第63話「夏休みについて(29)」
研究室を後にした俺と真柳教授は、エレベーターではなく、その隣にある階段で1つ上の4階へと上がった。
真柳教授は、その足取りに全く迷いがない様子でいくつもの教室が並ぶ廊下をスタスタと歩いていく。
どうやら講義が行われる教室はこの棟の4階にあるらしい。
俺はとにかく、真柳教授の後ろを離れないようにしっかりと付いて歩く。
それにしても一体、真柳教授は今日の講義でどんな話をするのだろう。
講演会でやったような『才能』に関する話だろうか。
それとも、夢や将来といった未来に関する話だろうか。
俺は、どこか少年のように楽しさを滲み出す真柳教授の背中を見つめながら、期待に胸を膨らませた。
そうしてしばらく廊下を歩いていると、正面にある他とは明らかに大きさの違う教室がチラリと視界に入った。
すると、真柳教授はそのままその教室に入っていき、後を追うように俺もその教室へと入る。
俺たちが入室した教室は、俺が通う高校の教室3個分ほどの広さで、机と椅子が段々になっている。
こういう机の配置を見ると、大学に来たんだな……という実感が湧いてくる。
そして、既にその教室には真柳教授のゼミ生が多く集まっていた。
段々になった席に十数名がバラけて着席している。
すると、それまで席についてスマホをいじったり、友人同士と談笑したりしていたゼミ生たちの視線が、教室へ入って来た俺たちの方へ一斉に向く。
その目には興味や好奇心といった感情が多く含まれているように感じた。
「みんなー、お待たせしてごめんね〜」
向けられるいくつもの視線に対して真柳教授が口を開く。
すると段の中央あたりに座っている、明るい茶髪のアシンメトリーが特徴の男子学生が、「あのー……」と真柳教授に何かを尋ねるように口を開いた。
「もしかして、その子が教授の言ってたハシマ君っすか?」
茶髪の男子学生はそう言って、俺の方にチラッと目をやる。
「うん、そうだよ。今日は彼にも参加してもらうから、みんなよろしくね」
真柳教授がゼミ生たちに向かって笑顔を向ける。
そして、それまで俺と真柳教授に分散されていた視線が、その一言で俺に一点集中する。
人から注目されることにはあまり慣れていないため、冷房が効いているにもかかわらず、額や背中、掌からじんわりと汗が滲み出てくる。
さらに鼓動は早まり、周りに音が聞こえてしまうのではないかと思うほどに激しく脈を打つ。
焦り、戸惑う俺を見て、真柳教授が閃いたように口を開いた。
「そうそう。せっかくだから、羽島君。簡単な自己紹介お願い出来るかな?」
「じ、自己紹介ですか?…………分かりました」
唐突な要求に少し困惑しながらも、俺は1歩前に出て口を開く。
「は、初めまして。真柳教授からお誘いを受けて講義に参加させていただくことになりました、高校1年の羽島悠です。……よっ、よろしくお願いします」
何度か言葉がつっかえ、少し声が震え気味だったが、なんとか無難な自己紹介をすることができた。
そうして、一礼して頭を上げると、ゼミ生たちからパラパラと拍手が巻き起こった。
「よろしくなー!ハシマ君!」
例の茶髪の先輩が親指をグッと突き立て、ウインクを飛ばす。
名門中の名門である凪波大学は、てっきりいかにも真面目そうな生徒ばかりが揃っているものとばかり思っていたが、こういう人も結構いるんだな……
その先輩はどこか、秀一に似ているような気がして、案外人は見かけによらないもんだと、しみじみ思った。
「それじゃあ羽島君。好きなところに座ってもらって構わないよ」
「あっ、はい。それじゃあ……」
そう言って俺は、教壇の方から見て左側前列の方に腰を下ろす。
すると俺の1段上、斜め右の方から楕円形のフレーム眼鏡をかけ、ストレートの長い髪を肩から前にかけた女性が手を伸ばし、俺の右肩を優しく叩いてきた。
「よろしくね!羽島悠君。もし、何か分からないことがあったら気軽に聞いてちょうだいね」
女性の先輩はそう言ってニコリと微笑んでみせた。
先ほどの茶髪の先輩とは違い、こちらの女性の先輩はいかにも賢そうな見た目をしている。
クラス委員長のイメージにぴったりだ。
俺はその先輩に「ありがとうございます」と一言礼を言い、教壇に立つ真柳教授の方に視線を向けた。
俺が席に着いたのを確認した真柳教授は、「それじゃあ、始めようか」と胸の前で両手を合わせ、いよいよ講義がスタートした。
一体どんな授業が展開されるのか。
今回はどんな話が聞けるのか。
胸が踊る。期待が高まる。
俺は真柳教授が紡ぐ言葉に静かに耳を傾けた。
「えーっと、今日はね……ある1人の女性が残した言葉をテーマにした授業を進めていきたいと思います。ところで、みんなは『バーバラ・ブラハム』という女性を知っているかな?」
バーバラ・ブラハム……?
有名な人なのだろうか。
あいにく、俺は歴史に強いわけではないためそれが誰なのか、いまいちピンと来なかった。
しかし、周りを見回してみると、名門と言われる凪波大学に通っている学生ですら、その名前を聞いて分かったような顔をする者は1人もいなかった。
一体、その女性は何者なのだろう。
有名な偉人なのだろうか?
修道女として貧しい人々のための活動に尽力したマザー・テレサや、クリミア戦争で負傷した兵士を献身的に介抱し、後に『クリミアの天使』とまで呼ばれるようになったナイチンゲールなどと同じように、何か大きな功績を残した人物なのだろうか。
俺を含めた教室内の学生たちが首を傾げる中、真柳教授はニコニコと笑って口を開いた。
「実は、このバーバラ・ブラハムという女性。元死刑囚なんです」
穏やかな笑顔を浮かべながら、真柳教授が放った言葉は、俺たちが全く予想もしていなかったものだったため、学生たちは皆、口をあんぐりと開けたままフリーズしてしまった。
まるでこの空間だけ、時が進むのを忘れてしまったかのような、そんな雰囲気が漂っていた——
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