるその少女のことを、俺たちは思い返しながら共に笑い、そして共に心を痛めあった。
祝賀会が終わり、秀一と朝霧と別れた後、俺は月明かりに照らされる帰り道を歩きながら、ずっと榊原のことを考えていた。
榊原も大学に進学したのだろうか。
新しい友達は出来ただろうか。
俺たちのことを忘れてしまってはいないだろうか。
榊原に会って話したい。
いや、電話越しでもいい。
メールやチャットでも構わない。
そんなことを思いながらスマホを取り出し、ディスプレイを起動させる。
スマホには未だに彼女の連絡先が残っていた。
初めて手に入れた同級生の、女子の、初めて恋をした相手の連絡先。
今ならもしかすると、電話に出てくれるかもしれない。
メールに返信してくれるかもしれない。
そんな淡い希望を胸に電話をかける。
1回、2回、3回、4回。
スピーカーからはコール音だけが聞こえ、その後、何度も耳にしたアナウンスが流れ出す。
次は短い文を書いてメールを送る。
『久し振り。元気にしてるか?今、どこで何をやってるんだ?』
文字を打ち終わり送信ボタンを押す。
アルコールが入っていたこともあり、判断力が欠如していたのだろう。
普段の俺なら決してやらないことを、その時の俺は躊躇することなく実行した。
しかし、あれから返信が返ってくる様子もなく今に至っている。
机の上に並べられた書類をまとめる手を止め、再度窓から見える桜の木に目を向けながら、あの時の行動を深く反省した。
どうせ電話に出ることも、返信が返ってくることもないというのはわかっていたはずなのに。
変に期待してしまった自分が馬鹿らしい。
今後はアルコールの量も控えなければならないだろう。
そんなことを考えていると、職員室の角に設置されたテレビから、女性インタビュアーの声が聞こえてきた。
「まずは柿原先生、新人賞おめでとうございます。すごい反響ですね!」
テレビではどうやら、先月『白の無才』で新人賞を獲得した柿原玲子先生の独占インタビューが行われているようだった。
『白の無才』は才能に悩む高校生の青春を描いた作品で、甘く、苦く、切ない描写がとてもリアルだということで中高生から圧倒的な支持を受けており、実は俺も先日書店に立ち寄った際にその本を購入した。
家に帰って早速読み進めてみると、まるで自分のことを書かれているかのようなストーリーに引き込まれ、気がついた時には最後の1ページを捲り終えていた。
読了後、なんだかとても懐かしいような、そんな感覚に陥ったことを覚えている。
まるで昔に自分がどこかで実際に経験したことのあるような、そんな話だった。
今までどのメディアにも出演したことがなく、その顔を知る者は極僅かという事で、職員室の先生方もテレビ画面をジッと見つめている。
他の先生方がテレビを見ているうちに、書類整理を済ませてしまおう。
そう考えた俺は耳だけをテレビの方に向けながら、テキパキと書類を仕分けていく。
「この作品は、どういった経緯でお書きになろうと思われたんですか?」
『……実はこれ、私の体験を基にしているんです』
作者の柿原先生は声からして20代と言ったところだろうか。
とても綺麗で耳心地のいい澄んだ声だった。
自分とさほど変わらない年齢だろうに、賞を獲得するなんてすごい作家もいたものだ。
……けれど、俺はこの声を昔どこかで聞いたことがあるような気がした。
なんだかとても懐かしい、心が包まれるようなこの声を。
インタビュアーは続けて質問を繰り出す。
「なるほど〜。だからこれほどリアルな描写となっているんですね〜!ということは、この作品に出てくる女性主人公というのは先生のことなんですね!」
『えぇ』
「それでは、もう1人の主人公とも言われている『優人』にもモデルが存在するんですか?」
『はい』
「そのモデルとなった彼との出逢いを聞かせていただいてもよろしいでしょうか?」
柿原先生は少し沈黙を挟んだのち、モデルとなった人物との出逢いを話し始めた。
『……優人のモデルとなった彼に初めて出逢ったのは、私が高校生の時でした。転校してきて間もない私に街を案内してくれたり、友達作りを手伝ってくれたり、見たこともない景色をたくさん見せてくれたり……そして何より、彼も私と同じ悩みを持っていたことが、彼を優人のモデルにした理由です』
——待て。
俺はそのモデルとなった人物をよく知っている。
そして、そのモデルとなった人物が恋をしたであろうその作者のことを、俺はよく知っている。
俺は書類を整理する手を止め、テレビの方に目を向ける。
『主人公や優人だけでなく、その他の登場人物にもモデルが存在し、彼らのモデルとなったのも高校時代に出逢った私の大切なお友達です』
そこには、もう二度と見ることは無いと思っていた艶やかな長い黒髪の女性が映っていた。
大きく涼やかな瞳に、影を落とす長い睫毛。
スッと通った鼻筋とシルクのような白い肌。
あの時よりも少し背が伸びたようで、より大人びているように見えた。
インタビュアーが質問を続ける。
「柿原先生はいいお友達をお持ちなんですね。ところで、作品のモデルになっているということは、彼らにお伝えしたんですか?」
『……いいえ。私は今までモデルとしたことを伝えるどころか、連絡さえ送ることはありませんでした』
「それはどうしてですか?」
『私には、彼らと連絡を取り合う資格がなかったんです。それだけ、彼らには申し訳ないことをしてしまいました。……だから、もし彼らがこの放送を見て、私の声を聞いているのなら、この場をお借りして伝えたいと思います』
そう言って彼女はカメラに向かって口を開く。
『みんな、あの時は何も告げずにいなくなってしまってごめんなさい。私は、みんなに「さよなら」を言うことがとても辛かったの。みんなと過ごしたあの4ヶ月はとても楽しくて、幸せで、夢のような時間だったわ』
彼女は続ける。
『みんなからの連絡、とても嬉しかったわ。けれど、私はそれに答えることは出来なかった。私の中に残った罪悪感がそれを許してくれなかったの。だから私は、自分の夢が叶うその時まで連絡を送ることも、受け取ることもしないことにしたの』
そう言って、彼女はぐっと顔を上げる。
『そして、私はこうして夢を叶えた。小説家になるという夢を。だから、これからみんなと会って、話して、今までの空白を埋めるだけの時を一緒に過ごしていきたいと思うわ』
彼女がそう言うと、カメラは再びインタビュアーの方を向き、インタビュアーは最後の質問を投げかけた。
「それでは柿原先生、最後に何か一言お願いします」
彼女は——、榊原麗はまっすぐとカメラを見つめ口を開く。
『”優人君”見ているかしら?貴方に私の想いを伝えたい。会って、あの時貴方が私に言ってくれたあの言葉に、想いに今度はしっかりと答えたい。今までの感謝の気持ちを込めて——』
そうか……
夢を叶えたんだな、榊原。
『才能』なんてなくても、道は作れるということを証明したんだな……お前は。
「ん?羽島先生、どうしました?」
「えっ?」
教頭先生の声で、自分の頬を熱いものが伝っていることに気がついた。
「すいません……ちょっと昔の知り合いを思い出してしまいまして」
そう言って俺は掌で涙を拭う。
そういえば、榊原はさっきなんて言っていた?
俺の想いに答えたい?
と言うことはつまりあの日、花火大会があった日、俺が榊原に言った言葉はしっかりと届いていたということなのか?
俺の脳裏に7年前の記憶が蘇ってくる。
今思い返してみると、なかなかに思い切ったことをしたなと、恥ずかしさを感じる。
嬉しさと恥ずかしさの入り混じっただらしのない表情をなんとか元に戻そうとしていると、インタビュアーが締めに入った。
「柿原先生、本日はありがとうございました。次回作も楽しみにしています!」
『ありがとうございました』
インタビューが終わると同時に、校内に昼休み終了を告げるチャイムが鳴り響いた。
教材を持って職員室を出た俺は階段を上がり、『4年2組』のプレートが設置された教室に入る。
「チャイムなったぞ」
自分がこの台詞を言う立場になったということに、少しばかりの優越感を感じる。
未だに幼さの抜け切らない生徒たちは、俺が教室に入ってきても御構い無しにはしゃぎ回る。
「先生だ!」
「羽島先生来たよー!」
「先生今日は何するのー?」
「席替えしよー!席替え!」
俺はそれらを軽く受け流しながら、早速授業の説明に入った。
「今日の道徳の時間は、みんなに『才能』について、考えてもらいたいと思います」
「先生ー、『さいのう』って何?」
教室中央に座る男子生徒が手を上げて尋ねる。
「そうだな……それじゃあ、才能の話に入る前に、1つ先生の昔話をしよう」
「先生の昔話?聞きたい!聞きたい!」
教卓のすぐ側に座る女子生徒が、好奇心の強そうな瞳をキラキラと輝かせる。
教室内からは、彼女に続くように「一体どんな話を聞かせてくれるのだろう」という期待の眼差しが向けられる。
俺はホッと一息つき、生徒1人1人の可愛らしい顔を眺めてから話し始めた。
「これは、先生が高校1年生の時の話なんだが——」
『才能』が無かったから、彼女に出逢うことが出来た。
『才能』が無かったから、夢を叶えることが出来た。
『才能』が無かったから、また彼女と繋がることが出来た。
これは『才能』を渇望した少年と少女の、出逢いと別れの物語。
そして、これは『無才』という何にでもなれる無限の可能性を持つ『才能』を手に入れた、少年と少女の再会の物語——
今まで読んでくださった皆様。
本当にありがとうございました。
読者の皆様のおかげで、こうして無事作品を書ききる事ができました。
この作品は、私の人生で初めて書き上げた長編作品です。
小説を書き始めて3カ月でここまで書いてこれたのも、皆様の応援があったからです。
これからもたくさん物語を書いていきたいと思います。
最後に、いつもメッセージにアドバイスを添えて励ましてくれたAさん。
毎回作品の推敲を手伝ってくれたTさん。
そして、この作品を「面白い」と読んでくださった読者の皆様。
本当にありがとうございました!!!




