中
※二話同時投稿二話目です
ジェシカの止まった時間が動き出したのはそれからしばらくあとのことだ。
火花が上がった個所からじりじりと焦げつくような戦時下で、情勢は膠着から次第に動き始めていた。
ジェシカの国での義勇軍通識であった「悪魔討伐騎士団」だが、単なる時間稼ぎとしても限界はある。誰が何をどう言い始めたのかは定かではないが、「魔族」という超威力兵器に只の人間は抑制力たりえないこと、そして今更ながら人権的な意見が各地で声高に叫ばれ始めたのだ。人間を捨て駒とするに、時間をかければかけるほど消耗戦にしかならない。そして、魔法師の甚大な魔力消費と引き換えに「悪魔」を異界より召喚、食事という報酬を与えつつ兵器化する側も同じ、いやそれ以上の危険が伴うのだと。
そんな中、とある地域にて召喚の儀が失敗。溢れた低級魔族により反動打撃を被った事件がとうとう発生、情報と危機意識は一気に各国に飛び火した。
異種族に覇権争いの行く末をゆだねるのは、あまりに危うい。そんな当たり前のことにようやく気付いた人間達は、やっと停戦条約を結び始めたのだ。
戦が終わるかもしれない。長らく火の消えたようだった城下は浮き足立ち、都は活気を取り戻す。ジェシカの住む小さな町にもお祭り騒ぎは伝染した。
条約を結ぶ前哨として、隣国より平和使者が大量にやってくる。その一部はこの町にも泊まるのだという。平和外交はとにかく派手にする必要があり、目一杯もてなしてくれと都より直々の通達があったそうだ。
町人らは皆、浮かれた。使者は自分たちと同じ民間人を伴っており、文化的交流も望めるという。長らく途絶えていた国交だが、一般市民同士は憎み合っているわけではない。民間交友から繋がりを濃くしていこうという狙いがあるのだろう。
ジェシカは嗤った。なんて茶番なんだろう、と。
一張羅を着て愛想笑いを浮かべ、ジェシカは茶番のただ中に居た。父親は地元名士であり、一町の長でもあるのでこういう席は外せないのだ。 平和外交という場において、美しいジェシカはうってつけの飾り人形だった。
「なんて麗しい令嬢だ」
「王国の姫君かと思いましたよ、いや、貴女はそれより遥かに勝る」
「恐縮ですわ」
本物の姫君に対してなら不敬にも当たる世辞は、血筋の卑しい田舎娘とわかっているからこそ発せられることをジェシカはとうに知っている。
「これだけお美しければ、求婚する者は後を絶たないでしょう。むしろ独身であられることが不思議なくらいだ」
「いやその通り、皆々様がそれぞれ素晴らしいのでこちらとしても幸せな迷いが生まれておりましてね」
父親の声に、ギクリとしたものが混じった。次いでなんともいえない視線を一瞬だけジェシカに寄越す。婚約者が死んだ後も、まったく縁談に関心を示さず求婚という求婚を無視する娘を咎めるように。
「時代は自由恋愛ですからね。最後は娘の判断に任せたいと思っております」
「町長どのは娘思いであられる」
「いやいや。……」
ジェシカはそういった会話の最中も笑顔を崩さず、頷くように視線を伏せることで恭順を示した。父親が見る間にホッとしたのが空気でわかる。
これが茶番でなくて、なんだというのだ。
「先の戦では、多くの犠牲が出ましたね。その多くは罪なき一般市民……かのような悲劇を繰り返さないためにも、市民同士結束し、世論の声を強くしていかなくてはならない。魔族召喚などは一刻も早く禁術とすべきで、異界を繋ぐやり方も慎重を規すべきなのです」
「ええ。この町からも多くの勇敢な若者が志願兵として旅立ちましたが、その大半が帰らぬ者となりました。こんな悲劇は繰り返してはなりません」
父親は沈痛な表情を浮かべつつ、ジェシカの方を見ようともしない。
「我が国と貴国、双方の政治的在り方は違えど、民間の友好は変わらず。そういった意識が、無用の火種をおのずと消すことになるのだと私は信じています」
「その通りですな。いや、貴殿は見識が深くてらっしゃる」
青臭い論調で平和を語る外国人と、したり顔で頷く父親。その数か月前まで、どちらも真逆の主張をしていたであろうに。
「使者どのは長らく滞在されると聞きました」
「はい。本隊はご領主の邸宅から都に向かいます。民間交友も兼ねておりますので、護衛やわたくしどものような共の者はしばらく自由行動が許されているわけです」
「護衛の方々も民間から募られているとか」
「ええ。俗に言う『下々の者』ですがね、それなりに基準を設けておりますので、悪さは致しませんよ」
「なかなか言われる」
かちり、と交わされる杯の音。
「お父様、他の方々にもご挨拶をしてまいります」
「ああ。粗相のないようにな」
「ジェシカどののお姿を拝見出来れば、皆それだけで皆高揚しましょうぞ」
ははは、と響く笑い声を背に、ジェシカはその場を抜け出す。平和の使者と地元名士が掲げる酒杯の中身が、どろりと濁った赤に見えた。
宴の席の合間を縫うように、美しい飾り人形は見世物となって通過する。ただ、人形の心はひび割れていた。
(こんなもの嘘)
着飾った姿を、緩んだ心からの笑顔を、一番見せたかった存在はここにはいない。
(こんなもの、)
言い寄ってくるのはどこか勘違いした男達。慰めの言葉は何か見当外れな内容。ジェシカが一番帰ってきてほしい人は、帰ってこなかった。なのに何が民間交流だ。何が平和だ。
儀礼など、糞くらえ。しかし、ぶち壊す度胸も気力もその先の展望も何も無い。だからこうして、逃げるしかない。情けなくも自業自得、愚かで無力な自分。
どんなに自嘲しようと、今のジェシカは何も出来ない。ジェシカの心の中に、行動を起こせるだけの波も無い。
歩き、微笑み、声をかけ、言葉を交わす。たったそれだけのことだ。仕立て上げられた容姿と叩き込まれた所作はそれだけで場を華やがせ、微笑みのひとつで男共は簡単に相好を崩し女達は敗北を悟って畏まる。田舎ながら、集落の代表が集まる場としてそれなりの社交場は在るので、ジェシカは自分の美貌と社交能力がそれなりであることを理解していた。ただ、理解と性質は別である。
本当はこんなドレス好みでないし、お愛想笑いも苦手。こういう世界で己を殺すことは、世界を俯瞰で見つめているからこそ出来ることだ。感情が動くことが無いからこそジェシカは今もこうして飾り人形として居られる。去年まで、心身を潤してくれる存在も居たし。
だから、それがもう世界のどこにも無い今は、ひたすらに乾く。
顔面と身体に張り付けた虚飾に他人の視線と酒で濁った空気を受けるたび、見えないものは乾いていく。乾いてひび割れて、しかし培ったものが崩れ落ちるのを赦さない。これ如きで、ジェシカの仮面は外れない。
ジェシカが我を忘れたのは、彼の存在を踏み躙られた、あの時だけだ。
なのでその存在すら否定された今は、こうやって嘘にまみれた世界でゆっくりと乾き、朽ちていく。まやかしを演じながら。感情が死に絶えた心で。
(……いつ、死ねるの)
心はとっくに死んでいるようなものだ。心と体は繋がっているというのなら、この肉体はいつ終われるのか。いつ、彼の下へといけるのか。
今日だって顔色が悪いのを化粧で無理やり覆い隠し、以前よりだいぶやつれ肉が減った部分に布の詰め物をしたドレスなのだ。そんなもので十二分に他人は騙されてくれる。両親でさえ気づかないのだから。
誰もかれも、外面しか見ない世界。
虚構。虚飾。なのに誰もそれを指摘しない。「今が大切だから」「過去より未来を見よう」そんな綺麗ごとを語りすべて無かったような顔をして、そして取り残されている者を置き去りにしていく。あれは必要な犠牲だったのだ、そう言って。
彼がいないことを、そうやって大衆は肯定していく。気の毒そうな仮面の下で笑いながら、ジェシカにとって唯一だった彼の存在を踏み躙っていく。どろりと濁った酒をくゆらせ、すべて宴の肴として。
(……悪魔、)
皆は殺戮兵器をそう呼んだ。
(悪魔、悪魔、)
しかし、ジェシカにとってはこの場に居る人間こそが。
(悪魔……!)
血杯を掲げてけたけたと嗤う、人ならざるものだ。
ようやく途絶えた人の波間、そっと天井を見上げた。子供の頃より見慣れた自邸、立派ながら年季の入った壁。漂う食べ物の匂い。人いきれ。今のジェシカには、何もかもが昏く感じられる。
彼はジェシカの両親と折り合いが悪かったから、館に来たのは数えるほどしかない。いつも母親にあてこすられ、父親に無視され、怒りを露わにするジェシカを宥めつつ肩をすくめて笑っていた。「孫が出来たら仲良くなれるかな」と。両親の嫌な態度も彼の寂しげな笑みも見たくなくて、ジェシカは彼を連れて館を飛び出し、外で満天の星空を一緒に眺めながら持ってきた夕食を食べたものだ。
あの時感じた草の匂い、外の新鮮な風、語り合った未来、そして彼の温もり。それは、もう……
ガシャンッ
近くで、ガラスが落ちて割れる音。見ると、客人の一人が酒杯を落としてしまったらしく、給仕が慌てて処理をしているのが見えた。
どろり、広がっていく赤。
「―――……っ」
今更、何かがこみ上げる。新たに誰かが話しかけてきそうな空気を破り、ジェシカは館の外へと歩き出していた。
勝手に中座する娘を咎めるよう、後ろで町長の妻が何か言っている。しかし、もう何も反応出来ない。
彼女が名前を呼ばれたい人間は、この場にはいない。
夕刻より始まった虚構の宴、外はすっかり暗がりである。
自分は何をしているのだろう、どこに向かっているのだろう、と考えつつ、足は勝手に動いた。在りし夜、彼と一緒にお弁当を食べた場所へと。
敷地内の一角、狩場の森へと繋がる牧草地。今は刈り入れどきの手前なので、ふかふかと茂った草が緑の林を視界に広げ、青臭い匂いと音とを一面に奏でていた。
そこに分け入って、ドレスの裾に足をとられて転んで。起き上がりざま結い上げた髪を留めていた飾りを抜き去り、その辺に放る。腕や首に着けていた装飾品もすべてを捨てた。
一張羅を台無しにしつつ、軽くなった身で仰向けになる。ぐちゃりとひどい音、自分の身体の下で潰されたものの匂い。ドレスを草の青汁と家畜の糞まみれにしながら、髪をぐしゃぐしゃに乱れさせてその辺の子供よりひどい有様で寝転がって。でも、先ほどと比べると、なんて自由な空気だろうか。
春の終わりの生ぬるい風。高い空。曇りらしく星は見えないけれど。
「……――ふふ」
そこでようやく、笑うことができた。
家の者は探しに来なかった。
今の状態こそ見せてやりたいのに。高価なドレスを草汁や牛糞で汚したまま、装飾品をその場に投げ捨て髪を振り乱し、これが本当の自分だと声高に叫びたかった。お前らが見ているのは虚構であり虚飾、美しく優雅なお嬢様などもうこの世のどこにも無いと。……しかし、それは叶わないようだ。
知っている。両親が家の者を寄越さないのは、この場では出来ないからだ。外国の客人の前で今頃は必死になって取り繕っているだろう。人手が足りないので給仕の要員を割くことも恐らくは出来ない。古参の使用人をすべて解雇したツケだ。何より。
外聞のみを気にしている両親は、娘の心が壊れようと一向に構わないのだ。
「ふ、ふふふ、……ふふっはははっ……ぁ」
壊れた飾り人形の嗤いが、寂しく草原に溶け消えていく。
銀箔付きの令状を手にした彼が震える声で言っていたことを思い出す。
『覚えがない、ぼくはこんなことに志願した覚えなんて無い。でも、どうしてだが取り消せない状況になったみたいだ』
なんでも、酔った拍子に薦められた書類にサインをしてしまったらしい。楽天的で鈍くさい、彼らしいともいえるお馬鹿な現状。
でも、彼は震える声で、瞳に勇気を灯し、ジェシカにこう言ったのだ。
『……でも、ぼくは逃げる気が無いよ。だって、ジェシカのご両親に認めてもらいたいから』
だから、これはチャンスなのだと。
『ぼくは、ジェシカとの結婚を皆から祝福してもらいたい』
そう言って旅立った彼を、両親は無かったことにした。皆は、その存在を否定した――
(悪魔。悪魔だらけのこんな世界、なくなってしまえばいいのに)
・
・
・
やがて、すっかりと日が落ちた。
草の匂いと暗闇の中、起き上がる。力は出なかったけど、そうするしかなかった。こんな時でも完全に壊れられない自分が恨めしかった。心はとっくにひび割れているのに。
くしゃくしゃの格好のまま、膝を抱える。とりあえず近くの沢で汚れを落として、そして裏口から自邸に戻ろうかと頭の隅で考える。我に返ってから体面を気にする器の小さい小娘。
うずくまって、声に出たのは彼の名前だった。助けを呼ぶように、励ましを求めるように。返事は無いとわかっているのに。
なのに、何度も呼んだ。
そして。
「―――――ジェシカ?」
ばっと顔を上げた。暗闇に白々と、なぜか灯りも無いのに浮かび上がった姿があった。
ああ、幻覚かと。やっと頭がいかれたのか、これは丁度良い、と微笑んでもう一度名を呟いた。とうとう壊れることが出来た、と。
しかし、その幻覚は音を発したのだ。
「ジェシカ、? ……違かったら言ってくれ」
そして、その顔が、ジェシカと同じく呆然としている。幻覚にしてはやけに現実的な表情、そして声。
「ジェシカ、ああやっぱりジェシカだ……!」
これは。
「ジェシカ、」
これは、夢だろうか。
「ジェシカ、ぼくだよ……!!」
いや、現実だ。
走る。ぐしゃぐしゃのドレスで、何度も転びながら、草原を突っ切る。彼だ。彼が居る。ここにいる。
「……っ、……!」
急におそろしくなり、近くで立ち止まった。突然で。嘘みたいで。これは幻覚だと、幻覚のはずだと思う頭があって、しかし本物だと感じる心があって。
声も出ず、震える手を伸ばす。幻覚ならここで消えるはずだ。もしくは、他人の声が聴こえるはずだ。
しかし。
「ジェシカ」
幻覚は消えなかった。握り返される温度があった。
ふにゃっと崩れた表情。引き寄せ、抱きしめてくれる腕。息遣い。覚えのある温もりと匂い。嘘だと叫ぶ前に歓喜で胸が潰れた。
彼が、生きてる。
「ああ、なんてことだ、……ジェシカ、帰ってくるのが遅くなってごめん、本当にごめん」
彼が涙声で何かを言っている。ジェシカはぶんぶんと頭を振って彼に縋りついた。昏かった世界一面に光が広がり、瞬く間にジェシカを満たした。生ぬるかった風が暖かなものとなり、高い空が澄み渡り、星が見えない夜の空気が柔らかな揺り籠となる。
ひび割れていた心に、突如として沁み渡った事実。
彼が、ここにいる。
彼がいるこの現実こそ、まこと。何ものにも代え難い、ジェシカの真実。
ぎゅうっと唯一を抱きしめる。記憶にあるよりも彼の身体はがっしりと逞しくなっていて、とても良い服装をしていて、見える肌には無数の傷跡があった。訊きたいことは山ほどある。でも、今はただ、こうしていたい。
どうしてここにいるの、とかなんで今まで音沙汰無かったの、とか全ての疑問に蓋をする。――あなたがいるだけで、私はそれだけで。
「……、あ、あいしてるの、」
「うん、ぼくも愛してる」
「ずっと、ずっと、そばにいて、もうはなれないで、おねが、っ」
「うん、もうこれからはずっとジェシカの傍にいるよ……!」
ようやく絞り出した心からの望みに、彼は頷いてしっかりと返事を返してくれた。そこでようやく安心して、ジェシカの目から涙が溢れ出す。泣きつくし枯れ果てたあの頃とは違う、歓喜の涙が。
もう離さない。離れない。
ジェシカは、感情を取り戻した。
……そして愚かな娘を抱きしめ肩に顔を埋め、悪魔は笑った。




