第78話「夏休みについて(44)」
昼食を食べ終えた俺たちは再び課題に取り掛かった。
秀一も朝霧も、課題に取り組む姿勢が先程以上に良くなり、順調にテキストの問題を解き進めていく。
室内に響くのは冷房機の起動音とテキストに文字を書き込む音、それと外から聴こえる蝉の声だけ。
昼食後で多少の眠気はあるものの、程よい雑音が2人の集中力を高めている。
そうして、時折休憩を挟みながら課題を進めていくうちに、時間はあっという間に昼を過ぎ、気がつけば夕方になっていた。
陽が傾くのもだいぶ早くなったもので、すでに空は茜色に染まり始めている。
涼やかなヒグラシの鳴き声と窓から差し込む橙色の夕陽が、夏の終わりを告げているかのようで少し寂しい気持ちになる。
しかし、この数時間で数日分の課題を終わらせることが出来た。
これも2人の集中力あってのものだろう。
部活と勉強はとても良く似ている。
部活は頑張れて、勉強は頑張れないということは決してない。
どちらかといえば、勉強の方が部活動よりも簡単なのではないかとも思える。
本来、部活に精一杯打ち込んでいる2人なら、俺や榊原の手助けがなくとも同じような力を発揮できるはずだ。
俺たちはあくまで、その力を引き出すきっかけ作りをしたに過ぎない。
自分自身でその力を引き出せるようになれば、部活も勉強も、どちらも今まで以上に効率よく行うことができることだろう。
「くあぁぁぁぁ〜!……結構進んだなぁ」
両腕を空に向け、猫のように伸びをする秀一は今日取り組んだ課題テキストのページをペラペラと捲り、ポツリと呟く。
本来予定していた範囲よりもさらに進んだこともあり、この調子なら始業式までに課題を全て終わらせることが可能になって来た。
「こんなに集中して勉強できたの初めてかもー!自分の力で解き進めるのって、なんかすごく達成感あるよねー!」
朝霧も同じように解き終えたページを捲ってみせる。
「この調子なら、余裕で課題終わりそうね」
「そうだな。あとは2人が油断せずに毎日課題続けられるかどうかだな」
課題をしっかりとやり遂げなければならないというのは、本人たちが1番良く理解している。
明日以降、自分1人で課題を進めるにあたり、問題につまづいた時にどう対処するかが今後スムーズに課題を進めていくポイントになると思われる。
勉強だけに限らず、今後あらゆる場面で自分の力では簡単に超えることのできない壁にぶつかることがあるだろう。
そうした時、どうやってその壁を乗り越えて行くかが、将来どれだけ上手く器用に生きていけるかに繋がってくると思う。
これは秀一や朝霧だけに言えたことではなく、俺自身にも必要になってくる力だ。
いつか、俺にも何かしらの『才能』が手に入り、それを行使する職業についたとして、その『才能』だけでは解決できないような問題に直面する時が来るだろう。
そういった時、『才能』に頼らず、己の力だけで困難を乗り越えるための努力も怠ってはいけないと、俺は考える。
センスや才能は上手に生きていくためにはあった方がいいものに他ならないが、必ずなければいけないというものでもない。
むしろ、地道に培ってきた努力や経験の方が必要になってくることが多い。
そう考えてみると、学生の仕事とも言える勉学は、そういった困難に立ち向かうためのトレーニングなのではないかとも思える。
「大丈夫!今日、2人に課題を手伝ってもらって、『勉強をする』って感覚が良くわかった気がする。明日と言わず、今日の夜からしっかり課題に取り組むよ」
そういう秀一の瞳には、メラメラと炎の如く燃え上がるやる気で満ち溢れていた。
「私も!麗ちゃんと羽島に手伝ってもらった時間を無駄にしないために、頑張るよ!」
「何か困ったことがあれば、連絡してちょうだいね」
「麗ちゃんありがとー!助かるよー!」
そう言って榊原の首に腕を回し、笑顔で抱きつく朝霧を、俺と秀一は微笑ましそうに見つめていた。
そうして本日の勉強会が無事終了し、鞄に持ってきたテキストや筆記用具などをしまい終わると、3人は玄関へ向かい靴に足を入れた。
「今日はありがとな、悠。それに榊原さんも。ホント、助かったぜー!今度しっかりお礼するからな!」
「どういたしまして。次会うのは始業式だな。風邪で初日から休み……なんてことにならないように気をつけろよ」
「分かってるって!」
秀一は下手くそなウインクを飛ばしながら親指を立ててグッドサインを出すが、いまいち安心感が出ない。
でもまぁ、秀一が風邪で寝込むなんてことはそうそう無いだろうから、なんとか杞憂で済みそうだ。
「羽島、部屋貸して貰っちゃってごめんね!私も今度何かお礼するよ!」
「あまり気にする必要はないんだけどな。でもまぁ、それで朝霧の気が晴れるっていうなら、ありがたく受け取っておくよ」
「おっけーおっけー!それじゃあ、また始業式の日に!」
朝霧はニカっと歯を見せて笑うと、敬礼するように右手を額に当てる。
「羽島君、今日はお疲れ様。休みの日に押しかけてしまってごめんなさいね」
「俺の方から声をかけたんだから、榊原が謝ることじゃない。むしろ、来てくれて助かった。ありがとな、榊原」
「ふふっ、お役に立てたようで良かったわ」
そう言っていつもの優しさに溢れた微笑みを浮かべる榊原を見て、俺は疲れが吹き飛ぶような感覚に陥った。
「それじゃあ、悠。またな!」
「あぁ、また。3人とも気をつけて帰れよ」
「おう」
そうして俺は玄関の扉を開け、外へ出る3人を見送る。
秀一、朝霧の順で扉を開けた玄関の外へと出て行き、榊原が朝霧の後ろについて玄関を出て行く。
「……ねぇ、羽島君」
「どうした?榊原」
玄関を出る直前で、榊原がふと足を止めて口を開く。
「……いえ、やっぱりなんでもないわ。ごめんなさいね」
そう言って榊原が最期に見せた表情は、なんだかとても寂しそうに見えた。
これから暗く冷たい海の底にたった1人で沈んでいかなければならないような、そんな寂しさ。
榊原が何かを胸の内に隠しているようなそんな雰囲気を肌で感じながらも、俺はその原因を榊原に尋ねることが出来なかった。
きっと、世界の裏側へ沈みかける茜色の夕陽が、榊原の顔を少し寂しげに照らし出しただけだろう。
そう思うことで俺は自分を納得させることにした。
「…………またね、羽島君」
「あ、あぁ……また」
そうして、榊原は再び玄関の外へ向けて足を踏み出した。
その刹那、榊原の口元が僅かに動いたのを見た。
なんと呟いたのか聞き取ることはできなかったが、口の動きで榊原がなんと言ったのかは理解することができた。
彼女は、確かにこう呟いたのだ。
「——さようなら」と。
この時の俺にはまだ、その言葉が持つ本当の意味を理解できてはいなかった。
榊原がどんな想いで、最期にその言葉を口にしたのかということを——
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