第8話「ほたる市について(5)」
しばらく窓の外を眺めていると、カウンターからこちらに向かってくる足音が聞こえた。
「お待たせしました」
そう言って、マスターは手に持ったトレイからパンケーキやショートケーキの乗った皿、コーヒーの入ったカップを机の上に並べると「ごゆっくり」と一言頭を下げ、カウンターの奥へと戻っていった。
榊原は目の前に置かれた、ホイップクリームいっぱいの厚みのあるパンケーキを見て感嘆の声を上げた。
「わぁ……とっても美味しそう!」
榊原はまるで子供のように目をキラキラと輝かせると、カバンからスマホを取り出し写真を撮り始めた。
一通り撮り終えた後、スマホをカバンにしまいフォークとナイフを手に取るとパンケーキを切り分け、口へ運んだ。
パンケーキを口に入れた瞬間、榊原は頬に手を当て目を大きく見開くと、あふれんばかりの笑顔を見せた。
榊原の表情から、パンケーキの美味しさがよく伝わってきた。
「このパンケーキ、口に入れた瞬間舌の上でふんわりとろけるの……ホイップクリームと合わせて食べると、口の中が幸せで満たされているみたいだわ」
「それは良かった。それじゃあ、俺の方もいただくとするか」
そう言って俺は目の前に置かれたショートケーキに視線を落とす。
スポンジケーキとクリームの層、そしてショートケーキの心臓部分とも言えるイチゴの鮮やかな赤色が芸術品を思わせる。
俺はフォークを持つとショートケーキを一口切り分け、口へ運んだ。
スポンジ部分がしっかりしていて、生クリームもしつこくなく程よい甘さだ。
運動後の疲れを吹き飛ばしてくれているように感じた。
「うん……うまい」
次はショートケーキに乗ったイチゴをフォークで刺し、口へ運んだ。
イチゴは甘いシロップで薄くコーティングされていて、口に入れると舌の上で仄かな甘さが広がる。
奥歯でイチゴを噛み潰すと、今度はちょうど良い酸味が口いっぱいに広がり、イチゴの良い香りが鼻を抜けた。
俺はイチゴを飲み込むと、再度ショートケーキを口に入れた。
半分ほど食べ進めたところで、俺はこの店自慢のブレンドコーヒーを手に取った。
カップを口元に持っていくと、コーヒー独特の苦味を含んだ大人の香りが漂ってくる。
俺は静かにコーヒーを口に含んだ。
コーヒー独特の苦味とコクが口の中に広がり、口の中に残っていたショートケーキの甘さを掻き消す。
「……やっぱり、うまいな」
俺はそう呟くとカップを置き、榊原の方に視線を移した。
榊原が頼んだパンケーキはもう残りわずかとなっており、俺は口に入れるたびに幸せそうな表情をする榊原を見て、笑みが溢れた。
榊原はパンケーキを食べる手を一度止めると、コーヒーカップを手に取った。
「このコーヒー、とってもいい香りがするわね」
榊原はそう言って、コーヒーを一口含む。
カップを傾ける榊原の姿は、とても大人びていて絵になった。
榊原の美しさが一段と増したように思えた。
「……美味しい。なんだかとても落ち着くわ」
榊原はカップを置くと、一息ついてからそう言った。
それから俺たちは時折コーヒーを飲みながらスイーツを食べ進めていき、気がつけば互いに最後の一口となっていた。
榊原が最後の一口を口へ運ぶのを見て、俺も同じように最後の一口を口へ運ぶ。
俺たちは『幸せ』という概念を物質化したようなそのスイーツを、最後の最後まで堪能した。
最後の一口を食べ終え、コーヒーを飲み干した俺はカップを置き、店の天井を見上げる。
「美味かったな……」
「そうね。マスターさんにお礼を言わないといけないわね」
榊原は満ち足りた表情をして言う。
「1日でこんなにも美味しいものを食べられるなんて幸せ……私もここの常連になってしまいそうだわ」
「相当気に入ったみたいだな」
「えぇ……私をここに連れてきてくれてありがとう、羽島君。羽島君には感謝してばかりね」
「俺の方こそ連れてきた甲斐があってよかったよ。榊原、見た目に反して甘いもの好きなんだな」
俺は少しからかったような口ぶりでそう言うと、榊原は
「お、おかしいかしら……?」
顔をほんのり赤らめて小さな声で言った。
食べ終えた俺たちは席を立ち、レジで会計を済ませた。
「マスター。ごちそうさまでした。また来ます」
俺はレジに立つマスターにそういうと、マスターは目を細めて
「またいつでもいらっしゃい。……そちらのお嬢さんもね」
と、榊原の方を向いて言った。
榊原はマスターに向かって頭を下げると、
「マスターさん、美味しいスイーツとコーヒーをありがとうございました。また来させていただきますね」
と一言礼を言い、俺たちはシェリーを後にした。
外に出ると既に日が傾き始めていた。
左腕につけた腕時計を確認すると、時刻は16時を回っていた。
時間的に考えて、次に案内するところが最後になるな……
俺はそんなことを考えながら榊原の方を振り向いた。
「榊原。時間的に考えて、次に向かうところが最後になる」
「そうね。最後は一体どこを案内してくれるのかしら?楽しみだわ」
榊原はカバンを持った手を後ろに回すと、俺の顔を覗き込んできた。
「今から向かうところは少し遠くて徒歩だと時間がかかる。そういうわけで、ここからは市内巡回バスを使って移動する」
「市内巡回バス……?そういえば私、この街に来てから徒歩以外での移動は初めてだわ」
榊原はほたる市に越してきてから日も浅い。
そのため公共交通機関を使って、どこかに行くということがなかったのだろう。
「まずはバス停に向かう。次のバスが20分後だから、この距離なら歩いても間に合うだろう」
俺はそういうと、シェリーから一番近くにあるバス停へと向かった。
榊原は俺の隣をぴったりついて歩いてきている。
「羽島君。そのバス停はどこにあるの?」
榊原が可愛らしく首を傾げる。
「さっきバッティングセンターに行く時、中学校の前を通っただろ?そのすぐ近くにバス停がある」
「あら、そうだったのね」
俺は榊原の疑問に答えた。
喫茶店『シェリー』から第一中学校の方に歩いて戻っていると、先ほど立ち寄ったバッティングセンターから第一中学校のユニフォームを着た野球部員が数名出てくるのが見えた。
「練習していたのかしら。……あの子たちの中にも、プロを目指せるだけの才能を持った子がいるかもしれないわね」
榊原はその野球部員たちの方を見て呟いた。
「そうだな……いるかもしれないな。もし、プロになったら『ほたる市の宝』なんて言われて、市役所や学校に横断幕が貼られたりするんだろうな」
俺は淡いピンク色の空を見上げて言った。
「……羨ましいわね」
それは俺に向けて言ったのか、それとも榊原の独り言だったのかはわからない。
しかし、とても小さく、消え入りそうな声で確かにそう呟いた。
榊原は野球部員たちの方を向いていて、俺からは榊原が今どんな表情をしているのか見ることはできない。
ただ、それが一体どういう気持ちで発せられた言葉なのかということは、俺にも分かる気がした——。
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