ネギを背負ってやってきた 5
グリデルタの金切声が木々を擦り抜けて広がる。
膝の痛みとゴブリンへの嫌悪感から反応が遅れたが、目の前に緑の鎧が飛び込んで来たことで理解出来た。咄嗟に身を捻じ込んだ勇者は、投げられた石の塊を顔面で受け止めている。
村を救うために現れた英雄が自分を救うために、緑褐色の肌をした化け物にやられてしまった――少女は恐慌状態に陥っていた。
「ヒャヒャヒャ、ヒャヒャっ」
当初の狙いとは違ったが、人間の顔へと石が当たったことを受け、魔物は愉快気に声を漏らす。これで都合、一対三で残る二人は女。強そうな男は未だにゴブリンを捕まえており、手出しは出来ない。更には先程の大きな悲鳴のおかげで、仲間がすぐにやってくる筈だ。
これでは負ける訳がない。一頻り計算を終え、ゴブリンは獲物を舐め回すように眺めた。眉こそないが、眉根を寄せた真ん丸な目の先には恐怖する少女。この後、仲間たちと近くの村を荒らしつくすのもよいかもしれない。弱い自分でも久しぶりに人が食えるのだと、言いしれない悦に入りながら首を動かしていた。
「ヒャヒャ……?」
不可解な思いがして、笑みは止んだ。緑の髪をした方は手を組んで祈りの仕草すらしていたが、残った二人が二人とも、グリデルタのような悲壮さを浮かべてなどはいない。
「憐れ。勇者の前で、人を食べようと思ったな」
「オマエ、何を言って――」
思わず問い返そうとしたゴブリンであったが、鮮やかな緑の腕にギリギリと口を絞めつけられる。それどころか、食い込む手指には尚も力が込められた。
背丈の低いゴブリンは、持ち上げられて必死に足をバタつかせるが状況は何も変わらない。
「お、おい、アレは本当に、ニンゲンか?」
それはどのゴブリンが溢した言葉だったか。現れた三体の魔物は全て身動きが封じられているし、皆が皆、同様に驚きを浮かべていた。
顔面に石の直撃を受けてなお平気こと、それは大した驚きではない――少年の割れた額から流れ出る血液が、深い皺の刻まれた眉間、眦を伝う。泣いているような、憤怒しているような、およそ人らしからぬ表情を浮かべるものが、そこにいた。
世間の勇者へのイメージがどんなものか。それは、この少年は知らない。だが彼は、魔物から人を守るために勇者と成った。人を食う悪鬼を捨て置くことは出来ない。
「あっ」
間の抜けた声をその場に居たものは耳にした。不意に落下感を覚えたゴブリンが溢したものだ。今更ながら、この化け物は気づいた。先程の少女の祈りは、己へと向けられていたことを。
離された手指は固く拳の形に握られ、振りかぶられる。続き、緑色のそれは真っ直ぐに放たれた。
“化け物だ”
言葉にする暇もない。彼が投げた石よりも少しばかり小さな緑色の拳が、顔面に迫るその瞬間。ゴブリンは恐怖に顔を引きつらせる間もなく絶命した。
(……やっちまった)
吹き飛んだゴブリンの行く末を見届け、後続へと視線を移して少年勇者は失態を嘆いだ。短気を起こすなど、勇者失格ではなかろうか。それを叱責するものはいないため、己で戒めるしかない。
村長の押しに負け、村娘を連れ立って行くことになった時から、なるべく戦闘は避けるつもりであったのにこれである。シャロに魔物のいない方角を案内させていたが、他に天敵と呼べるような種族のいないゴブリンは想像以上の数が山に巣食っていた。
グリデルタがどうこう言おうが、担いでいけばよかったのだ。
「あーあ、やっちゃったねー、ジオ」
「わかってるから、皆まで言ってくれるな」
シャロが無邪気な笑顔で失敗を論っているが、そちらに構う余裕はない。少女の悲鳴は大きかった。時期に仲間が現れることは想像に難くない。
「時間はあまり、ないか」
血を腕で拭いながら、勇者は思案する。少女の身を案じるならば、次の手を考えるべきだ。
「離セ離セーっ!」
「こら、大人しくしろっ」
こちらにも余裕のないものがいた。オッサンに羽交い絞めをされているゴブリンだ。瞳を血走らせながら、必死に身を揺すっている。先程から繰り返し抵抗し、通じないことはわかっている。にも関わらず、醜くあがき続けた。
仲間が来ることは間違いない。だが、救援が来る前に自分が鮮やかな緑をした化け物に嬲り殺されるのは必至。殴っただけで、オークに投げつられたように吹き飛んだ同胞。木の幹へ突き刺さっているが、あれはどう見ても首から上が失われている。
魔法、或いは加護によるものか。それはゴブリンには判別できなかった。ただ一つわかったことは、あんなものは喰らいたくない、である。
「抵抗するな。俺は何もゴブリンを根絶やしに来た訳じゃない」
「ひ、ヒィっ!?」
人間とは生まれながらに種族として圧倒的な差がある。それが、たった一人の武器を持たない者に怯えていた。自分がこの者を心の底から怯えきっていることに気づく。
「わかった、わかったカラ近づくナ!」
ゴブリンは好戦的ではあるが、戦闘狂といえはない種族だ。魔物としての矜持もかなぐり捨てて、彼は服従の意を示す。
「オーケー、話が早くて助かった。シャロ――」
「拘束だねー」
勇者の意を汲んだ少女が手を翳すと、淡い発光とともにゴブリン周辺の草木が伸びる。既に気配探知を解除していたシャロは、先程の勇者と同じ魔法を披露した。
「わ、わァっ!」
凄まじい速度で成長した草木がゴブリンの手足を絡め捕った。伸びる蔓は意志でも持っているのか、オッサンを避けて魔物だけを拘束してみせた。
「後で解放してやるから、黙っていてくれ」
「……むぐっ」
騒ぐ魔物へ、少年は出来るだけ優しく語った――硬い緑色の手甲を見せつけながらであったが。効果は覿面で、ゴブリンは唇を嚙んでまで言葉を呑み込んだ。始めから木に縛られていた方などは、途中から気を失っている。
「な、何だったの、今のは?」
一体何を見せつけられたのだろうか。ただの村娘である少女には、到底理解が及ばない。
何人もの大人を集めて対抗するゴブリンを、一人一人がお手軽に倒してしまっていた。ネギの勇者という呼び名こそ聞いたことはないが、むしろこれ程の人物がどうして吟遊詩人に語られていないというのか。
鬼――ふと隣国で噂される化け物の名前が思い浮かんだ。想像力豊かなグリデルタは、目の前の人物とそれをつなぎ合わせてしまう。この人物は、語り継がれてはいけない危険人物なのではないか。
「足、大丈夫か?」
「イヤ、触らないでっ!」
差しのべられた手を、村娘は力一杯払いのけようとした。しかし農作業で鍛えてはいても、少女の細腕では勇者の腕はビクともしない。その腕は、今まさにゴブリンを殴り殺したものだった。
「怖がらせるつもりはなかった……だけど、不用意だった。すまん」
手を払われても抗議することはなく、勇者は背を向けていた。これ以上彼女に近づくことは出来ない。グリデルタの怯える瞳は、ゴブリンが己へ向けたものと同じことに気づいたのだ。
ジオという少年は、自分がまだまだ修行中の身であるとは自覚している。それでも、大戦を終結させたという勇者の跡を継いだ彼は、既に人間という種族を越えた力を手にしている。こうして、人から怯えられることは少なくなどなかった。
慣れることはないが、それでも耐えることは出来る。父も同じように耐えていた筈だ。そう思えば、自分から投げ出す訳にはいかない。何より――
「ジオ、後は任せておくといいよ。人間はみんな、怖がりだね」
「……そうだな。素直に頼らせてもらうよ」
仲間の言葉を聞いた少年は、振り返ることなくこの場を離れ山を駆け上がった。村人を連れている間には見せなかった速度で、山の奥を目指す。
「立てる?」
走り去る勇者を見送ったシャロは、少女の傍へ浮遊した。
「無理よ、ケガしてるんだもの!」
素直な、飾らない返事であったが、宙に浮かんだ少女は眉根を寄せた。首を傾げるような、可愛らしくもとぼけた仕草ではない。目の前で告げられたことの意味が不可解であったため、笑みを浮かべることもなかった。
「ちょっと、シャロ様……」
その隣にいた近所のオッサンは、困ったような顔をして緑色の少女の肩へ手を置いていた。しかしそのことは無視をして、シャロは無表情にグリデルタを見ていた。
――心底わからない。何故この生き物は、ジオを化け物を見るような目で見て、自分には友好的に語りかけるのだろうか。
「私、どうすればいい?」
沈黙に耐えられず、口を開いたのはグルデルタだった。既に村へ帰りたくもなっていたが、少女の変貌を前に帰りたいとは口に出来ないでいた。
「どうもこうもないわ? 貴女がどうなろうと、私には関係ないもの」
「え?」
「シャロ様っ!?」
呆けた返事をした娘を見て、オッサンは焦る。先程までのとぼけた顔が姫と呼ぶべきものだったとすれば、笑みを絶やしたシャロは魔女と呼ぶに相応しい。
その手は緑色の光を灯らせながらグリデルタへ伸びていた。
「ちょ、ちょっと、やめてよ!」
恐怖に震えた村娘はあらぬ声を上げ抵抗した。伸びる手と光が振れれば、一体どのような悲惨な目にあわされるのか。
「やめてーー……うん?」
尚も叫び続けたが、いつまで経っても怪異は現れない。それどころか、触れられた膝元から痛みが消えていくではないか。
「なんてね。村人に何かあったら、ジオが悲しむから助けてあげるよー」
「あー、もう心配しますよ。お人が悪いんだから」
にっこりと華のような笑顔を浮かべたシャロを見て、仲間のオッサンはようやく安堵の息を吐いた。
「何なのよ、本当に……」
ワッハッハと笑うシャロを見て、グリデルタは頭を抱えてしまう。今日は本当によくわからないことばかり起こる日だ。