『case51 右見て、左見て渡りましょう。』
僕は道を歩いていた。
何を当たり前のことを、と思うかもしれないがいつまで普通に歩いていられるのかわからないため、できるだけ今できる当たり前のことはしておきたいと思って歩いていた。
人が歩いていること、車が走っていること、信号が赤から青に変わること、笑い声、子供の泣く声、時折、怒声。
人は生まれた環境によって『当たり前』が違う。
生まれた国が違えば、生まれた地方が違えば、どこの幼稚園に通えば、どこの小学校に入れば、中学校や高校に入れば、就職したか大学に進学したか、両親がいるかいないか、貧富の差があるかないか。
数えられないほどの要因を持って人は生まれ、そして育ち死んでいく。
『当たり前』を感じることもなく生きている人はきっと幸せなのではないだろうか。
『当たり前』は失ったときにに気づくものであり、失うまで大事だったことにも気づかないものなのだ。
僕はこうして当たり前に道を歩いていることも、もうすぐできなくなるのかもしれないと思うと、周りにいる人たちが羨ましく思えた。
そして、そんな気持ちだったからなのだろうか?
些細なことでも、迷惑な行為に思えてくるし、いつもなら気にしないようなことでも天罰を下したくなるのだった。
『case51』
横断歩道でもないところを渡っている人はよく見るし、自分もたまにやってしまう。でも、そのおじさんは車が来ているのかどうかも確認せずに車道へと踏み出した。
運良く、それに気づいた運転手がブレーキをかけたし、距離もあったから大事に至らなかったが、十分に危険な行為だ。
・対象
おじさん
・行為
横断歩道でもないところをよく確認せずに渡る。
・天罰内容
路面が凍結していて転び、もう少しで車に轢かれそうになる。
僕は『実行』と思い、その場を離れた。
気温が低くなるのも天気のうちに含まれるかが少し疑問だったが、寒気が来ることによって雪や雨が降るのだから、路面が凍結するほどの気温の低下も天気に含まれるだろう。
自分なら渡れるとか、車の方がスピードを緩めてくれるだろうとか、そんな何も根拠のない理由で飛び出した人を怪我あるいは死なせてしまった側の気持ちも考えるべきだと心底思った。




