『case21 追い越す車』
日野さんと別れ、帰宅した僕はパソコンを開き、『神様ゲーム』を起動した。
日野さんの話では天罰の回数を重ねるだけでは意味がなく、何か他の要因があるのだろうということでまとまったが、経験値を積み、ランクを上げることはどちらにしても必要だと言われたし、僕もその点に関しては考えていたことなので、caseをこなすことにした。
「case21 40代男性。
仕事から帰る帰路で、交差点で前の車を追い越す。」
車の追い越しは色々と条件があって、してはいけない場所が決められている。例えば、中央線が黄色の所は中央線をはみ出して追い抜きをしてはいけない。当然、車道の幅が狭ければ中央線をはみ出さずに追い越すことはできない。その場所では追い越しをしてはいけない。
他にもあるが、このcaseのように交差点での追い越しもしてはいけない。これは、右折左折等の特別な運転操作を行う場所であることや、歩行者や自転車の安全を守るためにもしてはいけないのだ。
これらの行為を行えば、道路交通法違反で罰金や免許の停止等の措置や事故を起こせば懲役刑になる可能性すらある危険な行為だ。
犯罪行為なのだから『重度』を選択して、具体的な天罰が表示された。
1.追い抜こうとした車がスピードを上げて追い越しを阻もうとしたので、反対車線を逆走する形になり諦めて、もとの位置に戻る。
2.追い越した先で車線に戻りきれず対向車と正面衝突する。
3.交差点で追い越そうとしたところでパトカーに見つかり、免許を剥奪される。
すべてが人為的なもので天罰と呼べるものがない気がする。
1は、追い越されそうになった車の運転手が大人になればいい話だ。3も警察官の正当な取り締まりだし、2も最終的に車と正面衝突するが、運転手の技術不足のために起こった事故だし、反対車線の車の運転手も気を付けていれば避けられた事故だと思う。
どの天罰にするかで迷う。
1ならもとの位置に戻るだけで、追い抜こうとしたのにできなかったことは恥ずかしいが、不利益と呼べるほどのことは何もない、
2は車同士がぶつかるのだから、運転手だけでなく相手の車の乗員にも被害を及ぼすだろう。もし怪我人がいなくても車は確実に故障するだろう。
3は、警察に捕まるだけで周りに迷惑をかけることもないし、こんな危険な行為をするやつには免許を持たしておくわけにはいかないから剥奪されてしまえば良い。
そう考えると3が妥当な気がして、3を選択して『決定ボタン』を押した。確認画面に進み、
・天罰対象
40代男性。
・行為
交差点で前の車を追い越した。
・天罰内容
交差点で追い越そうとしたところでパトカーに見つかり、免許を剥奪される。
僕は『⚡』ボタンを押した。雷が三本落ちて、『結果報告』が表示された。
「40代男性は仕事で疲れていたため、早く帰宅したいがために、信号待ちの車の横の右折レーンに進入して、信号が青に変わった瞬間に信号待ちの車を追い越そうとした。
そこで、交差点の逆方向からパトカーが来て、止められた。
道路交通法違反、危険運転、元からたまっていた反則点で免許を剥奪された。
今回の評価はAです。経験値を70獲得しました。」
良い方の評価だと思いながら『評価内容』に進んだ。
「今回の天罰は、自動車の運転という一歩間違えば容易く人の命を奪ってしまう、そんな危険を内包した行為の中で、意図的に危険な行為をした人へのものでした。
本来なら警察が取り締まらなければいけないですが、日本に走る車を1台ずつ監視することは能力的にも人員の問題でも不可能です。
しかし、危険な行為とは他人にとってだけでなく、行為者にとっても危険なのだということを認識する必要があるでしょう。
警察に捕まらなければ何をしてもかまわないと思うのは愚かなことであり、警察が見ていなくても『誰か』は見ているものなのだということを意識して生活することも自分が迷惑な行為に巻き込まれないために重要なことなのかもしれません。
今回の対象者は、自分の行為の危険性も誰かに見られているという認識もなかったために今回のような結果になりました。
免許がなくなれば堂々と車を運転することはできなくなります。
そういった意味では危険運転をする免許保有者が世界から一人消えたことになります。
何より、法律によって治められている日本では、法律によって犯罪者を裁くべきであると思われるので警察に処遇を一任する今回の天罰内容は良かったと思います。
しかし、免許を持たずに車を運転する人もいます。
今回の天罰対象者が、今回のことを反省して、二度と危険運転をしないことを願いたいものです。」
つまり、表向きは警察に任せたことは良かったが、この対象者が改心せずに無免許でも車に乗る可能性を残していることや危険運転をやめない可能性もあるということが言いたいのだろう。
そう考えるなら、この対象者が二度と運転をできなくなるような天罰を下した方が良かったかのようにも考えられるが、僕はそうだったとしても、この対象者が改心して二度と危険運転をしないことを信じたかった。




