第7話「ほたる市について(4)」
バッティングを堪能した俺たちは、受付前にあるベンチで休憩することにした。
俺は自動販売機でスポーツドリンクを2本購入し、1本を榊原に手渡す。
「ほらよ。……なぁ榊原、初めてのバッティングセンターはどうだった?」
「あら、ありがとう。……とっても楽しかったわ。才能があるとは言えなさそうだけれど、初めてバットにボールが当たった感触は忘れそうにないわ。まだ、手が少し痺れているもの……」
榊原はそう言って、自分の両手をじっと見つめる。
榊原が何かに挑戦し、初めて成果を得られた瞬間に立ち会えた事を、俺はまるで自分のことのように嬉しく思った。
「それは良かった。楽しんでもらえたみたいで安心したよ。また機会があったら打ちに来よう」
「えぇ、そうね。次はもっと打てるように頑張るわ」
榊原は決意じみた表情をしてそう言った。
それから俺たちは10分ほど休憩してバッティングセンターを出た。
時刻は15時。
次はどこを案内しようか考えていると、
「少し動いたら、またお腹が空いてきてしまったわ……」
隣にいた榊原が恥ずかしそうにうつむきながら呟いた。
「そうだな……。それじゃあ、どこかでお茶でもするか」
俺は榊原にそう提案すると、榊原は顔を上げ、瞳を輝かせた。
「えぇ!そうしましょう!」
俺たちはバッティングセンターから少し歩いたところにある喫茶店へと向かった。
次の目的地である喫茶店『シェリー』は、バッティングセンターからさらに南に歩いたところにある。
『シェリー』はフランス語で『いとしい人』という意味だそうだ。
喫茶店『シェリー』は俺が生まれるずっと前から続いている、ほたる市民の憩いの場だ。
俺は中学の頃から、暇を見つけてはこの喫茶店に足を運んでいる。
バッティングセンターを出て5分ほどでシェリーに到着した。
シェリーの外観は非常に落ち着いたレンガ造りになっていて、入り口には筆記体で書かれたシェリーの看板が立て掛けられてある。
店の外観を見た榊原は、
「わぁ!とってもオシャレな外観ね。店内はどうなっているのかしら?」
と、予想通りの反応を示した。
俺は店の扉を開けた。
扉を開けると、扉につけられたベルが美しい音色で俺たちを迎え入れてくれた。
店内ではクラシックのBGMが流れていて、仄かに漂うコーヒーの香りが鼻腔をくすぐった。
榊原は中に入るなり、店内を見渡し感嘆の声を上げた。
「店内も落ち着いていてとってもオシャレね。それにコーヒーのいい香りがするわ」
「ここはほたる市民の憩いの場として有名なんだ。俺も暇な時よく来る」
榊原と話していると、奥のカウンターからメガネをかけた初老の男性が出てきた。
「やぁ、悠君。いらっしゃい」
「マスター、こんにちは」
「おっと……そちらのお嬢さんは悠君の恋人かな?」
マスターは俺に気がつくと、悪戯っぽく笑いそう言った。
「い、いえ!彼女は来週うちのクラスに転入予定の生徒で、今ちょうどこの街を案内してるところなんです」
「ほぉ、そうだったのかい」
俺は動揺を隠しきれていない様子でマスターに説明した。
榊原は1歩前に出てマスターの方を向くと、
「初めまして。先週からほたる市に引っ越してきました、榊原麗と申します。羽島君からもあった通り、今この街をいろいろと案内して貰っているところなんです」
と、微笑みながら軽く自己紹介をした。
榊原の自己紹介を聞いたマスターは、うんうんと頷き、一言「ゆっくりしていきなさい」というと、俺たちを席へと案内してくれた。
「マスターさん、優しそうな人ね」
席に着くなり、榊原が俺に向かって言った。
「あぁ。中学の頃からここに通い続けてるが、マスターは本当にいい人だよ」
俺はそう言って店内を見回す。
店内には俺たち以外に4名の客がいた。
新聞を読みながらコーヒーを飲んでいる中年の男性、向かい合いながら何やら楽しそうに話をしている老夫婦、コーヒーを飲みながらパソコンで何か作業をしている若い男性。
俺が店内の様子を伺っていると、榊原に声をかけられた。
「羽島君。私、どれを頼めばいいのかしら?全部おいしそうで迷ってしまうわ」
榊原はメニュー表を開き、いくつもあるスイーツを眺めだした。
「ここのメニューはどれもうまいぞ。もちろんコーヒーも」
榊原は悩みに悩んだ末、
「決めたわ。私はこれにするわ」
そう言ってホイップクリームが乗った厚みのあるパンケーキを指差した。
俺は手を上げマスターを呼ぶと注文を頼んだ。
「パンケーキとショートケーキ、それとコーヒ−2つ」
マスターは注文を書き込むと、「かしこまりました」と一言残してカウンターの奥へと戻っていった。
注文を終えた俺はメニュー表を閉じ、窓の外を眺める。
店の外では小学生グループが自転車に跨り、楽しそうに談笑をしている。
店内ではクラシックのBGMに混じって、新聞紙をめくる音や老夫婦の笑い声、キーボードをカタカタと叩く音が聞こえてくる。
俺は目を閉じ、ソファーに深く腰をかける。
すると、榊原に呼びかけられた。
「ねぇ、羽島君」
「どうした?」
「改めて、今日は街の案内役を引き受けてくれてありがとう。羽島君のおかげで、この街のいいところをたくさん知ることができたわ。そして、新しいことにも挑戦することができた。心から感謝するわ」
榊原はそう言って微笑む。
「そんなに大したことじゃない。それに俺も榊原にこの街のことを知ってもらいたかったしな」
俺は視線を窓の外へと向ける。
榊原はそんな俺を見て軽く微笑み、
「羽島君、謙虚なのね」
と、からかうように呟くと、俺と同じように窓の外を眺め始めた。
緑の葉をつけた桜の木が5月のそよ風に吹かれ、気持ちよさそうにゆらゆらと揺れているのが見えた——。
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